タン、と音を立て、男子が地面に叩きつけられた。
その動きは両者軽やかで、叩きつけられた音も軽い。
『そこまで』という声に、二人は居住まいを正し深い礼をする。
「「ありがとうございました」」
男子を投げた女子…琴子は額から落ちる汗を手で拭い、その場から離れる。
琴子は体術を習っていた。
琴子の個性は拳や体術を使用するような体育会系ではない。
普段過ごすだけなら、体術を習う必要性はそれほどない。
しかし、琴子はヒーローを目指しているため、ぬいぐるみを操るばかりではヴィランと琴子自身が対峙した際に困ると思い、実家と轟家の許可を得て習わせてもらっているのだ。
最初はポピュラーな柔道でも得ようかと考えたが、実家がそれを許可しなかった。
そのため、合気道を習うことになり、琴子は幼い頃から合気道を習っている。
「お疲れ様でした、お嬢様」
琴子が向かった先には一人の老婆がいた。
老婆はそう声をかけ、タオルを琴子に差し出す。琴子は、老婆から差し出されたそのタオルを変わらない微笑みを浮かべて受け取る。
タオルで汗を拭いながら、琴子は更衣室へと消えた。
暫くして琴子は着替え終え、老婆の元へと戻る。
老婆は柔らかな表情で琴子を待ち、荷物を受け取り、琴子の三歩後ろへと下がって歩く。
「お車を回しております」
「ありがとうミツエさん」
ミツエ、と呼ばれた老婆の気遣いに琴子の感謝の言葉を述べる。
ミツエは幼くして母を亡くした琴子を母親代わりに育てた人だ。
70歳ほどではあるが、使用人としてまだまだ現役である。
ミツエの言葉通り、すでに帰宅するため表には車が一台止まっていた。
その運転席には一人の青年が座っている。
「お迎えありがとう、ヒロトさん」
ミツエが速足で琴子を追い抜いて車の後部座席のドアを開ける。
その開けられたドアから車に乗り込み、『お疲れ様でしたお嬢様』と労いの言葉をかける運転手の青年…ヒロトにお礼で返す。
ヒロトはミツエにどこか似ている。
だが、それは当たり前である。
二人は祖母と孫の関係であるのだ。
本来ならミツエではなく、運転手のヒロトが琴子のためにドアを開けなければならない。
だが、ヒロトは自身の個性にてそれを免除されているのだ。
ヒロト…いや、ヒロトだけではなく、母代わりに育ててくれたミツエも含めて、二人は琴子のボディガードである。
琴子は本来家から出られない身分だった。
身分と言っても琴子が皇族というわけではない。
ただ、先祖から琴子の家は家督を継ぐ人間は大事に育てられてきた。
それはもう徹底しており、家事どころか本来なら学校に通うことさえ許されていない。
家で生まれ、一歩も外に出ず家で死ぬ…それが一族の当主の一生だ。
当主の仕事は家を継続させること…すなわち子を産むことが仕事であり、それ以外は他の人間がすべきことである。
今の時代では考えられないし、何よりこんな時代では生き残れないと思うだろう。
だが、不思議とそんな極端で古臭い一族でも琴子の世代になるまで血が途絶えたことはなかった。
琴子はその一族の当主になるべく生まれた子供だった。
だから本来はこうして家を出て轟家に住むことは許されない事なのだ。
だが、反対する現当主に対して琴子も頑なに意思を変えなかったため、当主が折れたのだ。
とはいえ、拘束は多い。
登校と教室に通う事以外は外には出るな、勉強とトレーニング以外はするな、轟家以外の人間とは親しくするななど色々当主に命じられている。
話が逸れたが、二人はボディガードだ。
だが、ヒロトとミツエの個性は戦闘系には向かず、何よりそれほど強力なわけではない。
ただ、適材適所という言葉がある様に、二人はどちらかといえば防衛に長けている。
ミツエの個性は睡眠。
ミッドナイトのように対象を眠らせることができるが、ミッドナイトとは違い眠り香ではなく、気功、または念に近い。
眠くなる念のようなものを送ることで、どんな者でもミツエの個性で眠らされる。
ただし、ミッドナイトとは違い人数は決まっている。
ヒロトは結界の個性である。
ヒロトが乗り物に乗る事が条件に、その対象の乗り物全体に結界が張られ外も中も守られる。
その結界の強度はどんな国の武器や個性であろうと1ミリもひび割れる事のない。
ただし、一歩でもヒロトがその乗り物から降りれば、結界の効果は切れてしまう。
