(9 / 12) 夜明けの抱擁 (09)

捨てるべき物を捨てられない人間はいる。
それが、大切な思い出を宿しているのなら、尚の事だ。
――今日は月子への訪問者は来ない日。
そういう日は一日が長く感じて、退屈でたまらない日だ。
本を読んでも頭に入らず、仕方なく月子は勉強に熱中するしかやることがなかった。
贅沢とは――人を弱くするということを、月子は4歳で思い知らされた。


「はあ…」


4歳がついていい重さではない溜息を、月子は思わずついてしまう。
勉強で気を紛らわせるが、ついつい意識は天井へと向けてしまう。
傍に侍女達がいるため天井を見上げることができないのが、今の月子にはつらかった。


(お手紙、書きたいな…)


不思議なことに、毎日同じことの繰り返しの日々なのに、父に伝えたい事が増えていく。
しかし、月子は手紙を書くために必要な物を持っていない。
それは月子が手紙を出す必要がなかったからだ。
手紙一式は遊びに来てくれる忍び達が持ってきてくれる。


(なんか、疲れちゃった…)


座って机に向かうのも、体は疲れる。
好意を持って足を運んできてくれる人達を知った今、以前なら何気なく過ごしていた日々が、今では苦痛に感じられる。
本当は月子だって他の子供達と同じように庭を駆け回りたいし、服を泥だらけにしながら楽しく遊びたい。
それを、母が―――月子の事を一番に考えなければならないはずの生みの親が、禁じている。
ストレスを溜めるのも無理はない。
だからこそ、月子は父からの贈り物を捨てられずにいた。


(お父様…)


そっと、胸元へ手を添えるように触れる。
そこには、父からの贈り物である折り紙が忍び込ませていた。
懐へ入れて常に持ち歩くことで、父や兄達"家族"の温もりを感じることが出来る気がした。


「月子」


大きな溜息をつきそうになるのを我慢していると、母が現れた。
勉強しているふりをしていた月子は筆を置き、母である実代に振り返る。


「……おかあさま?」


いつもなら、母の姿に嬉しそうに笑顔を浮かべる娘に徹するはずだった。
しかし、こちらにゆっくりと、ふらつきのある、おぼつかない足取りで歩み寄る母の表情を見て、月子は一瞬言葉を飲み込んだ。
母は感情を削ぎ落したかのような、不気味なほど冷たく、影を帯びていた表情で娘を見下ろしていた。


「おか―――」


母が暖かな優しい視線を、娘に向けた事は一度としていない。
だが、こんなにも冷たく凍りつくような視線は月子も初めてだった。
『どうしたのですか』と問おうとした月子の言葉を遮るかのように、実代は月子の着物の襟元を強く掴み、力任せに開いた。
その拍子に―――懐に隠していた父からの贈り物がポロリと床に落ちた。
『あ』と思ったが――すでに遅い。
月子が拾おうとするが、実代に先を越されてしまう。


「これは、なんだ」

「……………」


目の前に差し出された折り紙――最初に貰った鶴の折り紙を娘に突きつけて問う。
その声は刃物で刺すように厳しく、鋭く、温かみなど一切感じられないものだった。
まさに、怒りの声。
月子は、差し出された折り紙を見つめながらその口は硬く閉じる。
それが気に入らず、実代は掴んでいたままの襟元を引っ張り、娘を床に放り捨てる。
派手な音を立てて床に投げられた月子は痛みに目を瞑った。


「これはなんだと聞いている!!」


実代の叫び声のような怒号が部屋に響く。
傍に控えていた侍女達が、実代の癇癪にビクリと肩を揺らしたが、床に捨てられる月子には誰も駆け寄ることもなく、誰1人月子を助けようとしてもくれなかった。


「月子!!答えろ!これはなんだ!!こんな遊びお前に教えた覚えはないぞ!!誰が!お前に!これを渡した!!!」


恐らく、侍女の誰かが月子の懐にある折り紙を見たのだろう。
折り紙は月子に教えていない遊びだ。
ならば、この折り紙は誰かが月子に与えた物。
誰かが―――月子に不要な物を与えたか。
こんなもの、月子には必要がない。


