(31 / 53) 本編 (31)
ゴミ袋に突っ込んだ手を洗っていると、風呂から上がった小雛が顔を覗かせた。


「―――――」


小雛の気配に気づき『出たんだね』とタオルで手の水滴を拭きながら振り返ろうとした五条はそのまま固まった。
カチンと固まった五条に、小雛は首を傾げながらおずおずとキッチンに入ってくる。


(分かってたけど!分かっててやったの僕だけど!!!想像以上に最高な彼シャツ!!流石僕の雛だね!)


心の中ではそう言葉にできているが、いざ口を開こうとすれば『はわわ…』と幼女のような声しか出ないのは確実なので口を閉ざすしか選択はなかった。
五条の前に現れたのは小雛だ。
その小雛は五条が用意した服を着ている。
その服は五条のシャツで、190cmもある身長の男の服を、身長が150cmの少女が着ればほぼワンピースになってしまう。
ズボンも一緒に置いたが、男の腰と少女の腰回りを一緒にしてはいけない。
当然ズボンが穿けないのを前提に置いていたので、この状況を作り出したのは五条本人に他にない。
余談だが、勿論下着はコンビニで購入済みである。


(ズボンを押さえながら来るかもとか思ってたけどこれはこれで…)


ズボンを無理矢理穿いた姿も良く、ズボンを押さえながら穿くのも良い。
どんな方法であれ小雛であれば可愛いと思ったため、ズボンがあろうとなかろうと五条としてはどちらでも大正解だった。


「ごめんね、ズボンが大きかったね」


勿論わざとである。
それに小雛が気付くわけがなく、しかし小雛の術式である犬呪霊の一匹はジト目で五条を見上げていた。
言わずもがなクロである。
わざとらしく謝る五条に、小雛は『大丈夫です』と五条を見つめながら首を振る。
小雛にしてはジッと見つめてくるので、五条はコテンと小首を傾げる。


「僕の顔に何か付いてる?」


小雛が顔をじっと見てくるため、顔に何か付いていたのか(主に血)と思い顔に触れるながら、鏡代わりにレンジを覗き込んで反射している自分の顔を見るが血どころか何も付いている様子はなかった。
小雛は不思議そうにレンジを見る五条にハッとさせて慌てて首を振る。


「す、すみません!じっと見てしまって…その…そのお姿の悟様は初めてでしたので…つい…」


不躾に凝視してしまった気恥ずかしさからか、お風呂後の火照りとは別に頬を染めて謝る小雛に五条はまた固まった。
『悟様?』と小雛の呼ぶ可愛い声で我に返った五条は、クスリと微笑んだ表情を貼り付けた。


「そっか、この姿で雛に会いに行ったことなかったもんね…」


小雛に会いに行くのはいつも仕事の途中だったため、オフの姿は初めて見せる。
それに気付き、五条は小雛を抱き上げソファに向かった。
ソファに腰を下ろしてその膝の上に小雛を座らせる。
その間も小雛はマスクのない五条が珍しいのか五条を見つめていた。


「あのお姿はお仕事の時のお姿だったのですね」

「そうだよ〜!本当は休みの日にも会いに行きたかったんだけど中々難しくってさ…ごめんね、雛」


これから一緒に暮らすにあたって、以前と真逆にこのオフの姿の方が良く見ることになる。
だから、この瞬間を五条は見逃したくはなかった。
よく見ることになるということは、いずれ見慣れてしまうという事。
そうなるとこの珍しい姿には興味も湧いてくれなくなるだろう。
外から切り離されていた小雛にとって、自分の姿なんてこれから知る外の世界に比べたら些細な変化だ。
これから好きなお菓子を見つけて、好きなテレビや映画だって見つけて、好きな居場所だって見つけるだろう。
もしかしたら、それによって本当に好きな人が…小雛の運命の人と出会ってしまうかもしれない。
だからこそ今こそこの無駄に良すぎる顔を小雛にアピールするべきタイミングなのだ。
齢28歳で本気の恋を知った男は必死だった。


