シャンシャン、と鈴が鳴る音と、太鼓や笛の音が聞こえる。
いつもならもう少し音量は大きく、影達の楽しそうな声が聞こえるのだが、小雛が眠っていたからか少し音量が小さく、影達の楽し気な声は聞こえない。
頭を撫でられている感覚に小雛は目をゆっくりと開けた。
「目を覚ましたか、雛」
声が聞こえたのでそちらに目をやる。
声はするが、声の主の姿はなかった。
几帳が降ろされ、その奥に人影が映し出されている。
その人影が、声の主なのだろう。
「小町ちゃん…」
見慣れた光景、聞き慣れた声。
小雛は寝ぼけてはいたものの、ここは小町の生得領域だということは認識できた。
小町もそれ以上何も言う事もなく、小雛は少し惚けたようにぼうっとしていた。
瞬きを何度かしている間に目も覚め、小雛は体を起こし几帳の前に座っている小町の影へと視線を向けた。
小町の生得領域には二つの御帳台が置かれている。
一つは主である小町の。
もう一つは小雛の御帳台が並んでいる。
几帳は普段上がっているが、まるで小町を拒むように小雛の几帳は降ろされていた。
「…………」
小雛は口を閉じた。
どう声をかけようか迷っていたのだ。
そして、それは小町も同じなのだろう。
「小町ちゃん、聞いてもいいですか」
小町が何も喋らないのは自分に気を使っているからだ。
そして小雛が何を言いたいのか、小町は察している。
だから小雛の問いに頷いた。
小雛は聞こうとするも、躊躇してしまう。
小町を見る事は出来ず、俯き膝の上にある自分の手を見てしまう。
けれど、自分から問いかけたというのもあって何も話さないというのは少し悪い気がして、多少の間を置いてしまったが口を開く。
「どうして雛の記憶を消したのですか」
小雛の言葉に、十分静かなそこに更なる沈黙が訪れる。
いつの間にか音楽も消えており、今動いているのは小町と小雛だけということになるのだろう。
影達は小町に忠実である。
小町の邪魔をしてはいけないと静かにしてくれたのだろう。
それはすなわち、小雛の問いに小町が固まったということ。
小雛は彼女が返してくれるのを待つ。
その間、小雛は息苦しく感じた。
小雛も小町がどんな言葉を返すのか、どんな反応をするのか、緊張しているのだろう。
どれくらいの時間だろうか。
しばらくお互い口を閉ざしていると、小町が息を吐くのが聞こえた。
溜息ではなく、緊張している体の気を抜くようにその息は震えていた。
小雛は小町も体を強張らせているのだと気づき、自分だけではなかったと内心安堵した。
しかし、安心するのはまだ早い。
まだ小町の答えが小雛の望むものだとは限らない。
「…思い出したのか」
「はい…」
答えはまだ聞かせてはくれなかった。
だけど、小町との会話に強張っていた体の力が抜かれていくのは感じた。
それでも緊張はまだ残っており、小雛は頷きながらぎゅっと手を握った。
「…そうさな…あのような牢獄に閉じ込められて家族の記憶があると雛が苦しくなると思ったからじゃ…家族を覚えているとその者たちに会いたくなる…しかしあの屋敷の者共やあの男は決して雛を外には出さないだろう…ならば、忘れた方が…思い出が残っていない方が雛が悲しまなくて済むと思ったのじゃ」
『まあ、消しきれんかったみたいじゃがな』、と小雛が時々顔さえも思い出せない家族を思い出して寂しがっているのを気づいていたのだろう…小町は小雛を申し訳なさそうに見つめてくる。
幼かったから家族の顔は覚えていないのだと思っていた。
幼かったから、物事も覚えていなかったのだと。
だが、それは小町が小雛の記憶を封じたからだと分かった。
その理由は小雛を想ってのこと。
牢獄ともいえる場所に囲われて…出してと叫んで泣いて癇癪を起したって誰一人小雛に手を差し出すことはない。
婚約者だの恋だの愛だの言って小雛に夢中なあの男だって小雛に手を差し出した事など一度としてない。
まだ3歳だった小雛には地獄に等しい世界だったろう。
ならば、その元凶である自分ができる事は一つだ。
楽しかった記憶、家族の記憶、幼い頃に覚えている記憶を消すことで、外の世界への興味を失くした。
『勝手なことをしてすまない』と家族の記憶を消そうとしたことへの謝罪を零せば、小雛は首を振る。
「…謝らないでください…小町ちゃんは悪いことはしていません…」
小雛の言葉に小町は目を丸くする。
几帳越しなため、表情は分からないが、柔らかい声色からして笑っているのだろう。
小町は悲し気に笑う小雛の表情を思い浮かべながら『なぜ』と呟く。
小雛の性格上、怒ることはないが『どうして』と泣くと思ったのだ。