「……………」


だが、母の激情に対して、娘は―――月子は硬く口を閉ざした。
そればかりか、月子は母をまるで睨むように―――否、睨んでいた。
母に優しくされた事はなくとも、叱られた事はなかった月子は、本来なら泣くはずなのだ。
だが、月子は泣く素振りもなく、母を睨みつけている。
実代は初めて娘の鋭い視線に戸惑ったものの、すぐにカッとなり声を荒げる。


「なんだその目は!!!そんな目で母を見るでない!!」


初めて娘に反抗的な態度を取られ、自分の思い通りにならない苛立ちと共に怒りを爆発させる。
いつもの癇癪を起こした実代は、力に任せて持っていた扇子を月子に投げつける。


「…っ」


子供だからと手加減のなく、思いっきり娘に向けて扇子を叩きつけた。
月子に投げつけられた扇子は、運悪く額に当たり、月子は痛みに手で抑える。
それでも反抗的なのは変わらず、鋭い視線は消えない。
あれほど母に尽くすよう育てたのに、娘は母に睨みつけている。
それが余計に母の癪に障った。


「お前も…!!お前も私を見下しているのか!!姉や妹どものように!私が石女だからと!!物以下だからと!!誰が…!!誰が腹を痛めて産んだと思っている!!誰がここまで育ててやったと思っている!!!」

「!―――実代様!!なりません!!」


激情が収まらず実代は娘の髪を掴み持ち上げた。
髪を引っ張られる形となり、体重がかかって月子の小さな体に痛みが走る。
痛そうに顔を顰める娘など気にも留めず、実代は騒ぎに駆けつけた婆の止める声も無視し―――娘を床に投げ倒した。


「――――っ」


強い痛みに月子が蹲る。
蹲る我が子の背中を蹴ろうとする実代を止める者はいても、蹲る月子に駆け寄る者はいなかった。


(…血)


床に叩きつけられた体が痛い。
だけど、額が一番痛くて、手を当ててみれば、ぬるりとした何かが手に触れた。
手を見れば、真っ赤な血が月子の小さな手についていた。
床に投げられた時、最初に投げつけられて床に落ちていた扇子に運悪く額に当たって皮膚を切ったのだろう。
少量だが、血が付いているのを見て月子は初めて―――恐怖心を抱いた。


「月子様!?」


―――気づいたら走っていた。
後ろから婆の声が聞こえたが、耳に入ってこない。
ここから逃げなければと思った。
母から逃げなければ――と。


「誰か!!誰か月子様を捕まえなさい!!」


婆が声を上げて侍女達を集める。
侍女達は困惑しながらも命令に従い、月子を捕まえようと手を伸ばす。
だが、いくら走った事がないとはいえ、恐怖を覚え必死になっている相手を捕まえるのは簡単ではなかった。

―――怖い

平坦だった、つまらないと嘆いてさえいた、月子の心が――恐怖に染まる。

――だれか

助けてくれる人がいないと分かっているのに、助けを求めてしまう。
脳裏に、男達の姿が浮かぶが、彼らは4日たたないと会いには来てくれない。
だけど、恐怖心から助けを求めてしまう。


「―――か…!誰か!!助けて!!」


捕まえようとする侍女を必死に避ける。
だけど、そんな奇跡、続くわけがない。
1人の侍女の手が月子に触れそうになったその時―――


「月子様!こちらに!!」


月子に向かって手が差し出された。
月子は考えるよりも先に、差し出されたその手に手を伸ばすと――抱き寄せられる。
それと同時に追っていた足音が止まり、月子は息を荒げながら目の前のモノに縋るように何かを握り締める。


「…どういうおつもりです」


婆の訝しむような、低い声。
その声にビクリと肩を揺らすと、怯える月子の体を誰かが優しく抱き締める。
その温もりに顔を上げると…知らない女性だった。
そこで月子はやっと周りを気にする余裕が生まれた。
周りを見れば、数人の女性達が、まるで月子を守る様に囲い、婆や侍女達と対峙しているのが見えたが、全員月子とは顔を合わせたことのない女達だった。
この女達は、人手が足りないためタソガレドキから派遣されていた里の女達だった。
組頭から有事の際――月子に何かあれば動くことを許された女達である。