「悟様はお仕事では目隠しをして今も目元を隠していらっしゃいますが目がお悪いのですか?」


幼くして世界と切り離され軟禁されていた小雛は『サングラス』という言葉は知らない。
眼鏡さえも知っているのも危ういが、祖父が老眼鏡をしていたら眼鏡はギリギリ知っているかもしれない。
仕事の際も布製の目隠しをして目元を隠しているので、小雛は五条は目の病気をしているのだと勘違いしてしまう。
小雛はそっと両頬に手を当てるように触れ、労わるように頬より少し上の目元近くを優しく撫でる。
心配そうに見つめる小雛に、五条は小雛の手を振り払いたくなく小さく首を振った。


「違うよ…目に異常はないから安心してね…ただ、僕の目は『六眼』っていう特殊な目を持っていて裸眼…コレや目隠しなしじゃすごく疲れるんだ」


小雛は呪力を持っているが、今まで育った環境から呪術界に関する情報は一切知らない。
そのため、詳しい説明をしても理解できないという前提として簡単に小雛に説明する。
六眼は五条家に時々持って生まれる特異体質なものだった。
六眼の役割は大まかに説明してしまうと、呪力を見る事だ。
これがあると色々と見えすぎて疲労が強いため、目隠しやサングラスで隠している。
仕事用に隠している目隠しも普段かけているサングラスも、普通の人間が掛ければ何も見えないような仕様になっている。
しかし、六眼を持つ五条には普通に見える。
そして、六眼があるから五条は己の術式である無限術式が使えるのだ。
この二つを持って生まれるのは、非常に珍しく、この二つを持って生まれたからこそ五条は生まれながらに特別な存在なのだ。


「悟様がご病気でなくて安心しました」


説明されはするが、術師の素質を持っていても世間と隔離されていた小雛にとって呪術界の事を全て理解することは難しい。
しかし、何となく五条の凄さは理解した小雛は、とりあえず五条が病気でなかったことに安心した。
安心した笑みを見せてくれる小雛に、五条は心がポカポカと温かくなる。
人に心配され安心されるだけでこんなにも胸が温かくなるなんて初めての事だった。
愛しい。
目の前の少女がただただ愛おしい。
この少女はただ目の前の男を心配し安堵しただけだ。
それでも、その少女が心から愛した女だと思うだけでこれほど暖かな気持ちを生むとは知らなかった。
色が濃いとはいえ、布で覆われる目隠しとは違いサングラスから五条の目がチラリと見える。
チラリと見えるせいか、興味が深まっていく。
小雛の視線が五条の目に固定され、それを察した五条はサングラスを外した。


「これが、六眼」


五条の目を、小雛は初めて見た。
普段、五条の目は布で覆われていたし、五条自身小雛に与えられる時間が僅かしかないため、五条という男を間近で見ること自体初めてだった。
小雛は初めて見る六眼に、無意識に感嘆の声がこぼれる。


「すごく綺麗です…まるで悟様から頂いた青いビー玉みたいです」


五条は小雛の呟かれた言葉に気持ちよさげに目を細めた。
昔からこの容姿は多くの人間を魅了してきた。
褒め言葉や賞賛なんて聞き飽きるほど貰っている。
小雛の言葉なんてまるでまだ言葉を満足に知らないお子様そのものだ。
だが、そんなお子様な褒め言葉がこれまで貰った褒め言葉や賞賛の中で最も心に響く言葉だった。
抱きしめて頬擦りしてやりたい気持ちだったが、小雛が魅了されたようにビー玉と賞賛した瞳を見つめていたのでやめた。
しかし、五条ははたと思い出し『そうだ』と言って小雛を抱きしめたまま立ち上がる。


「悟様?」

「ん、ちょっと待っててね…渡したい物があるんだ」


内心『結局中断させるなら抱きしめておけばよかった』と損した気分になりつつも、テーブルに置いていた荷物からある物を取り出してソファに戻ってから膝の上にいる小雛に渡す。
ついでに損していた分を戻すように膝の上に乗せている小雛の体をぎゅっと抱き寄せて密着させた。
ソファに戻った際にサングラスを掛け直した五条に、小雛は内心残念がっていたが、隠し切れずに顔に出ていた。
サングラスを掛けた五条に残念がる小雛が可愛くて『あ゙ーーー僕の雛が今日も可愛い』と結局我慢できず小雛に頬擦りをした。
五条に構ってもらっていることが嬉しいのか『ふふ、くすぐったいです悟様』と愉快そうに笑い、五条に体を預ける。
その小雛の重さが愛しさを増す。
暫く小雛を愛でていると、五条はハッとさせる。
つい小雛の可愛らしさに我を忘れてしまったが、自分の握っている物を思い出したのだ。