「怒らぬのか?妾は勝手に雛の家族の記憶を消したのだぞ」
小町の言葉に小雛は几帳に映る小町の影を見る。
小町は俯いているように見えた。
小雛はそっと几帳へ手を伸ばし、綻びに手を差し入れて捲る。
すると隔たれていたものがなくなり、小町の姿が小雛の瞳に写る。
小町は悲し気な表情をしていた。
家族や日常の記憶を勝手に消したのは小町なのに、小雛よりも悲しそうな表情だった。
生得領域でも小町の姿は小雛の体で過ごしている。
小町は小雛との性格の違いなのか、釣り目をしていた。
小町の顔つきは大人っぽく、流し目のような釣り目が女性らしくて色っぽい
同じ顔、同じ体なのに、何もかもが違い、小雛は自分の顔や体なのに小町の女性らしい雰囲気や表情や仕草が羨ましかった。
小雛は同じ顔なのに小町の方が整った顔をしていると思っている。
小雛は小町を別人として認識していたため、同じ顔とは思えなかった。
そんな綺麗な小町が悲しそうな表情を浮かべているのが悲しかった。
膝の上で握られている小町の手に、小雛は重ねるように触れる。
「確かに小町ちゃんがおじいちゃん達の記憶を消した事を知って雛はとても悲しかったです…あんな所に閉じ込められて…悟様しか頼れる方がいらっしゃらなくて…縋るものと言えば記憶しかなかったのに雛はおじいちゃんもゆうくんもお父さんもお母さんも思い出せなくて悲しかった……でも…それは小町ちゃんが雛のためにしたことなのでしょう?なら、雛が小町ちゃんを怒るのは罰当たりです」
「罰当たり?」
「はい…小町ちゃんが雛のためにしてくれたことを…小町ちゃんの優しさを…雛が拒むのは違うと思うのです…悲しかったけれど…でもだからって雛は一人ではなかったですから…」
『一人じゃなかった』という言葉に小町は更に怪訝と小雛を見る。
言葉にしなくても小町の疑問に思っていることが分かる小雛は、触れている小町の手を握り笑みを浮かべて小町を見つめた。
「小町ちゃんと悟様がいてくださった…だから、雛は一人じゃありませんでした」
小雛の言葉に小町は目を丸くした。
小雛と繋がっている手が熱く感じる。
だけど不快感はなく、小町は小雛と離れたくないと言わんばかりに自身も小雛の手を握り返す。
「雛…お主はどうしたい?」
小町は一つ小雛に問いかけた。
その問いの意味が分からず、小雛は首をかしげる。
キョトンとさせる小雛に小町は、小雛の手を握りしめながら微笑みを浮かべる。
その笑みは特級は勿論、伏黒達や五条、更には我が仔、我が子にさえ決して向けたことのない慈愛に満ちた笑みだった。
「外に出れた、それは僥倖じゃ…しかし、妾達は今、身一つで放り出されたのと同じ…外には今縛りを結んだ呪術師が守っておるが妾達が目を覚ませばその縛りは無効となる…ならば、その後の事を考えねばなるまい…」
――お主はどうしたい?
そう問われたが、小雛は目が点となった。
小雛の記憶では真人達と一緒にいた光景が最後だったのだ。
それがいつの間にか外に出て呪術師とやらの世話になっていると聞き、更にはその後の事を決めろと言う。
この体の主導権は小雛にあるのだから小町の問いは当然と言えば当然だが、突然すぎて小雛は頭が追いついていない。
「えっと…真人様達はいらっしゃらないのですか?」
「あやつらはいない…そもそもあやつらは妾を攫ったならず者じゃ…雛が気にする事ではない」
ならず者…とオウム返しのように呟きながら小雛は彼らの記憶を思い返す。
ならず者の意味は小町に教えてもらい知っているが、だから小雛はしっくりこなかった。
彼らは優しかった。
主に真人と陀艮と遊んでいたが、夏油も花御も漏瑚も裏梅も世話になっていて何も出来なかった自分に対して優しくよくしてくれた。
『そうでしょうか』と思わず呟いた小雛に小町は片眉を上げて小雛を見つめる。
「真人様達は優しい方々でした…雛はあの方達に何もお返しが出来なかったのが心残りです…」
どういう理由で離れてしまったのか、小雛は眠っていたため分からないが、彼らによくしてもらった記憶があるためお礼さえ言えなかったことが残念に思う。
しょんぼりとさせ俯く小雛に、小町は冷めた表情を浮かべていた。
「……やはり、駄目じゃな…」
ポツリと呟いた小町の声に小雛は顔を上げる。
顔を上げて見る小町の表情はいつもと変わらない小雛にしか向けない慈悲深い微笑みを浮かべていた。
「雛は優しい良い子じゃの…そんな雛が妾は大好きじゃ」
そう言って小町は小雛に抱きつき、支えられなかった小雛はそのまま仰向けに倒れてしまう。
布団の上に押し倒された小雛は自分の上に覆い被る小町を見上げる。