そのため、運転手がしなければならないドアを開けるなどの仕事は免除されている。
琴子は今日もヒロトが運転をする車で寄り道せず轟家へと向かった。
轟家へと帰ってきたのはいつも帰宅する時間よりも少し遅れた時間帯だった。
途中事故があったらしく、長い渋滞に捕まってしまったのだ。
ルートを変更しやっと遅れたものの帰宅できた。
轟家には琴子しか厄介になっていないので、ミツエと運転手は門の前で別れ、少し離れたいつでも琴子に呼ばれてもいいように購入した一軒家に戻っていった。
玄関を開けて靴を脱ぎ靴箱に入れていると、冬美が声を掛けてきてくれた。
「おかえりなさい琴子ちゃん…遅かったんだね」
轟家は豪邸ではあるが、長く働いてくれた高齢のお手伝いさんが腰を悪くしてから家の事は冬美達がこなしてきていた。
男女差別ではないが、やはり主に中心となって動くのは女性の冬美なことが多い。
琴子はというと、幼い頃からこの家にお世話になっているがまだお客様扱いのため手伝ったことはない。
むしろ当主から家事さえもする必要はないと逆に止められてしまっている。
そのため、琴子は家事は生まれてから一度もしたことがなく、ことわざで箸より重い物を持ったことがないというものがあるが、それを地でいくお嬢様だった。
それは轟家にも伝えてあるため、冬美が琴子に手伝わせることはない。
冬美は夕食の準備をするためキッチンに向かおうとしたが、玄関が開けられる音を聞いて近くにいたのもあり、顔を覗かせたのだ。
するといつもならすでに帰宅して自室で勉強か、トレーニングをしているであろう琴子の姿があった、ということだ。
琴子は微笑みをそのままに、隠す事でもないため冬美に遅くなった理由を述べる。
「ただいま帰りました…遅くなってしまい申し訳ありません」
「ううん、いいのよ…遅いって言っても気にするほどじゃないから」
相変わらず堅苦しく余所余所しい琴子の態度に冬美は苦笑いを浮かべる。
もう琴子がここで生活をするようになってから10年も経つのに、琴子の態度は変わらないし、轟家の琴子への対応も変わらない。
冬美はどちらかと言えば出来るだけフレンドリーに接しようと努力しているが、夏雄は琴子を避けている。
本人曰く、琴子は何を考えているのか分からないから怖い…との事。
たしかに琴子はいつも笑みを浮かべており、冬美だって何を考えているのか分からないため、夏雄を責めることは出来ない。
首を振る冬美に琴子は夏雄が苦手とする笑みを浮かべたまま『そうですか』といつもの言葉を零した後、チラリと冬美の後ろへ視線を向ける。
その視線に気づいた冬美が何気なく後ろを振り向けば、冬美はぎょっとさせた。
「お、お父さん…」
そこにはこの家の家長であり冬美の父であるエンデヴァーがいた。
エンデヴァー…炎司は冬美ではなく、琴子を視界に収め見下ろす。
体格差、身長差、そしてその険しい表情から、どうしても見下ろすというより、見下すに近い。
「え、えっと…お父さん…あの…琴子ちゃんは遅くなっちゃったけどそんなに遅い時間じゃないから…怒らないであげて…」
父である炎司は顔が怖い。
整っている方ではあるのだろう。
だが、それを差し引いても決して人好きのする顔ではない。
そもそも、愛想のいいオールマイトとは真逆で、父はいつも口をへの字にして閉じ、言葉も声も威厳があるがその分厳しい面もある。
その強面にはコアなファンがいるが、決して万人受けするような人物ではない。
自分は慣れたが…慣れはしたが、それはイコール平気なわけではない。
元々自分の子供に関しては無関心である父と向かい合う機会はそれほどない。
父は末っ子である焦凍以外に興味はないのだ。
その焦凍でさえ、焦凍自身ではなく、焦凍の力だけに関心があるだけだ。
父の炎と母の氷を上手く混ざって生まれた焦凍は、子供のころから父親に縛られて生きてきた。
だからこその今の衝突なのだろう。
言葉を選ぶのなら威厳のある父親。
しかし、冬美や夏雄から言わせれば、怖くて怒らせたくない父親だ。
そんな父親は自分達はともかく、焦凍のように…いや、焦凍以上に父は琴子を縛り付ける。
後ろに立つ父の顔が顰められているように見えた冬美は、慌てて事情を話そうとした。
しかし、それを遮るように琴子が炎司に向かって手を差しだした。
「ん。」
