―――ついに、と雑渡は思う。
ついにあの女はやったのか、と呆れた。
だが、それ以上に心が震えるほどの感情が、雑渡の身体に走った。
「今、月子は」
「怪我の手当を受けています…怪我も皮膚を少し切っただけで特に問題はないそうです」
「誰が付いてる」
「高坂です」
報告をしに来た山本の言葉に、雑渡は『そうか』と安堵の息に混じって吐く。
怪我を負ったと聞いた時は肝を冷やしたが、皮膚を切っただけで浅い傷と知って安堵した。
『心配だしリハビリも兼ねて医務室に行ってくる』と言って立ち上がろうとする雑渡だったが、山本から『すぐに来るから大人しく待っていなさい』と昔の口調で宥めらてしまい、山本に言われてしまえば雑渡は大人しく待つしかなかった。
とはいえど、ついに娘に会えるかと思うと大人しくできるはずもなく…先ほどから雑渡はそわそわと落ち着かない様子を見せていた。
「ねえ、陣内…あの子、私を見て怖がらないかな…こんな包帯だらけの父親、嫌だろうし…私を見てあの子が泣き出したらどうしよう…」
ただ待っているだけだと、考えたくないのに色々と余計な思考が浮かんでくる。
何もすることがないから余計に考えてしまうのだろう。
雑渡は己の手を見ると、ぐるぐると包帯が巻かれている。
包帯の隙間から除く皮膚は赤黒く変色しており、ケロイドだらけの皮膚は、大人でも気味悪がるほどだ。
一応は、部下達に父親の姿を話してもらってはいるが―――話に聞くのと実際見るのとはやはり異なるため、娘に『怖い』と言われ泣かれたら…
はわわ、と包帯越しでも分かるほど顔を青ざめる雑渡に、山本は溜息をつく。
「あの子にはあなたの姿を伝えてあるのでしょう?最初は驚くでしょうけど、あの子は優しい子ですからすぐにあなたの姿に慣れると思いますよ」
「うん…そうだといいけど………………ん?……待って、陣内…お前さ、『月子ふれあいイベント』に参加したことなかったよな?…………お前…私の月子の何を知っているんだ????」
「めんっっどくせ〜〜〜〜」
月子ふれあいイベント―――もとい、月子との接触は、基本的に中堅以下の忍びが行うことが多い。
イベントと共に、忍び達の研修も兼ねているので、山本は参加したことはない。
月子を保護するためにあの屋敷に訪れたのが初めてなくらいだ。
山本は拗れた男の言葉に、隠すことなく嫌そうに―ほんっっとうに嫌そうに―顔をしかめたし、隠すべき感想を隠そうともしない。
もはや敬語で体裁を整える気さえも起きない。
「月子を迎えに行った時、御母堂がお前を『化け物』と言ったんだ―――その時、月子が『私のお父様をそんな風に言わないで』と母親に訴えた…母親に反抗するのも生まれて初めてだっただろうに…優しく、勇敢な子だな」
実代に『化け物』と言われることに、雑渡は何も感じない。
実代のような女に罵られても、傷つく心を雑渡は持っていない。
――月子は母に縛られて生きてきた。
母に抵抗も反抗もしたことのない人生を送っていた子が、父を悪く言われたからと、生まれて初めて母親に反抗した。
それは、きっと人が思う以上に、月子にとっては勇気がいる行動だっただろう。
子供がいるからこそ、月子の行動には驚かされた。
山本はチラリと雑渡を見ると―――顔を手で覆って蹲っていた。
「尊い…」
ただそう呟くだけの雑渡に、山本は『分かる』と同じ親として雑渡の心情にコクリと頷いた。
会った事もない――それこそ、手紙とのやり取りでしか関りのない父親のために、逆らった事のない母に初めて逆らってくれた。
そんな健気な娘に尊さを見出さない父親などいない。
「ところで…組頭への挨拶は…」
「組頭からは親子の再会の後からでいいと仰ってくださっている…お前もまだ満足に動けないだろうからと頃合いを見て会いに来てくださるそうだ」
「うぅ…懐の深い組頭が尊すぎる…一生推す…」
「お前情緒大丈夫か??」
雑渡は不仲とはいえど、妻の事で里や組頭に迷惑をかけていることに心苦しく思っていた。
とはいえ、雑渡と実代の婚約は雑渡家だけの問題ではないのは確かだ。
国内での婚約と違い、実代は外からの嫁入り―――いわば国際的な背景が必ず絡む婚約である。
ドクツルタケは突っつけば蛇は蛇でも猛毒の蛇が出て来るため、この問題に組頭や里の者達が関わるのは当然であり、雑渡も自由には動けないのも当然であった。
