楽園にいる人間は、アダムとイヴ以外にいないが、それ以外にも動物や昆虫などの生き物がおり、植物もアダムとイヴに世話をされ、豊かに育っていた。
その楽園には、時々天使が訪れていた。
リリスがルシファーを選んでから、アダムへの接触はルシファー以外の天使が担うことになっている。
「やあ、イヴ」
イヴもアダムの手伝いをするよう、神に言われている。
しかし、イヴが土などで汚れるのをアダムが嫌がり、イヴの仕事と言えば、どうしても散歩という名の動植物の様子を見るだけになった。
今日は夫が新しく名づけをした動物の様子を見に来ており、動物が挨拶に来てくれた。
イヴは植物や昆虫、土弄りが好きだが、特に動物を好んだ。
特にモコモコとした体を持つ動物を好み、アダムに探されるまでその体に埋もれているくらいだ。
アダムがそれに嫉妬していても、イヴは気づかない。
アダムもアダムで不機嫌になるものの、妻のしょんぼりした表情に弱い彼は結局いつも負けてしまう。
今日も今日とてモコモコに顔を埋めていると、声をかけられた。
しかし、この楽園に人間はアダムとイヴしか存在しない。
ペアの動物には子供がいるのに、アダムとイヴの間にはまだ子供がいない。
イヴは一瞬固まったが、弾かれたように動物のモコモコから顔を上げて振り向いた。
「まあ!天使さま!」
そこには天使がいた。
その天使は見覚えがなく、これまで会った天使たちと比べても小柄に感じた。
羽が六枚あるのを見るに、時々会いにくるオリヴィアと同じ地位の天使なのだろう。
イヴは慌てて立ち上がろうとしたが、それを察した天使が紳士に手を差し出してくれた。
「ありがとうございます、天使さま」
「麗しいレディを一人で立たせるわけにはいかないからね!」
おだてる天使に、イヴは目を瞬かせ、キョトンとしたが、『まあ』とクスクス笑った。
その笑みに、天使はイヴの手を握ったまま目を細めた。
「天使さまは面白い方なのですね」
「おや、そうかな?」
「ええ…いつもお会いする天使さまたちは、皆さまとても真面目ですから…それに、私に声をかけてくださるのはオリヴィアさまだけですもの」
イヴの知る天使はお堅く、今まで会った天使の中で冗談を口にする者はいなかった。
そもそも、天使がイヴ単体に声をかけることは稀だ。
時々オリヴィアが確認するように『最近はどうですか』と問うだけで、基本的に天使はアダムに声をかける。
「それは寂しいな…」
天使の言葉に、イヴは首を傾げた。
寂しい――なんて感情、知らなかったからだ。
「寂しいとは、なんですか?」
天使はイヴの問いに、小さく目を丸くする。
「…知らないのかい?」
恐る恐るといった様子で問う天使に、イヴは頷く。
頷いたイヴに、天使は考えるように口を閉ざし、イヴは大きな青い目で、天使が再び口を開くのを健気に待っていた。
「寂しいとはね、『いてほしい人や、あってほしいものが今ここにない』と感じる心のことだ」
「こころ?」
「ああ、そうさ…イヴは感じたことはなかったかな?他の天使たちはアダムにばかり声をかけるだろう?それを見て『なぜ自分には声をかけてくれないんだろう』『なぜ自分を見てくれないんだろう』って」
「…………」
天使にそう聞かれ、イヴは考えた。
青い瞳を天使から逸らし考えたが、イヴはよく分からなかった。
「よく分かりません…天使さまたちがアダムを気にかけられるのは当然だと思いますし…」
「……そうか」
天使は、アダムしか視界に入れていないかのように接する。
それにアダムも当然と言わんばかりに応じ、イヴもそれを当たり前だと思っていた。
それはイヴが創られてからずっと続いてきたことで、イヴはそれを当然のものとして受け入れているだけだろう。
それに、イヴはリリスと違い、アダムのために生み出された人間だ。
神や天使たちからアダムのオマケ程度にしか認識されないのも、イヴにとっては当然だった。
天使に問われても、今更それに違和感を感じることもなかった。
天使はイヴの言葉に、わずかに眉を下げたが―――
「でも……なんとなく、分かる気がします…」
「!、そうか!それなら―――」
「アダムが傍にいない時、少しだけ落ち着きません」
天使の下げられていた眉が、ひそめられた。
だが、それは一瞬で、天使は『そうか』と笑顔を張り付けた。
その笑みの意味に気づかず、イヴは『はい』と、つられるように笑顔を返した。
