小雛は自然と目を覚ますと、今ではすっかり見慣れた五条との自宅の天井が写った。
小雛は予定がない限りは時間に縛られない。
眠るのも起きるのも、小雛の自由だ。
だが、3歳から11年間も繰り返されたルーティーンは中々変わらない。
寝る時間になれば勝手に睡魔に襲われるし、自然と目が覚めてしまう。
目を覚まして瞼をゆっくりと開けると、視界いっぱいに黒い犬が収まる。
『ワン!』
「ふふ、おはよう、クロ」
視界に写った黒い犬は、小雛の術式で作られた呪霊。
寝相の良い小雛は大抵仰向けで起きることが多い。
個室を貰っている小雛は体を起こしてベッドから降りた。
それに合わすように、クロもベッドから飛び降り、小雛の後を追いかける。
クロを連れながら、小雛はクローゼットに掛けられた服の前へ歩み寄る。
「ゆうくん、おはようございます」
そっと服に触れる。
その服は兄である虎杖のフード付きパーカー。
もういなくなってしまった兄に挨拶するように服に挨拶をする。
着ると洗わなければいけないので、一度も袖を通していない。
というのも、小雛は基本着物を普段着としているため洋服を着る機会がない。
パジャマだって、寝巻きなくらいなのだ。
五条が与えた多くの着物から一着決めて、着替える。
3歳から自分で着替えていたため、着物の着付けは手慣れたものである。
手慣れていれば、難しそうな着物も短時間で終わる。
「悟様、おはようございます」
身支度を終えてリビングに顔を覗かせる。
今日はいつもの時間に出勤だと聞いているので、まだ五条がいるはず。
いつもなら『おはよう』と言って小雛の好きな優しい笑みを向けてくれるのに今日は違った。
「は?今なんて言った?」
五条は誰かと電話をしているようだった。
ラフな格好でソファに座って誰かと話す五条に、小雛は邪魔をしないよう静かに洗面所へと向かう。
身支度をして戻れば、終わっているだろうと思っていた電話はまだ続いていた。
「もうちょっと様子見するとか言ってなかったか?」
≪――――≫
「ええ…マジなのそれ…本当だったらドン引きなんだけど…」
≪――――≫
「それは駄目だって!雛にお前のこと知られたくないし」
電話が終わるまで待とうかと思ったが、自分の名前を聞いて小雛は咄嗟にリビングから出てしまった。
何となく、聞き耳を立てれば、五条は電話に夢中で小雛に気づいていない。
「ちょ…お前さぁ…今それ言う?今それ出す?信じらんないだけど」
≪――――≫
「いやそうだけどさぁ…それはもっといい所で出せたでしょうよ…そもそもなんで雛なんだよ」
≪――――≫
「はあー??なにそれ初耳なんだけど???」
≪――――≫
「えっ…ほんとに?ほんとに言ってた?ごめん、覚えてないや…」
≪――――≫
「ああ、はいはい、分かりました!でもほんとーにあることないこと雛に言うなよ!?勿論昔の事もだぞ!?いいな!?分かったか!?じゃねえと僕も色々言うからな!?」
≪――――≫
「ん、分かった…でも流石に雛だけ外に出すわけにはいかないから僕の生徒達も連れて行くけどいいよな?」
≪―――≫
「しょうがないでしょ…雛は小町の器だし…正直、雛を誰にも会わせたくないし出したくないもん」
≪――――≫
「うっせぇ…好きになったんだからしょうがないでしょうが…」
≪――――≫
「ないない!もしもそうだとしても誰にも勝算はないよ!僕を本気で惚れさせたのは後にも先にも雛以外いないからね!」
何を話しているんだろう、と小雛は息を殺す。
普段電話相手は仕事関係が多いからか、五条が楽しそうに電話をしている姿を見るのは珍しい。
ちょっぴり扉を開けて顔を覗かせたその時――
「恵子、あっちでも元気でな…お前のこと、嫌いじゃなかった」
穏やかな五条の表情に、小雛は固まった。
五条が穏やかに微笑んでいる姿なんて小雛はいつも見ているのに、小雛はモヤっとした何かを感じた。
無意識に胸元に手を当てると、『あれ、雛?』と声がして顔を上げた。
そこには、電話を切った五条が立っていた。
目を丸くして見上げる小雛に、五条は首を傾げながら脇に手を差しいれて小雛を抱き上げる。
「おはよう、雛」
「お、おはようございます…」
反応が鈍いのに五条は気づいたが、すぐ小雛の顔ににこっと愛らしい笑みが張り付いたので、ただ驚いただけだと片づけた。
そっと小雛を降ろすと五条はリビングに戻り、キッチンに姿を消した。
小雛もリビングに入らなければ五条に心配をかけてしまうだろうと思い、モヤモヤした何かを抱えながらリビングに入り食卓に着く。
するとすでに用意していたのか、小町の食事が出て来た。
『はい、どうぞ』と血に濡れた捌かれた人肉を運んできた五条へ小雛は見上げる。
顔を上げる小雛に五条は『ん?』と笑みを向けたが、小雛は釣られたように笑顔を浮かべお礼を言うだけだった。
手を合わせて『いただきます』と言い食べ始める。
それに違和感はなく、いつもの食事風景だ。
だが、五条は少し違和感を感じたが、ふと思う。
(あー…もしかして電話、聞かれてた…?)
