お風呂に入っていたリィリンは鼻歌を奏でていた。
眷属はその鼻歌を聞きながら目を細め主人を見守る。
パシャパシャと水音を立ててお湯の温かさに身を委ねる主人はとても絵になっていた。
リィリンは美しい。
それは人魚だからであるが、その中でもリィリンの一族は特に美しさを持っていた。
それは己がリィリンの眷属だからではなく、傍から見てもリィリンを含めた一族は美しいのだ。
だからこそ、金と権力で美女を見飽きるほど見て来たベイジルをも魅了したのだろう。
「あと、何日、だったかしら」
チャポン、と音がしたのと同時にリィリンがポツリと呟いた。
その呟きは勿論眷属にも聞こえており、その主語のない意味も分かっていた。
「あと2日だ」
「…そう」
バタつかせていた人間の足を湯に浸かせリィリンは眷属の返しに透明のお湯から見える己の足を見た後天井を見た。
あと、2日。
あと2日でこのなんとも言い難い生活も終わる。
うれしさが込み上げるのでもなく、リィリンが感じたのは寂しさと辛さ。
リィリンは青々とした瞳を閉じる。
するとまず浮かんだのは勿論可愛い己の妹のはず…だった。
しかし、真っ先に思い浮かんだのは…―――ツェッドであった。
「ねえ」
「なんだ?」
「私って、ツェッドさんに恋してたのね」
「…………」
ポツリと呟いたリィリンの言葉に眷属は口をあんぐりと開けて驚愕した顔でリィリンを見た。
今、眷属に流れているその感情は…『今更?』という呆れの感情と、リィリンがまさか恋に気付くとはという驚きの感情だった。
とりあえず『まあ、そうみたいだな』と返しておく。
「お母さまもお婆さまもお父様やお爺さまに対して種の提供者という感情以外はなかったから人魚は恋なんてしないって思ってたけど…これが恋っていうやつかしら」
そう言ってリィリンは豊満な己の胸元へ手をやる。
ツェッドを想うと手を当てたところがキュン、と締め付けられるほど苦しくなる。
だけど彼がいなくなるとその苦しみが更に増して痛みに変わる。
それと同時に離れている彼が愛おしくてたまらなくなる。
それはきっと母と祖母が感じることがなかった想い。
そして、例外を除いた全ての人魚が感じる事のなかった想い。
その想いをリィリンは今、感じていた。
人魚とて恋というものを知らないわけではない。
だけど必要性が感じず、憧れずに多くの人魚が狩られて死に、寿命を全うした。
少し前までは…ツェッドと出会う前までの自分もそうだった。
だけど今はそんな人魚達が哀れに見えた。
こんなに切なく辛くとも幸せだと思える感情を知らないまま死んでしまった彼女達がとても哀れだった。
だけど…それでも…リィリンにはツェッドと共にいる事などできやしなかった。
「でも、私はあの人と添い遂げることはできないわ」
ポツリと呟くその言葉に眷属は目を伏せた。
リィリンはツェッドへの想いを自覚できた。
でもそれだけである。
自覚したから彼に告白して結ばれるという人魚姫のような展開などリィリンにはないし、求めてはいけない。
「リィリン…お前は愛する男ではなく妹を取るっていうのか?」
眷属のその問いにリィリンは天井を見上げていたがそのまま後ろに控えている眷属へ頭を後ろへ傾ける。
逆さに見える眷属のその切なく同情めいた目にリィリンは薄っすらと笑う。
「分かっている事は、聞くものではないわ」
目を細めて薄っすらと笑うそのリィリンの言葉に眷属は口を噤んだ。
分かっていた。
そう、眷属には答えなど分かっていた。
この恐ろしくも美しい海の支配者が恋だのなんだのと現を抜かしながらも、根本は変わらないのを。
「ツェッドさんの事は愛しているわ…でも所詮は赤の他人…だけどルゥルゥは血の繋がった妹……どちらが大切かなんて分かり切っているでしょう?」
『でなければ今頃あの男の首を掻っ切って海に逃げてるわ』と続けるリィリンの言葉に納得してしまう。
人魚は同族に甘い。
だからリィリンは今ここにいる。
そうでなければリィリンの言葉通り妹を切り捨てて自由に生きていただろう。
だから眷属はこれ以上何も言えなかった。
口をへの字にさせて黙り込む眷属に振り返りにっこりと笑みを深めた。
「それにあの男もそう長くはないもの」
そう告げるリィリンに眷属は怪訝とさせた。
『それは一体どういう意味だ?』と素直に問えばリィリンは目を細め続ける。
「この世界には多くの裏社会を牛耳ってる者達がいるのは知っているわよね」
「ああ」
「人でも異界人でも何でも実力があればこの世界は膨大な富を手に入れることができる…あの男もそう…あの男も一代で築き上げてここまでのし上がってきた…でもそれもそろそろ終わるわ」
「…寿命か?」
裏の世界…特にここHLの場合、表舞台よりも実力主義でなければ生き残れない。
だからこそ、没落する者達も多い。
その中には寿命で死んで継ぐ者がいない場合もあった。
それがベイジルにも当てはまるのだ