「はい、これ」


五条の腕の中に囲われていた小雛は、五条にある物を渡された。
それを見て小雛は驚いたように目を丸くさせる。


「これ…」

「うん、雛の宝箱」


それは炎に飲まれている中に持ち出した小雛の私物。
寄木細工で出来た木箱は小雛にとって宝物であった。
姿見の中に仕舞っていたおかげか、あれほど燃えていたにかかわらず木箱は焦げることなく無事な姿で小雛の元に戻ってきた。
蓋を開ければ、中には何通もの手紙が入っていた。


「…っ」


じわりと目頭が熱くなるのを感じた。
瞬きをすればぽたりと手紙の上に溜まっていた涙が零れて濡れたので、小雛は慌てて濡れた部分を指で拭う。
幸い濡れてしまったが涙程度なのですぐ乾くだろう。
この手紙は…宝箱に入っているのは全て屋敷の妻から送られた手紙だった。
今時珍しいメールではなく、パソコン書きでもなく、手書きの手紙。
手書きの文字から人となりが現れており、小雛は柔らかな文字と文章が好きだった。
手紙のやり取りのために五条から『数字』と『カタカナ』と『ひらがな』だけは教えてもらっていたので、妻の手紙には漢字は使われていない。
大人や、小雛と同じ年齢の子供がこの手紙を見れば、幼稚または子供に送られた手紙だと思うだろう。
内容も難しいものではなく、その日に起こった楽しかったことや季節の事などが書かれていた。
五条は一応中を確認させてもらうが、毎回同じような内容でよく飽きないなと思う。


「ありがとうございます…悟様…」


五条にとって、妻と小雛のやり取りは興味を誘うものではなかった。
しかし、小雛が毎通嬉しそうに手紙を受け取るのを見てしまうと止める気は起きなかった。
自分が彼女を笑顔にさせていない事には正直不満ではあったが、そんな感情、小雛の嬉しそうな顔によってかき消されてしまう。
つくづく五条は小雛を溺愛している。


「彼女はとても良い人だった…そんな人が亡くなって僕も残念だよ…」

「……やはり…この方は亡くなられたのですね…」


残念だと零す五条に小雛は俯く。
瞬きをした時に落ちた雫がまた手紙を濡らした。
小雛は手紙の主が屋敷の主人の妻だと知っているが、妻の顔は知らない。
そもそも、あの屋敷で小雛が会ったことある人間なんていない。
屋敷の主人でさえ死ぬ直前のあの時に小雛に会いに行ったのが初めてなのだ。
五条の言葉で小雛は妻が亡くなったのだと知る。
小雛は屋敷が燃えたのも五条から聞いたので、妻はその火事に巻き込まれて死んだのだと思っているのだろう。


(誰に殺されたかなんて僕の憶測にしかならないし…小雛は記憶を封じられている……下手に伝えない方がいいな…)


本来なら小雛が懐いていた妻の死因くらいは伝えた方がいいのは五条も分かっているし、そこまで冷酷ではない。
だが、あの後屋敷を調べたが死体のほとんどに残穢を感じた。
無差別殺人だとしても、相手は術師なのは確実だろう。
小町を囲っていたのだからいつ殺されてもおかしくはなかったが、後ろに五条家がいるため呪術師は下手な行動はしないだろう。
五条家を恐れない、又は五条家が後ろ盾でも殺すという行動に移せる存在…それは即ち、呪詛師。
しかし、あの残穢では人間の呪力は見えなかった。
となると、呪霊、又は式神が関わっていると見ていいだろう。
妻の死体は燃えていたため医師ではない五条は正しい死因の診断はできない。
ただ、呪霊であれ人間であれ、人を殺す事に躊躇のない者の殺し方をわざわざ小雛に伝える必要は見出せなかった。
兄と祖父の最期で十分小雛は悲しんだというのに、これ以上悲しませたくはなかった。


