それは突然だった。
「ねえ、ばあや」
幼女、月子はそばに控えていた初老の侍女に声をかけた。
月子の周囲には若い侍女が数人囲むように控えており、幼い月子と遊んでいた。
ばあやと呼ばれた侍女は『はい、なんでしょう』と目じりにしわを増やしながら笑みを浮かべ月子に返事をした。
若い侍女達と大人しく毬で遊んでいた月子は婆を見上げて言う。
「"おとこ"とはどのようなものなの?」
その問いをした瞬間、その場の空気は一瞬にして凍り付いた。
子供ながらに凍りついた空気に気づき、自分は何かいけないことでも聞いたのかと焦る。
『ばあや?』ともう一度恐る恐る問えば、月子の怒られそうになっている表情にハッと我に帰り、凍りついた表情を和らげて微笑む。
「なぜ…そのようなことをお聞きになられるのです…?」
月子を怖がらせないようにしてはいるが、声を震わせているため怒りが隠しきれていない。
だが、まだ幼い月子には誤魔化せたらしく、月子はなぜ問われるのかと首を傾げながら伝えた。
「ほんにかいてあったの」
誰もが息を呑んだ。
月子に見せる本はどんなものでもこの屋敷の者達が全て書き直している。
全ての本に書かれている『男』という存在を排除し、女だけの物語を月子に読み聞かせてきた。
精査と検閲を繰り返し、何重ものチェックを経て月子の手元に置かれる。
全ては月子に『男』などという汚らわしい存在から遠ざけるために。
なのに。
だというのに。
月子の口から『男』という単語が出てきてしまった。
『男』というだけで穢れると思っているその場の女性達は顔を青ざめ、婆はキッと鬼の形相で傍にいる侍女達を睨む。
しかし、侍女達は身に覚えはなく顔を青ざめながら首を振る。
そんな婆達に月子は不思議そうな目で見つめており、その視線に気づいた婆は月子が好きなふわりとした優しい笑みを浮かべた。
「申し訳ございませぬ、月子様…不手際がありましたようですね…この世に『男』という存在はおりませぬ」
「…でも…ほんにはおとこってかいてあったのよ…」
「いいえ、月子様…それは書き手の不手際にございます…正しい書物は後日お渡しいたしますので、その本を渡していただけませんか?」
「…………」
婆の言葉と、笑顔の圧に、月子は負けた。
本当はお気に入りだから渡したくないのだが、婆に強く言われてしまうと月子は勝てない。
ん、と無言でその本を渡すと、婆は『ありがとうございます』といつもの笑みに戻り、月子はホッと安堵する。
それに対して婆はその笑顔の裏に鬼を宿していた。
―――その場はいつも通りに過ごし、婆は月子が昼寝をしたのを確認した後、月子の生母である実代の下へと向かう。
そこには既に連絡を受けていた実代が婆と同じく怒りをあらわにし、頭を深々と下げる1人の侍女を見下ろしていた。
「貴様…これはどういうわけか聞かせよ」
「申し訳ございません!!っ…き、気が付かなかったのです…!」
「気づかぬわけがなかろう!!齢4つの月子が気づいたのだぞ!!貴様のその目はよほど役立たずらしいな!!」
「も、申し訳ございません!!申し訳ございません!!」
持っていた扇子を女性に投げつける。
勢いよく投げつけたので、相当な痛みだっただろう。
だが、女性は床にこれでもかと額を押し付け、必死に謝っていた。
だが、実代の気は収まらない。
しまいには湯呑をも投げつけるしまつ。
"ある事"から癇癪が酷くなっている実代の感情を激しくさせるミスをしでかした侍女に婆は冷たい瞳で見下ろしながら、流石に怪我を負わせては"あちら"に突っつかれる理由を作ると止めに入る。
「落ち着きなさいませ…粗忽とはいえすぐに気づき回収できたのは幸運でした…これには私めが処罰を下しますゆえ、実代様は月子様のお傍に――」
庇うつもりは毛頭ないが、"あちら"の付け入る隙を与えるべきではないと判断し間に入った。
だが、婆の言葉を実代は、ダン、と大きな音を立て立ち上がることで遮る。
ビクリと侍女が肩を揺らすのを無視し口を閉ざした婆を他所に、実代はそのまま頭を下げて震える侍女に歩み寄り―――髪を掴み顔を上げさせる。
力を入れて髪を鷲掴みにされ顔を上げさせられた侍女は痛みに顔を顰めた。
そんな侍女を実代は鬼の形相で睨みつけて言った。
「貴様…雑渡の手の者か」
ひくり、と侍女の喉が震える。
それはギロリと睨む主人と冤罪への恐怖からだったが、癇癪を起している主人には『肯定』として受け取られてしまう。
婆が止めに入るのも無視し、実代は侍女の髪を掴んだまま引きずり、そのまま庭に侍女を放り捨てた。
痛みに動けない侍女を実代はまるでゴミを見るような目で見下ろし、声を張り上げ他の者を呼ぶ。
声を張り上げ他を呼ぶ実代に、『御母堂様!いかがなさいました!』と何かあったと思い慌てて現れる侍女達に、実代は庭に投げ捨てた侍女を見下ろしながら言った。