リビングに入らず扉にいた小雛に不思議に感じてはいた。
ただ偶然だと思っていたのだ。
だが、この様子では電話を聞かれて、更には勘違いしていると見ていいだろう。
とりあえず、誤解を解くのは小雛の食事を終えてからの方がいいだろうと五条はあえて何も言わなかった。
決して勘違いして嫉妬して落ち込んでいる小雛が可愛いからもうちょっと見ていたいとかではない、決して。
「雛、ちょっといいかな」
食事も終え、まだ出勤時間まで時間があるため小雛と一緒に過ごす。
テレビや芸能関係に興味がないため、一日小雛のために教育番組やDVDを流しても苦ではなかった。
そもそも、小雛と一緒なら無音でも苦ではない。
ただ、今までテレビさえもない生活を強いられていた小雛はあの屋敷から出て初めて触れる娯楽に夢中だったため、せめて(五条からしたら)間違った情報を入れないように子供が見るような教育番組やDVDを流していた。
ソファに並んで座ってゆっくりと落ち着いたことろ、五条は本題に入る。
自分に甘いココアを入れてもらい美味しそうに飲んでいる小雛の姿はとてつもなく愛らしくはあるが、『はい?』と声を掛けられ見上げてコテンと小首をかしげる姿はもっともっと可愛い。
「今日、会ってほしい人がいるんだ」
「…………」
本題、とは小雛に会ってほしい人がいるというものだった。
小雛は五条に向けていた視線をそっと逸らした。
その反応に、五条はぞくぞくと幸福感を感じていた。
あの、小雛が、嫉妬しているのだ。
小雛は3歳から閉じ込められて五条と小町しかいなかった。
そのため、嫉妬心はそこまで育つことはなかった。
嫉妬しようにも、小雛が嫉妬する対象と言えば小町しかいなかったのもあるだろう。
それに、嫉妬しなくても五条は小雛に骨抜きだし、小雛だって五条に骨抜きなのは分かっている。
だが、やはり愛おしい人に嫉妬心を向けてほしいと思う。
しかし、だからと言ってわざと小雛以外の異性とそういう意味で親しくする気は起らないし面倒くさい。
それに小雛をわざわざ悲しませると分かることはできるだけしたくないというのも本音だ。
だから、偶然とはいえ小雛が少しでも嫉妬してくれていることが嬉しかった。
「どなたでしょうか…」
ぽつりと呟くほどしかない声量が、落ち込んでいると誰でも分かる。
そんな小さな声が愛おしい。
コップを握る小さな手がもじもじとさせる姿を愛おしく見つめながら、五条は答える。
「婚約者」
「こ、んやくしゃ…」
五条の言葉に小雛は彼を見上げた。
その表情は驚きと共に顔を青ざめており、ショックを受けていると分かる。
五条の婚約者は自分だけだと思っていたから、他に婚約者がいたと知れば小雛でなくても誰だってショックを覚えるだろう。
自分の一言一言に心揺さぶられる小雛を見て加虐性が擽られるが、別に小雛を苦しめて楽しむ趣味はないためこれ以上は虐めるのを辞める。
加虐性を擽られるのは、キュートアグレッションだ。
「婚約者って言ってもね…別に愛し合っているわけではないんだよ…ただ、アイツとは小さい頃から家同士が利害の一致で決めただけで…僕達の意思関係なんかぜーんぜん!これっぽっちも!配慮されていないものだ」
安心させるように続ける五条だが、小雛の顔は晴れない。
五条はその婚約者とは家同士が決めたもので、そこに婚約者含めて2人の意思は存在しないと言った。
だが、小雛だってそれは同じだ。
五条が自分を愛してくれているのは、小雛も分かっている。
自分の気持ちを無視されてはいるが、五条からの愛情は本物だろう。
でも、始まりはその婚約者と同じく、小雛と五条の関係にそれぞれの意思はなかった。
なんなら五条は子供だった小雛との婚約を嫌がっているように見えた。
きっと、五条は小雛が過去の自分が嫌がっていた事に気づいていることに、気づいていない。
気づかないほど、今の五条は自分を愛してくれている。
それだけ分かれば小雛には十分疑うなんて行動は起きないだろうが、それでも心がついていかない。
「彼女が雛に会いたいって言っててね…会ってほしいんだ」
「えっと…会うだけ、なんですか?」
「うん、会ってちょっとお話をするだけ…安心して、アイツはちょーっと気難しい女だけどいい奴だからさ」
「…………」
『会いたくない』、と小雛の顔にはデカデカと書かれていた。
それが愛しさを増す。
誰にでも好意的に接する小雛が、初めて会ってもいない人間に負の感情を向けている。
その原因は自分だ。
婚約者への嫉妬、それはすなわち、小雛がはっきりと示してくれた愛情だ。
心が震えるほど五条は嬉しさを感じた。
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