琴子は顰め面の炎司に向かって両手を差し出し、何も言わずただそう声を零す。
それはまるで子供が親に抱っこをせがんでいるようにも見える。
変わらず笑みを浮かべ、手を差しだすように抱っこをせがむ琴子に、炎司はピクリと片眉を上げた。
しかし、何の反応もない父に琴子がもう一度『ん』とせがむと、諦めたのか溜息をつき、琴子の両脇に手を差しいれ抱き上げた。
片腕に琴子を座らせるように乗せると、琴子は慣れたように炎司の首に手を回した。
「ただいま」
甘えた声だった。
本当に娘が父に甘えるような、可愛い声。
いつもの無感情にも聞こえる声ではなかった。
炎司は、首に顔をすり寄せ懐く血の繋がりのないただ預かっている子供に『ああ』とだけ答え、琴子の手にある鞄を受け取り、家の中へと消えた。
恐らく琴子の部屋か、父の部屋に連れて行くのだろう。
父は昔から琴子だけには甘かった。
その証拠が琴子の個性であるぬいぐるみだ。
あのぬいぐるみは全て父が買い与えた特別製の物である。
冬美は一度も父にぬいぐるみどころか、何か与えられたことはなかった。
(…お父さんの娘、私なのに…琴子ちゃんの方がお父さんの娘みたい…)
冬美は二人を見送りながらぽつりと思う。
そこに嫉妬はなく、しみじみとした感情だった。
琴子は不思議と昔から子供受けしそうにない父に懐いていた。
怖い顔で凄んでいても、機嫌が悪くても、琴子だけは平気で父の傍にいた。
あの微笑みを浮かべて。
子供の頃から冬美は琴子を不思議な子供だと思っていた。
最初は突然現れた琴子に冬美達は戸惑いがあった。
最初は父が他所で産ませた子供かと疑って、勝手に父に対して嫌悪していた。
だけどそれは間違いだと知って、怒りよりも驚きや困惑が生まれた。
琴子は轟家の養子でもなく、父の友人の娘という微妙な立場だ。
どういう理由で我が家で育てることになったのかは分からない。
だが、父から決して琴子だけは傷つけるなとキツく言われていたので、余程大切な存在なのだろう。
父が怖かったから、琴子を大切にした。
何か分けなければいけないときは琴子を優先したし、はっきり言って琴子を腫れ物に触れるように扱った。
次男の夏雄は冬美以上に琴子を苦手としており、焦凍以上に気まずいのか話しかける事も傍に寄りつくこともない。
夏雄が琴子の名を呼ぶ声や、琴子と話す声を、冬美は覚えている中で一度も聞いたことはないくらいだ。
兄弟の中で琴子と仲が良かったのは二人。
長男の燈矢と、焦凍。
今は焦凍とは亀裂が入って不仲ではあるが、燈矢と琴子は兄妹のように仲が良かった。
仲が良すぎて当時琴子とまだ仲が良かった焦凍が嫉妬するほどだった。
いつ、どんな切っ掛けがあって兄と琴子が仲良くなったのかは分からない。
だが今は琴子とコミュニケーションを取ろうと頑張っている冬美だったが、やはりあの頃は夏雄同様、父が怖くて無い者として扱っていた。
それが変わったのは、まだ子供の頃。
冬美も最初は父が恐ろしくて琴子に必要以上に近づかなかったが、偶然琴子が一人縁側で座っている場面に出くわした事があった。
琴子はまだ動きもしなかったネコのぬいぐるみとウサギのぬいぐるみを両手いっぱいに抱きしめ、二つのぬいぐるみに顔を埋めるその姿が…末弟と重なって見えた。
琴子は泣いているように見えたが、泣いていなかった。
それが余計に寂し気に…悲し気に冬美の目に映った。
確かに、冬美も夏雄も父が恐ろしい。
だから末弟に姉として接することができず、琴子を腫れ物に触れるように扱っていた。
だが、琴子はどういう理由か分からないが、両親と離れて赤の他人の家にいるのだ。
まだ10歳にもなっていない子供が、だ。
寂しくないわけがない。
まだ琴子は親の愛情が必要な年齢だったのだ。
冬美達はまだ母がいたからいい方だろう。
だけどこの家には琴子の味方はいない。
父は琴子を縛るほど大切にしているが、事情を知らない冬美でさえ、父が琴子の味方ではないのは見て分かる。
父は琴子の味方ではなく、琴子に衣食住を与えている存在である。
お互いの利があるからお互いのそばに置いている…そう見えるのだ。
そう思うと…そう考えてしまうと、どうしても哀れに見えた。
同情した。
そして、情が湧いた。
情が湧いて、恐々ではあるが声を掛ける事にした。
案外話してみると不思議な子ではあるものの、穏やかで大人しい子だと分かった。