「もう一度伺います…これは、一体どういうおつもりですか?」


婆の言葉に月子を抱きしめる女の力が強くなる。
月子が無意識に掴んでいたのは、抱きしめている女の着物だった。
女達は婆の言葉に鼻を鳴らす。
その態度に、婆――実代側の女達の雰囲気が一気に張りつめた。


「どうもこうもないでしょう…子供が助けを求めていたのですよ…それを見過ごすほど人間捨てておりませぬゆえ――ましてや、この方は雑渡家のご息女…あなた方のその振る舞い、見過ごせるとお思いですか」

「月子様はドクツルタケ忍軍当主、葉山家のご息女です…月子様は本来こんな辺鄙な場所にいるべきではないお方…田舎者風情が月子様に触れることさえも穢らわしい…返していただきたい」


『辺鄙』、『田舎者』、『穢らわしい』―――その言葉に月子を庇う女達もピリついた空気を放った。
まるで一触即発の空気に、月子は息を呑む。
思わず女の着物を掴んでいる手を強くすれば、安心させるように頭を撫でられた。


「それは私のだ」


二組が睨み合い、今にも爆発しそうな雰囲気を、1人の女が凍らせた。
婆たちに道を譲られ現れたのは、月子の実母―――実代。
実代の登場でその場に緊張感が走る。
女達の空気など気にも留めず、実代は真っすぐ、ただ娘だけを見つめ――指さす。


「それは私のだ…貴様らのものではない…返せ…わたしのものをかえせ」


一歩、足を踏み出す。
それに合わせて女達の緊張が更に高まり、月子を抱きしめている女は腕の力を入れ、月子を囲む女達は更に前に出て月子を守る。
普段ならそんな女達に、癇癪の発作が出るが、怒りが高まりすぎると逆に冷静になるというのは本当らしく、大人しい。


「私のものとはまるでご息女を物のように扱いますね…ご息女は―――」

「それはわたしのものだ―――わたしをドクツルタケへ帰すものだ」


実代はまた、一歩足を踏み出す。
一歩、また一歩と、歩み寄ってくる実代に、女達もそれに合わすようにじりじりと後ろへと下がっていく。


「かえせ」


女達は息を呑む。
女達の実代という女の印象は最悪だ。
癇癪持ちで、何か嫌な事があればああだこうだと喚き散らし、物を投げて無関係の者達に当たる、いい迷惑な女だ。
怒りで目を吊り上げ、顔を真っ赤にして叫ぶその姿しかタソガレドキの女達は知らない。
だが―――今はどうだ。
まるで能面のように感情が削がれ落ち、焦点の合っていないような視線で娘を貫く。
真逆の女に本当に同一人物かと疑ってしまいそうになる。


「御母堂殿」


異様な様子に、タソガレドキの女達も流石に恐怖を覚える。
忍者の里に生まれた女とはいえど、戦えるわけではない。
防衛的な戦闘術は持っているが、男達のように戦う術は持っていない。
ましてや、実代は見捨てられていてもドクツルタケ忍軍当主の血縁者だ。
立場的に襲ってきたのが実代だとしても、彼女に危害を加えるとタソガレドキの女達が処分させる。
逃げるしか選択肢がない女達と、じりじりと追い詰める実代の間に、数人の忍者が現れた。


「山本様…っ」


忍者は―――狼隊小頭代理、山本陣内。
その後ろには同じく狼隊の高坂陣内左衛門や他の狼隊が月子と女達を守るために庇っていた。
騒動に気づいたタソガレドキの女が忍軍に助けを求め――狼隊が助けに駆けつけたのだ。
婆達は忍び達の登場に騒めいたが、山本達が姿を見せても、実代のその虚ろな瞳は月子しか映していない。


「貴女方の振る舞い、もはや容認できなくなりましたゆえ―――月子様は我々のもとでお守りいたします」


月子が怪我をしていると聞いて、組頭からすぐに許可が出た。
組頭から許可が出れば狼隊は喜んで月子を助けに向かった。
月子が怪我をしたと聞いて誰が行くかなど争う暇はなく、事前に決めていたメンバーで急いで向かった。