――今回の件、実代は必ず実家に手紙を送るだろう。
だが、ドクツルタケ忍軍は――実代の母は娘を孫娘ごと切り捨てた。
恐らく対応はされず、無視されるだろう。
それどころか、娘の手紙を母まで届くかも危うい。
後はどう実代を処罰するかを考えるだけとなり、雑渡はその全てを組頭に任せることにした。
すると、月子がこちらに向かっているという部下からの報告が届く。
「うぅ…胃が痛くなってきた…」
「ダイジョーブダイジョーブ」
「それ全然大丈夫と思ってない人の言い方じゃん…」
緊張しすぎて胃が荒れた気がする。
胃の辺りを抑える雑渡に、山本が適当に返した。
そんな何気ないやり取りでも胃の負担が軽減した気もしないでもない。
「やっぱり父親と2人きりだと気まずいか…?春たちも連れてきた方が良かったか…?」
「月子は家族と隔離されて育てられたのだからと、まずは父親から慣らした方がいいと言ったのはお前だろ…」
息子達を合わせるのは後日と言い出したのを聞いた時、山本は『絶対月子と2人きりで会いたいからだろ』と思ったが、口にしないでおいた。
そうこうしている内にも月子の足音が近づいているのが分かる。
気配を感じることが出来るといっても、鍛えていないため足音を消す技術はまだない。
「小頭――月子様をお連れしました」
付いてくれている陣左の声がその場の―――雑渡の緊張を高める。
身体を起こしていた雑渡は、障子に写る二つの影に、丸まっていた背中をピンと伸ばす。
ぐ、と唇を噛む雑渡に代わり、山本が『入れ』と入室を許可すると、まだ心の準備が出来ていなかった雑渡からジトリと睨まれたが、山本は無視する。
「失礼します」
陣左が障子を静かに開けると、陣左と共に月子の姿が雑渡の目に写る。
それは雑渡だけではなく―――月子もここで初めて父をその目で写した瞬間だった。
2人は――月子は、父を見つめる。
それはまるでお互いの姿を確かめるように―――そこにいる存在を目に焼き付けるように。
2人して見つめ合い、何も言わないその姿に、山本と陣左は口を挟むことはしなかった。
この里で、誰よりも父や娘に会いたいと思っていたのは、この2人なのだ。
ずっと焦がれていた相手を目の前に、外部である自分達が口を挟むべきではないだろう。
先に動いたのは、月子だった。
月子は室内に入らず、その場で三つ指をついて頭を下げる。
「お初にお目にかかります――」
固い挨拶。
すぐに三つ指をつき頭を下げただけでも、4歳にしては十分すぎる所作だ。
本来、父親なら褒めるべきことではあるのだが―――今はそんな固いやり取りは望んでいない。
「月子」
「…!」
月子の叩き込まれた挨拶を雑渡は名を呼ぶことで遮る。
父の初めて声―――そして名を呼ばれた。
嬉しいはずなのに、挨拶を遮られた月子は、何か無作法でもしてしまったのかと、頭を下げたまま固まった。
その顔は青ざめ、冷や汗をかく。
緊迫した空気に山本と陣左もその空気に耐えるようにグッと拳を握り締める。
三人が緊張しているのを感じ取りながら、雑渡は出来るだけ穏やかに優しい声で『頭をあげなさい』と月子に頭をあげさせた。
父の言葉に、月子は凍りついたように固くなった身体を動かし、顔を上げる。
――怒られる、と思った。
何か失敗をしてしまったのか、と。
実際、これまでの人生で得た経験がそれを裏付けている。
だが、顔を上げてみれば――父は穏やかで優しい表情を浮かべ、月子に両手を広げていた。
「こっちにおいで」
今までつらく寂しい思いをさせてしまった。
固く長い挨拶を聞く暇があれば、一秒でも早くこの腕で娘を抱きしめてやりたい。
身勝手な思いかもしれないが、立場や父親の威厳よりも、親心が勝った。
「…っ」
父の言葉に、月子は目を丸くさせた。
凝視するように唖然と見つめる月子に、雑渡は目を細め、笑みを深める。
月子は父から―――否、誰からもそんな暖かな優しい表情を向けられたことはなかった。
母には『おいで』と両手を広げられたことどころか、微笑まれたことなんてない。
ましてや月子は生まれてから母の優しい声を聞いた事もない。
逆にどうしたらいいのか分からず、視線を泳がせてしまう。
それでも父は待っていてくれた。
月子の視線はあちこちへ泳ぎ――傍にいる陣左へ辿り着いた。