前は得体のしれない爆弾のように見ていたせいもあって、拍子抜けだった。
無視されると思ったが、話しかければ答える。
当たり前だが、以前はその当たり前すら分からなかった。
ただ…あの子に暖かさが感じられないのが不安ではある。
微笑みを浮かべているのに、心が凍っているように思えるのだ。
感情というものを感じられない。
だから焦凍がどんなに自分を無下にしようと、相手にしなくても、ニコニコ微笑みを浮かべて傍にいられるのだろう。
焦凍が嫌悪しても微笑みを絶やさずいられるのだろう。
冬美はいつか琴子が壊れるのではないかと心配だった。
(いつか…あの子を理解してあげれる日がくるのかしら…)
そんな日が来るとは到底思えなかった。
今の状況で言えばそう思える。
琴子は穏やかに笑っているが、他人を拒絶している。
厚い壁を10年も一緒に暮らしている冬美達にでさえ隔たれているのだ。
その厚い壁は、懐いている父でさえ壊せないでいる。
教師を仕事としてしている冬美も、生徒の中に琴子のように心を閉ざしている子を見たことがある。
だが、琴子はその知る心を閉ざしている子供達の中でも一際心を固く閉ざしていた。
(焦凍があの子を変えてくれるって…そう思ったら…駄目かしら…)
焦凍と琴子。
一方的に焦凍が琴子を嫌っているように見えるが、元々は焦凍は琴子の事が大好きな子だったのだ。
しかし、今の二人の間には大きく深い溝がある。
その溝は底なしのように深く、塞ぐことは困難だろう。
焦凍が悪いわけではないし、琴子が悪いわけでもない。
ただ二人の間に大きな溝を作ったのは、誰でもない…琴子だ。
これから高校生になる琴子達の未来は輝かしいのだろう。
だが、冬美にはその先は暗く淀んでいるように見えた。
『さて』、と冬美はいつまでも玄関先で立ち尽くしても仕方ない、と部屋に戻ろうとした。
しかし、振り向いた先には末弟が立っており、冬美は足を止めた。
「焦凍…」
焦凍は琴子と父親が消えた方向をジッと見つめていた。
その目は睨んでいるようにも見えた。
そこにある感情に、冬美は苦笑いを浮かべる。
「全く…素直じゃないんだから…」
そう言って冬美は末弟の頭を撫でる。
その言葉の意味を理解した焦凍は、ハッとさせ顔を背けた。
「俺は…別に…」
ポソポソと話す弟に、冬美はウンウンと頷いて見せる。
父を嫌っている弟ではあるが、姉から見て弟は父に一番似ている。
性格や外見ではなく、その不器用さがだ。
それを言えば弟は機嫌を悪くするし、怒るだろうから言わないが、"好きな人"に対しての不器用さが似ていた。
「焦凍…すぐに素直になれって言ってるんじゃないんだよ…焦凍と琴子ちゃんの仲が拗れちゃった理由はお姉ちゃんは知らないし、聞かない…だけどね、焦凍…本当に琴子ちゃんを嫌いたいと思っていないなら…選択を間違わないようにしないとね」
説教をしたいわけじゃない。
だけど、見て見ぬふりは出来なかった。
琴子も焦凍も大切な家族だから。
焦凍は姉の言葉に俯いていた顔を上げ、『選択?』と小首を傾げる。
世間からしたらクールである弟ではあるが、首を傾げる仕草も含め、まだ大人になりきれていないことに姉として可愛く見えたし、何より安心した。
可愛い弟の問いに、冬美は『そう』と頷いた。
「人生はさ、選択を間違えてしまうばかりなんだと思う…選択を間違えてもどこかでまた選択が与えられて、軌道修正が出来るんだと思う……でもね、その中でも絶対に間違えたらいけない選択肢があると思うの…その選択を間違えたら、きっと焦凍は一生後悔することになると思う…」
焦凍は姉の言葉に口を閉ざし、視線を落とした。
きっと頭の中には母が浮かんでいるのだろう。
だけど、冬美は違うのだと思う。
焦凍が間違えられない選択を迫られるとしたら…琴子の事だ。
(あの子は危うい…しっかり地面に足をついているように装っているけど…あの子の足元の地面は砂よりも脆い…)
琴子はしっかりした子だ。
だが、冬美には危うく見える。
琴子を支えられるのは、きっと焦凍だけだ。
焦凍一人に責任を負わせるつもりはないけれど、焦凍には琴子が…琴子には焦凍が必要なのだと冬美は思う。
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