先ほどの呟きは聞き取れなかったが、小雛の耳に届いた小町の声は凍るようなほど冷たく聞こえた。
しかし表情は微笑みを浮かべており、小雛は小町の本性を知らないため、聞き間違いかと片づける。
「雛、まだお主の意志を聞いておらぬ…お主はこれからどうしたいのじゃ?もうあの屋敷には帰れぬ…しかし、お主が呪術師を傍に置きたくないというのなら…あの男の傍にいたくないというのであれば、妾がお主を逃がしてやろう…妾がこれからずっとお主を守ってやろう…お主の好きな道を選べ…それが地獄であろうと…妾は妾と交わした縛りを破かないかぎりどんな道であろうと共に行くことを誓おう…」
そっと小雛のふっくらとした頬に触れる。
親指で撫でるその仕草はとても優しく慈悲深い。
しかし、その言葉はまるで人間を惑わす悪魔のようだった。
小雛は小町が怖く感じた。
言葉ではない。
縛りは小雛も承知した上で結ばれており、異論はない。
どんな道を選ぶのか、それこそ地獄を選ぼうと小町となら何とか頑張れる気がした。
しかし、こちらを見下ろす小町の光のない瞳が怖かった。
まるで頭からガブリと齧られ食べられるようで、小雛は怖く感じた。
けれど、怖いと思いながらも小雛は小町ならば食べられてもいいとさえ思う。
小町とは3歳からの付き合いである。
小雛にとっての彼女は姉であり母でもあった。
小雛は床に放り出されていた両手で小町の頬を包む。
やはり同じ体を共有しているのに、ふっくらと丸々として子供っぽい自分の頬と違い、小町の輪郭は整っていた。
「雛は良い子ではありませんよ…雛は最近、雛が我儘だと分かりました……雛は我儘なのです…我儘だからあの方を選びたい…悟様のお傍にいたいのです…例え悟様に嫌われても…悟様に要らないと言われるまでお傍にいたいのです…」
小雛の心はずっとあの男で満ちていた。
小町は小雛の答えが分かっていたのか、何も言わずただ『そうか』とだけ答え小雛の上から退く。
手を引かれながら体を起こした小雛は、小町と向い合せに座り笑う小町に釣られたように笑みを浮かべた。
「雛が選んだ道ならば妾もその道を歩もう…しかし、あの男が何をしたか…あの呪霊共から聞いて覚えておるのだろう?それでもあの男の傍にいたいというのか?」
小町は繋がっている小雛の手をぎゅっと握りしめる。
ぐっと握る力を強くする自分の言葉に小雛の肩が僅かに揺れたのを見た。
「……悟様にも事情があったのでしょう…雛は悟様が理由もなくゆうくんを殺したとは思えません…雛は人の言葉ではなく悟様に…悟様のお言葉で事実を知りたいです…」
「もし理由なく愚兄らを殺害したとしたら?理由もなくただの癇癪ならばお主はどうする」
小町は内心呆れかえる。
いくら無知とはいえ、ただの刷り込みでここまで心酔できるのか…と。
これが恋だ愛だと言われても小町には理解ができないだろう。
小町は過去も現在も小雛を除いた人間に心を動かされたことはなかった。
小雛は可愛い器として愛してはいるが、それは親愛のみで、恋や愛は今まで感じたことのない感情だった。
だから、小雛の言葉を無知故の心酔だと思い、呆れた。
それを決して愛だとは考えつかない。
試すような問いに小雛は首を振って見せた。
「悟様がそのような事なさらないと雛は信じています」
「…………」
ますます小町は小雛に理解ができず、何も返せなかった。
黙り込んだ小町を小雛は真っ直ぐ強い意志を持った瞳で見つめる。
その瞳に、小町は思わず見惚れてしまう。
「…そこまで言うのであれば妾も信じよう…」
小町は愚兄とは違い、器である小雛を溺愛している。
それは小雛という人間性も好ましいが、何よりここまで器を大事に思うのは、器と交わした縛りに関係している。
小町は『だが』と続け、小雛の手を放し両頬を包み込み、ジッと小町も小雛を見つめ返した。
「だが、縛りは違えるな…妾は誰でも構わぬのだ……いいか、小雛…妾はお主が縛りを守るのであればいくらでも待とう…しかし、縛りは違えるな……縛りは約束ではない…制約じゃ」
―――いいな、違えるなよ、小雛。
小町の言葉に目を瞬かせる。
小雛からしたら何度も何度も聞かされた言葉だ。
しかし、体が起きようとしているのか、小雛は小町の言葉に返そうとするが強烈な眠気を感じ…小雛は耐えきれず瞼を閉じ眠りについた。
ゆっくりと瞼を閉じ眠りにつく小雛を小町は見守り、眠りについた小雛の体をゆっくりと優しく横に寝かせた。
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