陣左は離れの屋敷でも何度も会った事があったし、治療中も傍にいてくれたので、この場では一番月子に懐かれているといっていい。
バチリと月子と目があった陣左は、月子の表情からどう対応したらいいのか分からないと気づき―――コクリと頷いて返した。
その意味を分からないほど、月子は子供にはなれなかった。
「………」
本当に、その腕の中に飛び込んでいいのだろうか―――月子はチラリと父を見る。
上目遣いで見る父の顔は変わらず自分に微笑みを向けてくれていた。
侍女のように気乗りしない表情もなければ、母のように無感情でもない。
―――月子は、陣左を信じる事にした。
「し、失礼します…」
月子は恐る恐る、ゆっくりとした動きで部屋へ入り、父の腕の中に入る。
ぎこちない動きに、顔色を伺う上目遣い。
まるで警戒心が解けきれない元野良猫の甘え方に似ている。
それと同時に、子供なのに顔色を伺うその姿に、父として大人として、胸が痛くなる。
だからこそ、実代への憎悪が更に深く重くなる。
「お、お父様…」
「ん?」
遠慮して膝の上に乗ってくれなかったので、雑渡はその小さく愛らしい体に腕を回し、膝の上に乗せる。
父の腕が娘の体に回されると、ビクリと娘の肩が跳ねた。
警戒している―――というよりは、抱きしめられることに慣れていないのだろう。
誰も抱きしめられず育ってしまったことを…あの屋敷では愛されず育てられたということを…娘の反応によって思い知らされた。
だが、今はそんな事どうでもいい。
愛情など、これから知って行けばいいのだ。
父の腕が安心する場所なのだと、これから教えてやればいいだけの話だ。
恐る恐ると父に話しかける娘に、雑渡は出来るだけ優しく返事を返す。
父の優しい笑みと声色に少し安心したのか、『えっと』と言葉を選ぶ。
「お身体に障りませんか?」
陣左達から聞いた火傷の件や、父の包帯姿を見て、子供といえど自分が膝の上に乗っても平気なのか月子は心配になった。
子供なりに父に気遣っていた。
恐る恐る父を見上げると、父は何故か目を瞑り、天井を見上げていた。
(な、何か気に障ったことを言ってしまったのかな…)
初めてのことばかりで彼らの行動1つ1つが月子にとってネガティブにとらえてしまう。
あわあわとさせて、月子は思わず陣左へ助けを求めた。
――が、陣左もなぜか顔を手で覆って下を向いており、ならば、山本はどうかと見てみれば…彼も目を手で覆って俯いていた。
「????」
月子、大混乱の段――である。
今まで周りが冷たすぎて『尊い』という感情を月子は知らず育ってきた。
まさか自分以外のこの場にいる"全員"が『はわ…(私の娘/月子様)優しすぎる…尊い…これが…尊死…』と思っているとは思わないだろう。
そう、この部屋には雑渡以外の他にもいたのである。
みんなもせっかくの親子の再会だからと遠慮しようと思ったが、やっぱり気になったのだった。
当然、雑渡も気づいてはいるが、みんなに迷惑をかけたからと見逃している。
月子も気配がするな――とは思うものの、自分の相手をしてくれた気配と同じだという判別は出来ているので、触れないでおいた。
それに、今は目の前の父に意識を向けていて、気にかける暇はないのだろう。
「お父様?――やはり月子は重いですか?どきますか?」
「重くないよ、全然…まるで羽のように軽いから心配はいらないよ」
『ほら』――と座ったまま月子の脇に手を差し入れて持ち上げる。
脇に手を入れられて持ち上げられた事すら初めての月子は『わっ』と驚いた声を漏らし、目を丸くして父を見下ろした。
一体何をされたのか、とキョトンとさせ目を瞬かせてこちらを見下ろす姿が、あまりにも猫ちゃんで、雑渡は目を細める。
すぐ膝の上に戻し、雑渡は娘の頭を優しく、ゆっくり、撫でる。
「ね、月子は軽いでしょ?」
「は、はい…月子は…軽い?ですね??」
ね、と言われても一体何が『ね』なのか分からないまま、月子はコクリと頷く。
人の言葉を疑問に思いながらも頷く娘が可愛い。
ニコニコ顔の父に、月子は『まあ、お父様が嬉しそうだし、いいか』と釣られたようにニコッと笑い返した。
娘の笑顔に、雑渡の頬も、周りの頬もこれでもかと緩む。
ずっと月子の事を気にかけていた分、まだぎこちないが月子の笑顔が見れた嬉しさもひとしおだ。