ベイジルは年を重ねており妻はいたが先立たれ子はいない。
ベイジル自体が作りにくい体か全く作れない体の持ち主なのか多くいる愛人に無遠慮で中に出しているのに懐妊したという報告はない。
養子をとるにもベイジルの無駄なプライドがそれを許しておらず、ベイジルが死ねば恐らくベイジルが築いた地位は崩れ落ちる。
それを指摘するもリィリンは首を振り、三本の指を立ってみせる。
「HLの裏社会では大きく分けて三つの巨大な権力者が君臨しているわ…その一つがあの男なのは知っているわよね?もう一つがオルコット家、そして最も影響力のあり、ずっと無法地帯だったHLの裏世界を初めてまとめたアシュフォード財閥…アシュフォード財閥の当主とあの男が対立しているのはあなたも知っているわよね?」
そう聞かれ眷属は頷いた。
HLの裏世界には様々なクズな人間達がいる。
慈善活動を表の顔にしてその活動を利用してあくどい事をし、人を人とも思っていない人間が多い。
だが、裏だからこそ規律というものがあり、暗黙の了解も多く存在する。
その一つに、裏社会で大きく分けても三つある権力者に逆らうなというものがある。
それはどこの世界でもあるものではあるが、裏社会では富と地位を危ぶまれるどころか命がかかっているのだ。
その三つある権力者の一つがリィリンを飼っている『ベイジル』という男。
この男は身一つで貧乏人から爵位の地位まで上り詰めた男である。
二つめは『オルコット』家。
オルコット家は世間の裏社会のイメージと比べるとクリーンに当たる家柄である。
だが裏社会のトップに入っているからにはそれなりの事をしている。
主な仕事は武器商売だが、武器の取引をしているのは主にテロやマフィアなどの決して武器を持たせてはいけない者達が多い。
しかしオルコット家は今の当主になってからは大人しくなった方である。
最後に『アシュフォード』財閥。
アシュフォード財閥は裏社会で最も力のある存在ともいえる。
裏社会は統一性がありそうでも、以前は派閥争いや縄張り争いで殺伐としていた。
お互い裏切り裏切られ潰され潰し今まで代表ともいえる者はいなかった。
それらを全て力や財でねじ伏せ傘下に入れ邪魔者は潰し代表となったのがアシュフォード財閥である。
アシュフォード財閥はオルコット家と比べて色々なものに手を出している。
人身売買、武器商売、薬は当然ながら様々な事に手を染めており、表の方にも顔が効き、更には各国の政府の決定権もあるとも噂されている。
まあ決定権は盛っている場合もあるが、少なくとも政府にも顔が効くのは確かだろう。
裏社会と表社会は切っても切り離せない糸でつながっているのだから。
そのアシュフォード財閥とベイジルは長い間対立しているのだ。
「その対立関係がある男によって決着がつきそうだったのよね」
「ある男…?」
「あなたも見た事がある男よ…名前は確か…バードラム・コフ・コンフォードと言っていたかしら?」
「バードラム…?―――ああ、あの死体愛好家という若い男か」
眷属は一瞬怪訝とさせたが、記憶の中にある青年を思い出す。
眷属が思い出したバードラムとは顔が整った男で死体を好む変わった人間という印象しかない。
眷属は『その男が何だ』、と問う。
「バードラム・コフ・コンフォードという男はよくあの男の屋敷に来ていたわ…あの男の傘下に入るためらしいけど…でもバードラムという男はズル賢いわよねえ……あの男とアシュフォード財閥を天秤にかけてどちらに付いたら得なのか計算していたのよ」
「…ということは…あの男に勧誘されていたが、アシュフォード財閥にも勧誘されていた…ということか………だが、それはよくある事だろう?両者共に対立しているのだからあの男が狙っている男をアシュフォード財閥も狙わないわけがない…その逆も然りでこれまでにも両者はお互いの金魚の糞を取り合いし時には裏切らせていたではないか…」
「そうよ…それまでだったらいつものいたちごっこね…でもね、バードラムはアシュフォード財閥に天秤を傾かせていたわ…まあ当然といえば当然よね…規模はアシュフォード財閥の方が大きいし、あの男は自分しか考えていないんだから……まあ結局バードラムはライブラによって消されたみたいだけど」
ライブラ、と聞き眷属はピクリと人間に扮した眉を上げる。
ライブラ、と聞いてまず眷属が思う感情は無感情ではなかった。
怒りでもないし悲しみでもない。
ただただ警戒していた。
あの男のせいでリィリンも裏社会に足を突っ込んでいる形となり、リィリンの性格上誰かに助けを求めるなどプライドが許せないため恐らく無理矢理命令されたという言い訳はしないだろう。
誰かに、それも人間なんかに助けを求め生き延びるくらいならばリィリンは妹共々死を選ぶだろう。
それが愛しいと思える男と出会えたこの瞬間でも、だ。
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