エレノアはその日、カトラー家で休んでいた。
今日は花嫁修業はなく、数少ない休みの日だった。
キルアに会えないのは寂しいしつまらない1日ではあるが、休日の必要性は理解している。
なのでこういう日は、読書をしたり、叔父から贈られた品物を愛でたり、仕事がない兄や姉達に遊んでもらったりとして過ごしていることが多い。
今日も、叔父から贈られた品の中で一番のお気に入りの緋の眼を愛でていた。
机に置いてじっとプカプカと浮かぶ赤い目を見たり、窓から差し込む日の光に照らしたりと、彼(彼女?)と遊んでいた。
キルアから贈られた婚約指輪が一番の宝物ではあるが、緋の眼だって宝物には変わらない。
「ふふ、あなたはどんな方だったのでしょうね」
つんつん、とガラスで出来た筒を突っつけば、突っついた衝撃で浮かんでいた目玉が揺れた。
目玉の持ち主のことなどエレノアは興味はないし、叔父も知らない。
問いかけたエレノアもそこまで興味はなく、ただ、愛でている間にコレに情がわいたのだろう。
プカプカ浮かぶだけの目玉でも、お気に入りならば見ているだけでも楽しい。
もう数時間も目玉を見ていると、コンコンとノックされ、緋の目から扉へ振り向く。
返事をすると静かに扉が開いた。
「お父様…?」
入室してきてのは、エレノアの父、ウォーレンだった。
エレノアは父の姿に首を傾げた。
ウォーレンの訪問が珍しいというわけではない。
エレノアが疑問に感じたのは、父の表情だった。
ウォーレンは険しい表情でエレノアを見つめていた。
「エレン、落ち着いて聞きなさい」
静かな声だが、どこか落ち込んでいるように聞こえた。
落ち着いて聞きなさいと言われても内容が分からない以上、エレノアは頷くしかない。
椅子から立ち上がり父と向かい合うと、父は意を決したように言った。
しかし、その言葉はエレノアの耳を疑うものだった。
「お前とキルア君の婚約は破棄された」
その言葉に、エレノアは時が止まった。
呆気にとられ、言葉さえも忘れたようなエレノアだが、すぐに我に返る。
「なぜですか…なぜ…突然…」
当然の問い。
だが、父は娘の泣きそうな表情に見ていられないと言わんばかりに痛ましげに見つめ、慰めるように肩に触れる。
「あちらから言ってきたんだ…これ以上二人の婚約を続けさせるのは無理だと…」
「そんな…!私…ゾルディック家の方々やキルア様に何かしてしまったのでしょうか…」
ゾルディック家とは良好な関係を築いてきたつもりだった。
キルアとだって喧嘩もなく穏やかな関係を築いてきたつもりだった。
だが、あちらの気分を害するようなことをしてしまった可能性をエレノアは否定できない。
いくら仲が良くても些細なことで仲違いになる事例など山ほどある。
ゾルディック家とカトラー家も一例の一つだ。
両家の当主達は仲が拗れる前までは親友ともいえる仲だったと祖父から聞いている。
「エレンが悪いわけではないよ…だから、もうキルア君のことは忘れなさい」
「嫌ですっ!私はキルア様を愛しています!キルア様も愛していると言ってくださいました!婚約指輪だって頂いたのに……なのに…簡単に諦められません…」
ぽろぽろ、とエレノアのラベンダー色の瞳から雫が零れる。
ウォーレンは顔を覆って泣き出す娘の左手に光る指輪を不愉快そうに眉を顰め睨んだ。
しかし娘が顔を上げウォーレンを見ると、その険しい表情は娘に同情するように悲し気に変わっていた。
「お父様…詳しい理由をお聞かせください…」
「…キルア君に気持ちがなくなったとは聞いている」
「…っ」
「お前達は婚約したと言っても元々二人の気持ちを優先させる決まりだったのだ…キルア君ももう12歳…自分の気持ちに気づく年齢だ…」
「そんな…」
12歳と言えば、あと一年で思春期に突入する時期だ。
しかし、それでなくてもキルアは暗殺一家として幼い頃から英才教育を叩き込まれてきた。
大人が思うよりも、子供は聡く大人だ。
今まで周りの大人たちからエレノアは将来の妻だと言われその通りに過ごしてきても、成長するとそれが疎ましく感じることだってある。
キルアは外で仕事することもあり、そこで一人の人間と出会う事だってある。
自分という物を確立させたばかりの子供ならば、尚のこと自分が決めたわけではない婚約者を疎ましく感じてしまうのは責められる事ではないだろう。
キルアだって、大人たちの被害者の一人でもあるのだ。
