小雛の言葉に、五条は固まった。
優しく頬を撫でていた手が止まり、固まったように動かなくなった五条に小雛は首を傾げる。
―――虎杖。
その苗字を五条は知っている。
少し前に死んだ生徒の名だった。
「いたどり…虎杖、小雛…それが雛の本当の名前…」
繰り返す五条の呟きに、小雛はコクリと頷く。
脳裏に一人の少年の姿が過った。
しかし、確かな証拠はない。
虎杖という苗字は確かに珍しいが、一家族しかいないわけではない。
そして、兄だと言った『ゆう』という名前。
五条はバラバラだったピース全てが揃い綺麗にはめ込まれた気がした。
「もしかして…ゆうくんって子の名前…虎杖悠仁だったりしない?」
否定してほしいと心から願う。
しかし、その願いは天には届かなかった。
小雛は五条の問いにニコリと笑って頷く。
「悟様すごいです!そうです!ゆうくんの名前は虎杖悠仁です!」
『よくわかりましたね!』とニコニコと笑う小雛に、五条はその場に項垂れた。
小雛の膝の上に顔をうずめるように項垂れる五条に、小雛は心配になり『悟様?大丈夫ですか?』と声をかける。
気分を悪くしたわけではなく精神的なものなため、五条は心配そうに声をかける小雛に『大丈夫…』とだけしか返せなかった。
その言葉を信じていいのかは分からないものの、小雛は本人が大丈夫というのならと膝の上にある五条の頭を撫でる。
その手のお蔭か、五条は気持ちが落ち着くのを感じた。
そのせいか、五条は気づいてしまう。
(全てを知っているってこの事か)
小雛が保護される前に小町が放った言葉。
五条は最初それが苦し紛れの言葉だとばかり思っていた。
全てというのも宿儺を見つけていた事だとばかり。
しかし、それは五条の誤りだと気づく。
小町が言った『全て』とは本当に全てなのだろう。
自分の名前のこと、家族のこと、どこに住んでいて、宿儺が器に宿り蘇り、その器が兄だということ、そして…兄が死んだということも。
だが、ふと、五条は気になり膝の上から顔を上げて小雛を見上げる。
「悠仁…雛のお兄さんを殺したのが僕だってどういうこと?」
気になった事とは、小雛が言った『兄を殺したのが五条』だという部分だ。
とはいえ、それは決して間違いではないだろう。
虎杖が死んだ原因は五条ではない。
しかし、生徒を守れなかったという点では同義である。
ただ、小雛が本当に五条が虎杖を殺したと勘違いしているのであれば…一度だけでいいから否定させてほしかった。
その否定を聞いて、真実を聞いて、それでも五条を責めるのであればそれを受け入れるつもりだ。
小雛が嫌っているからという理由だけで五条は小雛を手放す気は一切なく、小雛が憎んでいるのならその感情と共に受け入れ愛したい。
それが一生許されないことだとしてもだ。
しかし、予想外に小雛の瞳に憎悪は感じられず、小雛は五条の問いに首を傾げた。
「誰かからお聞きした気が…ですがそれが誰なのか分かりません…」
考える素振りを見せる小雛に、五条は相手が誘拐犯だと気づく。
『分からないなら仕方ないよね』と言って慰めるふりをして株を上げようとした五条を、小雛が『あ』と声を零して遮った。
「でも…小町ちゃんにもしも本当に悟様がゆうくんと小町ちゃんのお兄様を殺したらどうするのかと聞かれました」
(やっぱりあいつか!!)
元凶ではないと思うが、元凶の一つであるのは確かだろう。
五条の脳内ではこちらを馬鹿にしたように見下して高笑いしている小町の顔が浮かんでいた。
同時に、小町が眠りにつく前に放った『捨てられろ』という言葉が嫌でも思い出してしまう。
「雛のお兄さんを殺してしまったのが僕だとして…雛はそれを聞いてやっぱり僕のこと恨んでる?」
聞いて頷くことはないと五条は分かってはいた。
小雛は我が儘を言わず五条と小町の言う事を聞く良い子だということは、五条と小町が一番知っている。
そう育てたのは五条と小町だからだ。
だから、聞いても五条に憎んでいるとは言えないだろう。
だが、偽りでも真実でもなんでもいい。
小雛の口から憎んでいないと聞きたかった。
それは"一度"彼を殺してしまった自分を救ってほしいと思う願望からだ。
五条は縋るように小雛を見つめる。
五条の目は覆われて見えないが、どこか縋るように見つめているように小雛は思えた。
だからではないが、小雛は五条の両頬に手を当て、ふと微笑みを浮かべる。
「例えゆうくんを殺したのが悟様であっても雛は悟様を恨みも嫌いにもなりません」
その言葉に五条の心がほわりと温かみを帯びた気がした。
嘘をついているのか、それとも本音かは分からないが、小雛が表向きであっても自分を嫌っていないと言ってくれたことが嬉しかった。
「それに雛は悟様が理由もなく生徒様を殺すことはしない方だと信じておりますから」
五条はその言葉に息を呑んだ。
絶対的な信頼を五条は感じた。
それに対するプレッシャーは感じてはいない。
ただあるのは喜びだった。
(いいね…やっぱり雛もイカれてる)
家族と11年も離れていたら本来は情も薄れるはず。
それを前提として言っているのなら、別にどうとも思わなかっただろう。
しかし、小雛の口ぶりからして、小雛は家族と離れていても彼らに対しての情は十分にある。
なのに、五条が兄を殺したとしても許し、そして殺した理由さえも何か事情があるのではないかと思っている。
それをイカれていると言わずして何というのだろう。
五条は微笑みを向ける小雛に、ぞくぞくとした何かを感じた。
口端が上がってしまうのを誤魔化す様に、『そっか』と安堵の息をつきポスンと小雛の膝の上に戻りにやけ顔を隠す。
そんな五条など気づかず、小雛は膝の上に乗せる五条の髪を撫でる。
五条はその優しく温かい手を受け入れながら、『そういえば膝枕してもらったの初めてだな』と心の隅で思う。
(いつも会いに行ってもすぐに帰っちゃうからなぁ…こんなに雛とゆっくりしたのは初めてじゃないか?)