天使が何かを言う前に、イヴは『あっ!』と何かを思い出したように声を漏らした。
その声に、天使は首をかしげる。
「どうした?」
「天使さまのお名前をまだお聞きしていませんでした!お名前を教えてください!」
自分に声をかけ、会話をしてくれる天使はいなかった。
オリヴィアだって、定型文の問いだけで、イヴが答えれば世間話も会話も広げることなく、すぐに天国へ帰ってしまう。
こうして声をかけてくれて、手を差し出し、会話をしてくれる天使は初めてだった。
だから、いつもなら尋ねることのない天使の名前を聞いた。
何を聞かれるのかと身構えていた天使は、名前を問われただけだと知り、その体の力を抜いた。
「私はルシファーというんだ」
「……るしふぁー」
「そう、ルシファーだ!君ならルーと呼んでくれても構わないよ!」
「…………るしふぁー…」
「……あー…イヴ?」
「……………るしふぁー…」
ウインクをする天使は、誰もが見ほれるほどだったが、今のイヴはそれどころではなかった。
何度も天使――ルシファーの名を繰り返し、じっと自分を見つめるイヴに、さすがのルシファーも心配になり、彼女の目の前で手を振ってみせた。
「ルシファーさま…」
「ん?」
「リリスさまという方をご存じですか?」
「リリス?ああ、勿論!私の愛しい人さ!」
イヴが会ったことのないリリスの名を知っていても、ルシファーは『アダムに聞いているんだろう』くらいしか思わなかった。
リリスという名に頷いてみせたルシファーを見て、イヴの顔はみるみる青ざめた。
「えっと……―――ごめんなさいっ!」
「え゙!?」
血の気を引かせるイヴに、ルシファーは心配して声をかけようとした。
しかしそれを遮るように、イヴはルシファーに触れられていた手を振り払い―――背を向けて走り出した。
突然走り出したイヴに、ルシファーはぎょっとしたが、すぐに我に返り追いかける。
羽を使えばあっという間なのに、それさえ忘れたようにルシファーは慌てて走り出したイヴを追いかけた。
「ア、アダム!!アダム!!」
追いかけてくるルシファーから逃げるため、イヴは必死に走った。
イヴが叫ぶように夫の名を呼べば、アダムがすぐに駆けつけてくれた。
イヴの叫び声に気づいた動物がアダムに知らせてくれたのだ。
「イヴ!」
務めを放り出して駆けつけてくれたアダムに、イヴは手を伸ばして急いで彼の元へ駆け寄る。
後ろから『げっ』と聞こえたが、気づいていないイヴはアダムに抱きしめられた。
「ルシファー!!イヴに何をした!!」
「私は何もしていない!名前を聞かれたから答えたら走りだしたんだ!」
体を震わせて自分に縋るように抱きつく妻を見て、アダムはギロリとルシファーを睨む。
冤罪だと、両手を上げるルシファーの言葉にアダムは目を丸くしてイヴを見た。
自分が言った言葉をイヴが覚えていたことに、驚いているようだった。
毎回しつこく言っている自覚はあったが、その度にイヴはとてもいい笑顔で頷くだけだったため、聞いていないのだと思っていた。
それを言葉がなくとも察知したイヴは、夫の胸元から顔を上げて彼を見上げる。
「だって…あなた、ルシファーとリリスに会ったら逃げろって…」
「ああ!そうだ!!覚えていたんだな!良い子だぞ、イヴ!」
そのまま腰に腕を回して抱き上げれば、怯えた様子だった妻の表情に明るさが戻ってきた。
すでにルシファーへの怯えを忘れたように笑顔を浮かべるイヴに、ルシファーは安堵にも似た息をついた。
「やはり、お前だったのかアダム…全く、イヴになんてことを擦り込んだんだ」
「黙れ!大体よく俺の前に顔を出せたな!!オリヴィアさまから父に楽園への出入りを禁じられていると聞いているぞ!」
「許されたに決まっているだろう!大体、私はお前たちの管理者だぞ!」
「だった、だろ!管理者"だった"!」
「はっ!残念だったな!今も現役で管理者、だ!!」
「はあ!?」
どちらかが喋ればその度にイヴの視線はそちらへ向く。
アダムの腕の中に守られながら、『まあ、どうしましょう』と収拾がつかない二人の言い合いをどう止めるか困っていた。
頬に手を当てながら、いつ二人の間に入るかタイミングを見ていると、そこへ救世主が現れた。
「ルシファー」
静かな、抑揚のない声がその場に落ちる。
全員がその声の方へ視線を向ければ、オリヴィアが降り立った。