(小雛が僕に嫁いでくる時に一緒に屋敷から出してやろうって思えるくらいあんなクソったれな屋敷の中で唯一の良心だったんだけどなぁ…)


彼女はあの屋敷の中で唯一の善人だった。
そして、夫から受ける暴力の被害者でもあった。
夫は隠すことなく妻を殴り、蹴り、暴言を吐く。
五条の前では本性は隠しているが、妻へのDVは隠す気はないのか平気で女の顔に傷跡を残していた。
当時、今よりも尖っていた頃の五条でさえ、傷跡を残す顔で笑って出迎えてくれた女性に同情を隠せなかったほど酷かった。
咎めようとしたが、妻に止められたので結局は見て見ぬふりをするしかなかった。
その代わり、望むなら五条家に嫁ぐ小雛と一緒に屋敷から出してやると提案し、それを妻は受け入れた。
主人は小雛が五条家に嫁げば妻を捨てて若い女を後妻として迎え入れるつもりだったらしく、彼女はそれを夫の口から聞かされていた。
だから、五条の提案は渡りに舟だった。
勿論放り出すことはせず、五条は五条家ではなく五条悟が保護を約束し、衣食住を用意し、独り立ちするまで援助をするつもりだった。


(あと二年だったのに…まあ、あの男に嫁いだくらい運がなかったみたいだしね…)


あと二年。
あと二年遅ければ、妻は今でも五条が用意した場所で生きて幸せになれたのかもしれない。
それこそ夫よりも優しい男を見つけて、今度こそ女の幸せを掴んでいたのかもしれない。
だけど妻は運がなかったのだ。
そもそも、あの男に嫁がなければならなかったくらいだから元々の運がなかったのだろう。


「いいんだよ、雛…我慢しなくていいんだ…泣いてあげる事が彼女にとっての供養になる…だから、我慢することはないよ」

「…っ」


もしかしたら、嫁ぐ小雛の世話を頼んでいたのかもしれない。
それくらい五条は屋敷の主人の妻を気にかけていた。
その妻が気にかけて愛していた小雛。
自分の子供のように愛した少女が、自分の死を悲しんで泣いてくれると知ったら、きっと彼女は嬉しさに笑ってくれただろう。
それこそ五条の勝手な想像ではあるが、愛する人に死を悲しんでもらうなんて最高の愛情ではないだろうか。
涙を止められず泣く小雛を五条は抱き寄せた。
胸元にじわりと暖かく湿った感覚を愛おしく思いながら、五条は慰めるように頭を撫でる。


(ねえ、雛…僕が死んだら泣いて…ずっとずっと泣いてさ、余所見なんてしないでね)


自分の死が想像できないが、もし自分なら悲しんでほしい。
笑ってほしいのも勿論あるが、悲しんで前を向かないでほしい。
前を向いてしまえばきっと自分なんて小雛の過去の人間の一人になってしまう。
可愛い小雛なんて守ってあげる自分がいなくなればすぐに害虫が寄ってきてしまう。
小雛が自分以外の男に余所見をするなんてありえないとは思うが、弱った心に優しさは強い武器になる。
だから、ずっと悲しんでほしい。
ずっと悲しんで、ずっと泣いて、ずっと心を自分だけで満たしてほしい。
他の男なんかに小雛を渡したくない。


(ああ…呪霊になってしまいそうだ…)


よく、感動的な心霊話で心配で幽霊になってでも会いに来てくれる伴侶の話がある。
だが、この感情はそんな綺麗な物ではなかった。
呪力を持つ人間は、呪力で殺さなければ最悪呪霊となる。
呪力で殺されてしまえば五条だってただの死体となり果てるだろう。
だが、小雛が…愛おしい妻が、自分の死後に他の男を迎え入れるかのしれないと思うと…呪力で殺されても呪霊に転化しそうだ。
むしろ、生きている今でも呪霊になれそうな気がした。

五条はそんな汚く黒い感情を見せないよう、小雛の髪を優しく優しく、撫で続ける。

31 / 53
| 目次 | 表紙 |
しおりを挟む