「こやつは雑渡の間者だ!今すぐに処せ!!」
集まった侍女達はギョッとさせて庭にいる侍女を見る。
全員信じられないという顔だった。
それはそうである。
この侍女は優秀で、周りとよく溶け込めており、目立った粗相などなく、この里の人間とはいえど順当に地位を確かにしてきた女だ。
この侍女を嫌いな仲間などいない。
実代の癇癪は有名で、ちょっとしたミスでも大げさに責め立てる。
今回もそうなのだとみんな分かっていた。
だが、流石に間者だから殺せという命令は初めてで、とりあえず主人の命令のため、抵抗する侍女を取り捕まえたものの、どうするべきかと皆困惑した。
侍女達の視線は婆へ向けられ、婆は溜息をつきながら『はよう処せ!!』と喚く実代に歩み寄る。
できるだけ刺激しないよう、優しく声をかける。
「実代様、落ち着いてくださいませ…確かにこの者の不手際は重大ではございますが…だからと間者に結び付かせるのはいくらなんでも安直にございます」
「ばあやはお黙り!!こやつが雑渡の間者でなければなんだというのだ!!子供でも気づくものがただの不注意なわけがあるか!!こやつは雑渡の回し者なのだ!!私から月子を奪おうとする雑渡の!!殺せ!私と月子に仇なす者だ!!殺せ!!!」
今日は特に機嫌を損ねているらしく、癇癪は激しく強かった。
動かない侍女達に痺れを切らしたのか、実代は傍にいた侍女の薙刀を奪い拘束されている侍女へ駆け寄ろうとした。
それには流石に婆や他の侍女達が止めに入るが、その勢いは止まらない。
「実代様!!旦那様はこちらに関心すら持っておられないことはご存じでございましょう!!この者の処分はこの婆が下します!!落ち着かれませ!!」
夫である雑渡昆奈門とは恋愛結婚ではなく、よくある政略結婚だ。
政略結婚でも夫婦仲が良い者達もいるが、実代と雑渡の相性は最悪だったのか、仲はよろしくない。
すでに雑渡は…タソガレドキの者達は嫡男を含めた男児を産んでから関心はないようで第一子を産んでから接触はほとんどない。
そもそも、最初からこちらに関心はなかったのだろう。
女児を…月子を産んでからは一切関わろうとせず、里とは離れたこの離れの屋敷に実代達を押し込んで以来接触はない。
「ならば姉どもか!!女児を産めぬ石女どもが月子を産んだ私を妬んで送った間者であろう!!離せ!!貴様らが動かぬならば私が処す!!!その手を離せ!!!」
実代の脳裏に浮かぶ姉達に顔を顰める。
昔から気に入らない女達だったのだ。
男児しか産めない石女どもが女児を産んだ自分を妬んだと本気で思っており、止める婆達を振り払う勢いで暴れ出す。
だが、流石に人数には勝てず、実代の手から薙刀が奪われてしまった。
暴れ疲れたのか、実代は座り込み息を荒くしながらもギロリと拘束されている侍女を睨んでいるが、その瞳には涙が浮かびポロポロと涙を流し始めた。
「許さぬ…月子は私の子だ…私から月子を奪うなど決して…誰であろうと許さぬ…」
「はい、存じております…そのために私達がいるのです…」
「なぜ…なぜだ…ばあや…なぜ母上は呼び戻してはくれぬ…なぜ女児を産んだというのに私はこんな穢れた場所にいなければならない……」
「しばしの辛抱にございます…実代様…すぐに…すぐにお母上様からお声がけいただけますよ」
抵抗らしい抵抗もなくなり、侍女の抑え込む力も少し和らぐ。
幼子のようにポロポロと泣き出す実代を、婆は優しく声をかけ、慰める。
幼い頃のように抱きしめて繊細なガラスに触れるように実代の頭を撫でてやった。
そんな婆に、実代は縋る様に婆の着物を掴む。
それは癇癪が収まった証拠でもあった。
「この者が間者かどうかは私めがお調べいたします…実代様はどうかお休みください…」
「…殺せ…間者は…私と月子を害する者は全て殺せ…」
「承知しております…実代様…どうか月子様のお傍に…月子様もお目覚めになられた際にお傍にお母上様がいらっしゃらないと寂しがってしまわれます」
「……月子…」
娘の名に、幼子だった実代の心に母が宿る。
心あらずと言わんばかりにふらつく足で娘のいる部屋へと向かう。
侍女に介抱されながら娘の下へ向かう実代を見送った後、婆は拘束されているただのミスをしただけの侍女を見下ろす。
「…牢へ連れていきなさい」
ひとまず侍女は牢へ放り込むことにした。
本当に侍女を調べるにせよ、時間稼ぎにせよ、もうこの侍女はここでは働けない。
きっとこの侍女を見た実代はまた癇癪を起し、今度こそ自分の手で処刑しようとするだろう。
高貴なあの美しい手を血で汚さないために婆や侍女達はいるのだ。
連れていかれる侍女を見送りながら、婆は重い溜息と共に疲労を身体から逃がした。
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