オリヴィアは三人の視線を受けながらも、気にも留めずルシファーを見る。
「勝手に行動をしないよう言ったはずよ」
きっと、感情が表に出ていたら、呆れていただろう。
変わらず感情の起伏がないのに、イヴはなんとなくそう思った。
オリヴィアの姿を見て、アダムの腕の力が少しだけ抜けたのを感じ、イヴは安堵した。
責めたような言葉を向けられた本人であるルシファーは、怒られた自覚があるのかないのか…笑っただけだった。
「すまないね、オリヴィア…私がいない間に新しい子が創られたと聞いて、いても立ってもいられなくてね!なんといっても、イヴはリリスの妹のような子だ!つまり、私の義妹ということだ!」
「違う!何勝手に解釈してんだ!!他人だ!他人!イヴとお前らは赤の他人だ!!!」
「何を言うんだ、アダム!神に創られた存在のお前たちは皆兄弟のようなものだろう?ならばリリスと結ばれた私とお前たちは義理の兄弟ということだ!」
「おま…ッ!お前!本当にいい加減にしろよ!!その無駄な前向き思考どうにかしろ!」
オリヴィアの姿を見て緩んでいた腕の力が戻った。
しかも、強くなって。
イヴはアダムの腕の中から、二人を見守ることしかできなかった。
止めてくれる人がいないせいか、二人の言い合いはヒートアップする。
しかし、それはオリヴィアが六枚の羽を勢いよく広げたことで、終わりを告げた。
「いい加減になさい」
オリヴィアは感情の起伏がほぼない天使だ。
オリヴィアのような天使はいるが、多くの天使は当然喜怒哀楽を隠さない。
昔から、大人しい人ほど怒らせると恐ろしいというが、ルシファーも、そしてアダムも、オリヴィアの怒りは神の次に恐ろしい。
大人しくなった二人を確認した後、オリヴィアはルシファーを見る。
「ルシファー…あなたは今日、アダムと顔を合わせるよう神から言われていたでしょう…それも、直々に…なぜイヴに会いに行ったの?」
「……まあ、その…先ほど言った通り…新しく創られた人間の話を聞いてから、イヴに会いたくて仕方なくてだな…その…神からの指示だということは分かっているんだが……その…早くイヴに会いたくて…つい……」
イヴは自分の名前が出たが、アダムの腕の中から『"その"が多いなぁ』という感想しか思わなかった。
ルシファーは、昔から神よりも目の前の姉であり母であるオリヴィアに頭が上がらなかった。
「好奇心旺盛なところは良いところではあるけれど、時には欠点にもなるわね」
オリヴィアの言葉にルシファーは『ゔ』と言葉を詰まらせる。
ルシファーは他の天使にはないほど、好奇心旺盛に育った。
オリヴィアとしては他の天使たちと異なるように育てた覚えもなければ、父なる神もそうなるように創った覚えもないようだ。
これはルシファーの生まれ持った資質なのだろう。
何度も修正をしようとしたが、神がそれも含めてルシファーを気に入っていることもあり、オリヴィアもこれまで軽い注意にとどめていた。
それに、その旺盛な好奇心のおかげで、天使とアダムは衝突することなくやり取りを続けることができる。
「アダムも、少しは落ち着きなさい…ルシファーの言葉を真に受けないように」
「……オリヴィアさま…お言葉ですが、リリスを奪った天使さまをどう信用しろというのです?」
「あなたの言い分は理解しているわ、アダム…ですが神がルシファーとリリスを許し、楽園の管理者に戻したのです」
それ以上は口にしなかったが、オリヴィアの言外には『それを受け入れろ』という意思があった。
それはイヴ以外には通じ、その場には一瞬、凍りついたような静けさが訪れる。
胸元に顔を埋めるように抱きしめられているイヴも、それは察することができ、急に静かになったことに不安に思い身じろぎをした。
それに我に返ったアダムは、イヴの抱きしめる力を抜き、妻を見下ろす。
力を抜いた事で、イヴもアダムを見上げ、二人の視線は重なり合った。
「………では、お願いがございます」
妻の、何も知らない―――純粋な青い瞳に自分が…自分だけが映っている。
それまでルシファーの存在にざわめいていた心が落ち着いていく。
父が…神が、リリスとの関係や自分達の管理者をルシファーに戻したのなら仕方ないと思うしかない。
自分たちの反対意見など天国側が聞く耳を持つことはないのだ。
なら、願うまで。
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