小雛と会う時間は恐らく五条の知り合いの中で一番短い。
短くて顔を見てすぐに仕事に行くことも多々あり、30分いられたら長く感じるくらいだ。
そのため、こんなにも長く小雛と過ごした事が初めてだった。
(いや…"あの時"以来だったかな…)
しかし、ある記憶がそれを否定した。
『あの時』とは、小雛が食事を拒み死を望んだ時。
あの時は任務も全て投げ出して小雛の傍にいた。
後にも先にも、何日も任務を投げ出したのはあの時が初めてだった。
「あの…悟様…お願いがあるのですが…よろしいでしょうか…」
しんみりしはじめた時、五条の頭を撫でていた小雛が声をかけてきた。
小雛の手が気持ちよくてうとうととしかけていた五条はハッと目を覚まし、顔を上げて小雛を見る。
声色と同様、小雛は眉を下げ申し訳なさそうな表情を浮かべ、五条の顔色を窺っていた。
「いいよ、なにかな?」
小雛のお願い…すなわち、その我が儘は我が儘ではない。
小雛のお願いは五条にとって可愛いお願いでしかなく、過去付き合ってきた女性達のブランド物欲求に比べると安く、五条を幸福に導くものだった。
勿論、小雛がブランド品や高級品を求めるなら、いくらでも貢ぐつもりではある。
しかし、小雛のお願いは気軽に頷いた五条の予想を超えたものだった。
「ゆうくんはどのように亡くなったのかご存じでしたら教えていただけませんか?」
小雛の言葉に五条は目を丸くした。
小雛が兄の死を知りたがった事が予想外だった。
「どうして聞きたいの?…お兄さんの死を聞いても雛が悲しむだけだよ?」
相手がどのように虎杖の死を小雛に伝えたかは分からない。
記憶がないのだから小雛に問いただしても意味はない。
伝えた相手の記憶は消しても、伝えた内容を消さないのはまさに特級呪物故の悪趣味と言える。
どんな伝え方をしたにせよ、五条としてはあまり伝えたくはなかった。
自分の印象が悪くなるのではなく、小雛が悲しんでしまうと思ったから。
五条は性格が捻くれている。
五条を良く知る人間が、顔には騙されずクズだなんだと答えるほど彼は決して性格は良くない。
だが、それでも、初めて愛おしいと思える女性を悲しませたいわけではなかった。
悲しませると分かっていたから、過去の女性を全て切り捨て、性欲処理すら小雛が悲しむからと相手を必要としていないほどである。
三大欲求の一つを自ら封じるくらい小雛を想い、愛している。
だから、できれば小雛には聞かせたくはないと思い、考え直させようとした。
しかし、小雛には首を振られてしまう。
「雛は知りたいのです…ゆうくんが…兄がどのような最後を遂げたのか…本当のことを知りたいのです」
「知ってどうするの……知ったってもう悠仁は帰ってこない…ただ雛を悲しませて…雛が泣いてしまうだけだよ…僕は雛を泣かせたくないんだ…それが例え雛を傷つけるものではなくてもだ…」
五条の想いを知って小雛は二の足を踏む。
五条は知らせたくないからと言って嘘をいうのだって出来るはず。
しかし、五条は嘘でも『知らない』と言わなかった。
『知ってる』とも言っていないが、五条の口ぶりからして知っているようにしか聞こえないし、五条は嘘を吐く気はないようだった。
五条の気持ちに、気遣いに、小雛は嬉しく思う。
だけど、それでも、小雛は知りたかった。
小雛は五条のさらさらとした手触りの良い肌を撫でるように頬に手を添える。
「ゆうくんは雛の家族ですから…家族の亡くなった理由を知らないなんてイヤです…悲しいです…寂しいです…」
兄が死んだ理由を話したがらない時点で、小雛は兄が碌な死に方をしていないのだなと理解した。
どんな死に方をしたのだろうか。
バラバラになって死んだのか。
黒焦げになって死んだのか。
人に裏切られ自害したのか。
その死体を小雛が食べてしまったのか。
小雛は全てが知りたかった。
「本当に雛にとって事実はつらい事だとしても知りたい?」
「はい」
「雛、泣いちゃうよ?」
小雛が全てを理解できるかは五条には分からない。
碌に教育をされてこなかった少女が、一般人にも難しいであろう呪術界の事を話しても理解できるだろうか。
その心配もあるが、何よりも、五条は小雛の泣き顔を見たくないのだ。
好きな子を虐めたいという気持ちを理解していても、嫌なことをして嫌われたくないし、そこまで子供ではない。
ただただ小雛には笑ってほしい。