だが、それをキルアを心から愛するエレノアにすぐさま理解しろというのも無理だ。
キルアからの愛情が消えたと知ってショックを受け、泣き声すら零せなくなり静かに泣く娘の手をウォーレンはそっと優しく取る。
「エレン…すぐにとは言わない…キルア君を忘れなさい…」
「お父様…」
「キルア君への気持ちが消えないうちはキルア君だけではなくゾルディック家と関わることは許さない…いいな、これは父ではなく、一族の当主としての命令だ」
「………はい…分かりました…」
父の言葉にエレノアは間を置いたが、頷いて了承した。
ショックすぎて考える余裕がなかったからだ。
言いたいことは沢山ある。
しかし、結局は家長には逆らえない。
溺愛されている娘とは言えど父の言葉には逆らえないのだ。
エレノアが頷いたのを見て、ウォーレンは満足そうに表情を緩和させる。
しかし、ゾルディック家と連絡を取られる可能性を見越してか携帯電話を取り上げ、連れてきていた執事に指示し自室にある電話を撤去し、全ての窓とドアに鍵をかけた。
ドアに鍵を掛けられたその部屋は密室となったのだ。
誰一人いなくなった静かな部屋に残されたエレノアは、ふらつく足取りで傍にあった椅子に腰を下ろす。
「キルア様が…私を…愛して、いない…」
言葉にすれば、悲しい感情が更に深くなる。
父からの命令は、キルアを忘れろというものだ。
それが一族の当主が命じたものであるのなら、それに従いキルアを忘れなければならない。
当主の命令ならば従う。
それは幼い頃から教え込まれたものだ。
父の命令に従いキルアを忘れようと思った。
「忘れる…?キルア様を…?私が…?」
しかし…キルアを忘れるなんて考えられなかった。
それはまだ婚約が解消されて間もないからかもしれない。
だけど、エレノアの心にいるキルアを追い出すなどできそうになかった。
「…キルア様のお言葉をお聞きしたい……でなければ…到底、諦めきれない…」
父の言葉と言えど、言葉そのまま鵜の身にはできない。
父を信頼していないわけではないし、当主の命令に背く気は一切ない。
だが、キルアが関わっているのならそれは別となる。
キルアが自分に対して気持ちがなくなったのなら、それをキルアの言葉として聞きたい。
人を通しての言葉ではなく、キルア本人から聞きたい。
キルアが自分への気持ちがなくなったのなら、エレノアは諦めよう。
彼の気持ちがないのに、愛を求めることなどしたくはない。
そんな惨めな女にはなりたくなかった。
「まずはキルア様の下へ向かわなければ…」
エレノアは涙を拭き、部屋を見渡す。
連絡できる物は全て撤去され、電話はおろかメールさえも使えない。
窓やドアには鍵がかかっており密室状態だ。
一般家庭の閉じ込めとは違い、一瞬の隙も許されない暗殺一家の閉じ込め。
しかし、自宅だからこそ父が知らない抜け道もエレノアは知っている。
「お父様ったら、詰めが甘いですわ」
そう言ってエレノアはドレッサーからヘアピンを一本取り出し、真っ直ぐにする。
エレノアの家は、遥か昔、依頼で王族を暗殺した際に贈られた王宮をそのまま根城にしている。
昔とはいえ王族が住んでいた王宮なため豪華ではあるが、作りは古い。
それぞれの時代に改装され続けてはいるが、エレノアの部屋の鍵はまだ新しくはない。
父どころか他の家族にも執事やメイド達にも言った事のない抜け穴。
エレノアの部屋の鍵は、上手くやればヘアピン一つで開けられる。
しかし、それはドアだけではない。
「とはいえ、部屋の傍にメイドや執事達が見張っているかもしれませんし…窓から出ましょう!」
ドアから出るのは簡単だ。
しかし、エレノアが脱出するのを見越して部屋をメイド達が見張っている可能性は高い。
エレノアは父の娘だ。
父は母に一目惚れをし、弟である叔父達から奪うように娶った男である。
恋に素直に。
愛する者のためなら直往邁󠄀進に。
エレノアも父の血を確実に継いでいた。
エレノアはヘアピンで窓を開け、バルコニーに立つ。
王宮だったため、防衛の関係で崖の上に建てられ、エレノアの部屋のバルコニー側は断崖絶壁の崖と、広大に広がり海だった。
その高さは飛び降りれば確実に海に落ちて死に至るほど。
しかしそれは一般人ならば、だ。
いつも見る光景なため、エレノアは恐怖なく崖を見下ろし、バルコニーの縁に飛び乗る。
そして―――
「えい!」
エレノアは飛び降りた。
5 / 21
← | top | list | →
しおりを挟む