雑渡は娘の額に触れる。
優しく触れる父の手に、月子は首を傾げた。
「お父様?」
「可哀想に…痛かっただろう?」
月子の額には、初めて恐怖を感じた傷があった。
小さな傷だったので、治療された今はもう痛みはない。
「治療をしていただいたので、今は痛くありません」
「本当?無理していない?」
「はい、月子は無理しておりません」
「先生に虐められなかった?」
心配し過保護になる父に、月子は目を瞬かせたが、『お父様ったら』と愉快そうにクスクスと笑う。
本当に痛みは感じていない娘の笑みに、雑渡の目元が下がる。
「月子」
「はい、お父様」
初めて会うのに、緊張しているのは何も雑渡だけではなかった。
月子も父と会えると知って緊張していた。
だが、今は父と会話を交わし、頭を撫でられ、月子の緊張が少しずつ解かれ表情も自然なものへと変わっていくのが分かる。
だから、今かと思った。
髪を梳くように撫でられながら名を呼ばれた月子は、穏やかな顔で父に返した。
「私は…父はね、お前を手放したわけではないよ」
「――!」
穏やかだった心が一気にざわついた。
それを隠しきれず、月子の表情は強張り、父の着物を思わず縋る様に掴む。
娘の心情を察し、雑渡は優しく語り掛ける。
「お前の母の実家はね、男ではなく女しか必要とされない家だ…だから、互いに跡取りの思惑が一致して私たちは結婚した…最初は月子をあちらへやつるもりでもあった」
山本や部下達から『今、それは話すべきことなのか?』と非難めいた視線や気配を向けられたが、雑渡はそれらすべてを無視する。
今、話すべきであると雑渡は判断した。
山本から、実代が月子に『お前は父に捨てられた』と吐き捨てたという報告を聞いてから、考えていたことだ。
この問題を後回しにしては、きっと後で後悔することになると感じた。
必ず糸が絡まり取れなくなると。
心に刺さっている棘を早く抜かなければ、棘は日々月子の心に食い込んで取れなくなってしまう。
その前に、ちゃんと月子と向かいあうべきなのだ。
月子は母の言う通り、父に必要とされていなかったと、父本人の口から聞き…大きなその瞳に涙が溜まる。
瞬きもする余裕はなく、溜まった涙は雫となって月子の頬を濡らす。
自分が泣かせているのに、雑渡は娘の涙に心苦しく見つめた。
そっと娘の頬を撫でるように涙を拭ってやり、穏やかな声で続けた。
「でも、それは間違いだったとすぐに気づいたんだ」
父を見られなくて俯いていた月子だったが、父の言葉にゆっくりと、少しだけ顔を上げた。
チラリと父を見上げると、父は穏やかな声と同じく、娘の姿を慈しむ目で見つめていた。
その表情や視線だけで、月子の曇りかけていた心は少しだけ晴れた気がした。
「あの時は…月子が生まれるまでは、それが雑渡家の当主として正しいのだと思っていた…私達の結婚は家と家の約束事でしかなかったから…女が生まれればそれで終わりだとばかり思っていたんだ…」
実代との間にあるのは愛でも情でもなく、ただの嫌悪だ。
それはあちらだって同じだろう。
実代との行為は本当に地獄だった。
任務で女相手に夜を共にする事はあれど、あの女以上に地獄だと思った事はない。
だから早く女が生まれればいいと思った。
そうなればこの地獄から開放されると。
だが、結局、雑渡は父の情を捨てきれなかったただの人間だったのだ。
顔も、声も、それどころか母親の腹の中にいる姿でさえ見たことのない娘なのに、自分の娘だと思うと愛おしく感じてしまう。
忍びとしては失格でも、父親としては正しい人間だった。
「本来なら、あの離れにお前の母を移す時に私達は月子を母から取り上げるつもりだった…けれど、当時私は火傷を負って間もなくてね…そのせいで里中落ち着かなくてお前にまで配慮が及ばなかった…それでも月子を渡すよう命じても母親は決して譲ることなかった…むしろ、私たちに月子を渡すくらいなら殺すと言って小刀をまだ赤ん坊だったお前に向けた」
流石の実代でも本気ではないだろう――そう思い強行突破しようとしたが、赤ん坊だった月子の胸元に当てられた刀の切っ先が食い込み、プツリと赤ん坊の皮膚を破ったのを見て、忍び達は実代が本気だと気づき身を引いた。
それは月子も初耳で、もしかしたら死んでいたかもしれないと顔を青ざめた。