笑って何でもない穏やかな日常を送って欲しい。
小町の器となった時点で小雛の人生は狂ってしまい、本来なら受けられる教育すら満足に受けられず、食べ物さえ罪を犯さなければ生きていられない。
そんな人生をまだ10歳にもなっていない幼い子供が背負うことになったのだ。
ならば、呪術師としても、想いを寄せる男としても、人間としても、大人としても…なんでもいい、肩書はなんでもいいから小雛が少しでも笑って過ごせるようにしてあげたい。
それが例え家族である兄の事だとしても、五条は泣くのを分かっていて伝えたいとは思えなかった。
だが、小雛と五条では考え方は違うようで、小雛は五条の言葉ですでに少し泣きそうになりながらも笑った。
「確かに雛は泣いてしまうでしょう…ですが…家族のことを知らないまま…ゆうくんがどのように亡くなったのかも知らないまま、生きていたくないです」
小雛の決意は固かった。
頑固さはきっと祖父譲りなんだなと五条は以前虎杖から祖父のことを聞いた事があったためそう思った。
血の繋がりを感じ、五条の心に暖かな感情が生まれた。
微笑ましいと、思ったのだ。
「じゃあ、条件がある」
虎杖家の血が流れているのなら、きっと小雛の気持ちは変わらないだろう。
兄である悠仁も明るく根明でいい子ではあるが、伏黒を救うためにと彼が止めるのを聞かず呪物を食べた経緯があり、学長に試されたとしても行き着いたのが呪術師として道だったので、あれでいて頑固なのだろう。
ならば、止めても無駄なのだと五条は諦めた。
ただ、一つの条件を呑んでほしいと願う。
首を傾げる小雛に目じりを下げ、宥めるように自分の頬に触れる小雛の小さな手の上に自分の手を重ねる。
「雛の思っている通り僕は雛のお兄さんの死因を知ってる」
「はい」
「お爺さんの事もね」
「!」
話題は兄である虎杖の事だが、小雛は兄だけではなく祖父の事も知りたいのだろう。
小雛にとって家族は兄と祖父しかいないのだ。
五条家の当主と生まれながらに決められ、何不自由なく過ごしてきた五条だったが、それでも分からないものの方が多い。
その一つが家族愛だ。
御三家だけではなく呪術師の世界は昼ドラも裸足で逃げ出すほどドロドロと生臭い。
だから小雛の家族を思う心を全て分かってあげることは出来ない。
それでも小雛がどれほど家族を大切に思っているのかくらいは感じ取ることができる。
「雛がそこまで言うのなら伝えてもいいけど…だけどね、雛…絶対に我慢しないで」
「我慢、ですか…?」
「そう、我慢…僕は泣くのを我慢してほしくないんだ」
一番いいのは、小雛が兄と祖父の事を聞かず過ごす事だ。
できるならば、小雛の記憶を消したままでいてほしかったが、小町がそれを拒んだ。
どういう理由で小雛の記憶を思い出させたのかは分からないが、流石に五条でも人の記憶を消す術式は所有していないためどうすることも出来ない。
記憶に関係している術式を持つ人物や呪物があれば別だが、そこまでして小雛の記憶を操作したいわけではないし、そもそもそんな術式存在しているのかさえ危うい。
小町が可能にしているのだから存在しているのだろうが、小町は弱いがあれはあれで特殊で特別な呪物なのだ。
小町が使用しているから探せば見つかるわけではない。
ならば、せめてやせ我慢だけはしてほしくはなかった。
泣かせたいわけでも、泣き顔を見たいわけでもないが、我慢してほしいわけでもない。
自分は家族が死んでも悲しみもないのだが、小雛は違うらしい。
小町の器として過ごした時間の方が長いせいか、どうも小雛が元々非術者の家系で生まれた事を失念してしまう。
家族と仲が良かったのは、兄の虎杖を見ていても分かる。
仲が良くなければ、11年経った今でも探そうとはしないはず。
「やせ我慢をしないって約束してくれなければ、僕は話せない」
とはいえ、正直に言えば仲の良い兄が死んだ理由を聞いて、小雛がどう捉えるのか興味はある。
教え子を救えなかった自分を責めるのか。
目の前にいて助けてやれなかった伏黒を責めるのか。
それとも、自害をさせた宿儺を責めるのか。
五条は白く育った小雛がどんな選択を選ぶのか興味があった。
―――だから、頷いた小雛に五条は全てを教えた。
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