(29 / 38) ツェッド (28)

チャポン、と水音が響く。
その音にリィリンは遠のいていた意識が浮上し、目を静かに開けた。
まず感じたのは体の痛みだった。
あれから気を失ったリィリンはベイジルの屋敷に戻され地下にある牢屋のような場所に移された。
そこは薄暗く太陽の光など皆無の場所だった。
ベイジルはリィリン用に改装したのか、それともルゥルゥを閉じ込めていたからは分からないが、牢の柵から奥へ向かって石床が深くなっており、そこに申訳ない程度の水が張られていた。
水の量は少なく、奥に丸まっても体半分が浸かる程度しかなく、リィリンは首輪から付けられている鎖が柵で繋がれているため奥に行きたくても行けなかった。
人魚は魚と違い陸の上でも呼吸は出来る。
しかし…陸でも生きていけると言っても水がなければそれも難しくなる。
水は人魚にとっても必要不可欠なモノだ。
水に長時間入らないと体調も崩し、本調子ではなくなり、こうして本来の力を出す事も眷属を出す事すらままならなくなる。
その為渇きが強く、上半身を起こすのも面倒なほど弱まっていた。
それに加え、リィリンは妹と同じく心臓を奪われていた。
人魚にとって心臓は最も重要で、心臓さえ無事であれば脳でさえ修復される。
流石にミンチにされたりバラバラにされれば元には戻らないし死ぬが、刺されたり撃たれた程度では人魚は死なない。
だけどその心臓もベイジルに取られ、リィリンは今本調子ではなかった。
その為ここ数日ベイジルから暴力を受ける傷も治る事無くリィリンの体に残っている。


(ルゥルゥ…)


自分の命が危ぶまれている中、やはり考えるのは愛おしい妹の事。
自分以上に非道なことをされているであろう彼女を案じるのは姉として当たり前だった。
待遇が良かった時でさえ妹の様子が分からなかったが、今では妹がどうなっているのかを知る術はリィリンにはなかった。
自分がベイジルに逆らった故に自分以上に酷い事をされないかとても心配だったのと同時に、ベイジルへの恨みが込み上げてくる。
あの時、笑うつもりはなかった。
『可笑しなことを言う人間だ』といつものように心の中で哂っていただけでもよかった。
だがあの人間があまりにも愚かで面白おかしい事をするものだから吹き出してしまったのだ。
人魚に恋をするという人間は多くいる。
その多くがその美しさに惹かれての事で醜く描かれている人魚は恐怖の対象にすり替えられている。
そこが人間の愚かさだとリィリンは思う。
見た目に騙される哀れな種族。
リィリンは人間は嫌いではないが、見下してはいる。


「…っ」


うつ伏せから少し体を動かすだけで筋肉痛のように痛みが走る。
心臓も取られ、水に長い時間使っていないため、治癒力も減少してしまうため怪我をしても治らない。
そのためベイジルに殴られた傷は白い肌に醜く残っていた。
痛みに息を詰まらせているとコツコツと靴音が聞こえ、リィリンは顔を上げる。
そこには…


「これが人魚ですか」


見知らぬ男が立っていた。
男はシルクハットに杖、モーニングコートという出で立ちで、顔を見れば爽やかな青年風だった。
その男は見たことがなく、リィリンは男がなぜここにいるのか怪訝としていた。
その目線に男は笑みを深める。


「ここにいたのか」


笑顔を向ける男の反応は、今のリィリンの状況を楽しんでいるようにしか見えずリィリンは男を睨みつける。
すると主人であるベイジルが現れた。
ベイジルは呆れたような目で男を見ており、その後ろにはいつものSPが立っていた。
男はベイジルの声にリィリンからベイジルへ目を移し軽く礼をする。


「これはこれはロッド伯爵」

「どこにもいないから探したぞ…コレを見に来ていたとはな」

「勝手な行動をしてしまい申し訳ありません…人魚に興味がありましたもので…」

「待ちきれんかったか」


にっこりと笑う男の言葉に、ふん、とベイジルは鼻で笑う。
第三者だからか、それとも周りに興味がない人魚だからか、リィリンはこの男の笑みは仮面だと気づく。
それは当たっており、本性はベイジルに嘲笑を送っていた。
そして人魚に興味があると言うのも嘘だろう。
恐らくベイジルを格下と思っているからこそこうして勝手に出歩いているのだろう。
勝手にやっても怒らないと言う事は、それなりの地位の者か、それなりに使える駒なのだろう。


「ロッド様、この度は我が主人の申し出に答えていただきありがとうございます…我が主人もロッド様には大いに感謝しているとおっしゃっておりました」


もう一度頭を下げる男の言葉にベイジルは満足げに頷く。


「感謝される事でもあるまい…困っている傘下の者を放っておけぬしな」

「流石ロッド様でございますな…なんとお優しい」


男はベイジルの上からの言葉に目を細めた。
本来なら男の言葉こそベイジルが言わなくてはならないものだが、このプライドだけが高い人間がそんな高度のものができるはずもない。
男からしたらベイジルという人間に価値はないが、主人に命令されているのでそれ通りに動いているだけだった。


「それで、この者が例の…」


会話からして男の主人はベイジルの傘下の者らしいが、リィリンは興味はなかった。
元々ベイジルにも興味がなかったリィリンは傘下の顔も覚えていないし、殺せと言われて殺すのだって自分のため、ベイジルのためというよりはただ言われたからそうしただけにすぎない。
そのため自身への危害を加えられそうになっているのは分かったが、さほど慌てる事もなかった。
それは抵抗しようにもできないというのもあるし、諦めていた。
男の呟きにベイジルは頷きリィリンへ冷たい眼差しを向ける。


「そうだ…毎週開かれる○○通りの市場にあの女がよく来るらしい…その女を消したい」

「それをこの者にやらせる――ということですね…しかし、それでは逃げられやすいのでは?人魚にやられるような方ではないとお見受けしますが…」

「フン…所詮は乳臭いガキ…それも後見人にばかり家を任せている奴だぞ?逃げ切れるわけがなかろう」


男の問いにベイジルは不機嫌な顔を作る。
ベイジルの計画をあえて深く突っ込まず『畏まりました』と深々と頭を下げた後、リィリンに向き合う。


「あなたには恨みはございませんが命令ですのでご了承ください」

「…………」


格子の間に手を入れリィリンの頭の上に手の平を置いた。

男のその言葉と同時にリィリンは――――意識を飛ばす。

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