子供に向ける話ではないと雑渡も分かっているが、母の言葉を鵜呑みにするくらいなら伝えるべきだと隠さなかった。
「もしも、この話が疑わしいのならそこにいる山本陣内に聞いてごらん…お前の母に月子を渡すよう頼んだのは彼だから」
父がそう言って傍に控えている山本を指さす。
月子が指さす方へ視線を向けると、山本と目が合い、山本は顔を青ざめる月子を安心させるよう微笑んでくれた。
「お母上殿は周囲を傷つけるようになったため、やむなく離れに移ってもらうことになりました…その際お母上殿が貴女にも手を上げてしまうのではと心配し、私と数名の忍びでお母上殿に貴女を私たちに渡していただけるようお願いしたのです…しかしお母上殿はそれを断固拒み、もし無理やり引き離すならと――小刀を赤子だった貴女に向けたのです」
当然、組頭の命令でもあり、許可も貰っている。
あの時、実代は関係の修正をしようと試みた婆に言われて渋々見舞いに行ったが、火傷を負った夫を『化け物』と呼んでは意識朦朧としている夫に罵倒の言葉を投げつけた。
それ以来、婆も関係の修正を諦め、忍び達――タソガレドキの里の者達との間には深く大きな溝が生まれた。
それから、実代の癇癪が酷くなり、息子達に被害が及ぶ前に隔離した。
その際に、娘にまで手を出しかねないと思った組頭が実代に月子を引き渡すよう言った。
だが、やっと物から人間へと戻れる光だった月子を手放すことを、実代は強く拒んだ。
結局、山本達は月子を殺しかねないと判断し、仕方なく身を引くしか選択肢はなかった。
実代の実家からの影響を舐めていたのだろう。
「月子様…当時、貴女の御父上殿は火傷で生死を彷徨っていた時でも貴女方を気にかけていらしたのですよ」
「私たちを?」
「はい…火傷で満足に話す事ができなかった御父上殿は兄君や貴女の名を何度も呟き、お三方を何度も気にかけていらしたのです」
あの時の事は鮮明に覚えている。
―――あんなもの、忘れられわけがない。
焼けた肌や肉の匂いと薬草の匂いが混じった匂い。
包帯に滲む血や膿――そしてその匂い。
食事どころか薬さえも満足に飲むことができず、喉が通るたびに痛みを訴える呻き声。
意思疎通もまだできなかった時。
雑渡はうわごとで息子の名と―――生まれたばかりの娘の名を呟いていた。
何度も、何度も。
これを話したのは、山本も雑渡と月子の間にある蟠りを気にかけているからだ。
実代の捨てセリフが引っ掛かっていたのもあったのだろう。
「お父様は…私を想ってくださっていた…」
山本や父の話を聞き、月子は胸に温かみを感じた。
父の存在を知ってから、月子はずっと心の隅に不安と疑念を抱えていた。
―――なぜ、父は今更になって接触しようと思ったのか。
―――なぜ、会いにきてはくれないのか。
まだ事情を知らなかった頃だから、父が今更になって接触してきた事への疑問が生まれた。
父だ娘だと言うわりには、4歳になるまで放置されていた。
贈り物までするわりには、今まで関わろうとしなかった。
――会いに来てくれる忍び達にさえ言えない疑問と不安だった。
だが、父や山本の話を聞いて、その抱えていた不安と疑念が晴れた気がした。
ずっと父は月子を想ってくれていたのだ。
だが、それは月子の憶測であって、希望だ。
違ったら天から地獄へ突き落されていると同義。
父の反応が怖くて、恐る恐る父を見た。
目が合った父は、月子の表情から何を不安に感じているのか察し、にこりと笑みを向ける。
「当然じゃないか…お前を想わない日はないよ」
包帯を巻かれている、しかし、優しい手が月子の髪を梳くように撫でる。
母にさえ撫でられたことのない―――誰一人、触れることもなかった髪を、父は何の躊躇もなく簡単に触れてくれる。
月子はあの屋敷で抱きしめられたこともなければ、優しい言葉もかけられたことも、暖かな想いも向けられたこともない。
誰も月子を見てくれなかった。
なのに、父は――父達は、まっすぐ月子を見てくれている。
会ったことがなかったのに。
話したことも、触れたことも、なかったのに。
「……っ」
月子の瞳に涙がこぼれる。
月子は4歳にして、やっと―――『愛』を知った。
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