「貴様らか…私の月子を誑かしたのは」


婆たちも流石にこの里の領主でもある組頭の後ろ盾をチラつかせられると強気には出れなかった。
同盟を結び、実代とは政略結婚とはいえど、実代と組頭では、あちらの方が立場は上だ。
今まで見逃してくれただけで、いつでもあちらは月子を奪えるのだ。
実代はふと、呟く。
月子しか見ていなかったその視線は山本へと向けられたかと思えば―――突然声を上げて笑い出した。
その笑い声に山本は眉を潜める。


「いや、雑渡か!!雑渡が私から月子を奪うためにでまかせを吹き込んだのか!!滑稽よな!!娘に認知もされぬ化け物が!!娘を見捨てたくせして誰にも顧みられぬ己の有様に今更孤独が身に染みたか!?必死に媚びへつらい我が子に縋りつくとはな!!哀れなものよ!化け物風情が父親面など滑稽にも程がある!!」


その言葉に、タソガレドキの者達からは殺意すら感じた。
月子はまるで異物を見るかのように母親を見る。
母や屋敷の女達が男――父を快く思っていないことは知っていた。
聞いたわけではないが、何となく嫌っているのだろうなという空気は幼いながらも感じ取っていた。
だが、父を―――人を、化け物だと嫌悪を隠しもしないその様に娘として衝撃を受けた。
そして同時に母の醜さにぞっとさせた。


「…やめて」


タソガレドキ側は命令があれば、すでに実代の命などとっくの昔に消していた。
それほど、ドクツルタケから嫁いできた女達へのヘイトが強かった。
山本は耐えていたが、後ろにいる狼隊や、タソガレドキの女達は殺気が隠せずにおり、陣左達に至ってはすでにその手にはクナイが握られている。
そんな若手達を咎めるでもなく、山本は見逃した。
そんな中、幼い子供の声が二組の間に落ちる。
その声にその場にいた全員が視線を向ければ、月子だった。
月子は涙を溜めた瞳で母親を見つめていた。


「やめて…月子のお父様を…そんなふうに、いわないで…」


自分を守るように抱きしめてくれる女の着物を、ぎゅ、と握り締めながら涙をため母を見つめる月子は、見ている者の胸を締めつけた。
だが、母であるはずの実代は違った。
実代は娘の勇気を出したであろう訴えを鼻で笑って退けた。


「お前に父などおらぬ」


ぐ、と女の着物を握る力が強くなった。
それを唯一感じる事が出来る女は、月子を安心させるように背中を撫でてやる。
そのおかげで月子は少しだけ落ち着きを取り戻した。


「御母堂殿…月子様は雑渡家のご息女であり、その親権は雑渡昆奈門にございます…これまでご実家に免じて月子様をお預けしておりましたが…今回の騒動を受け、もはや看過することはできません―――つきましては今後月子様は当方にてお育ていたしますのでどうかお引き取りくださいますようお願い申し上げます」

「何を―――」

「これは組頭のお言葉にございます」

「………」


流石の実代も、タソガレドキの組頭まででしゃばられたら引くしかなかった。
悔しそうに顔を顰めて一歩足を引かせたその姿を見て、誰もが勝ったと思った。
そして、それは油断に繋がった。
実代は悔し気な表情を隠し、月子を見つめ―――


「月子、お前が"父"と呼んだ男は女児と知った途端にお前を手放した男だ―――それを忘れるな」


嘘は、言っていない。
あの男も、この里の者達も、実代と婚約を結んだのは男児のためだ。
女児はそちらの好きにすればいい―――そう、はっきりと言ったのを実代は覚えている。
現に、雑渡達は月子など気にも留めていないから母と共にこんな離れに押し込んだ。
――苦し紛れだと思われてもいい。
娘の心に影が生まれれば、それでよかった。
娘の表情を見た実代は満足し、山本が何か言うよるも早く、実代は背を向け、その場を去っていった。
婆たちも実代に続き、その場には不安を抱いた月子と、苦々しさを覚えていた山本たちだけが残った。



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