(36 / 38) ツェッド (35)

水の気配にリィリンは意識を浮上し眠りから覚める。
ゆっくりと目を開ければまず見えたのは光だった。


(光り…?私は地下にいたはずなのに…)


眠りから覚めたばかりだからか、意識もはっきりしていない。
記憶を思い出せば最後の記憶は薄暗い地下に繋がれ見知らぬ男に頭に手を置かれた記憶が新しく、それ以降の記憶は消えているように思い出せない。
不思議に思っていると、聞き慣れた声が聞こえそちらへ目をやる。


「リィリンさん…!目が覚めたんですね…!」

「ツェッド…さん…?」


そこには唯一自分を欲情させたツェッドがいた。
ツェッドはホッと安堵の笑みを浮かべており、リィリンが入っている水槽に歩み寄り手を伸ばす。
リィリンも彼に近づきツェッドの手に重ねる様に手を伸ばし、そこでやっと自分が水中の中にいる事に気付く。
辺りを見渡せばリィリンはどうやら円状型の水槽に入れられているようで、その大きさはリィリン一人入ってギリギリ程度の大きさだった。
周りを見渡して分かったのは自分はベイジルから離れたという事。
でなければツェッドがいるわけもないし、地下ではない事から助けられたのだと察する。
リィリンがいる部屋はベイジルの屋敷と比べると狭く、牢屋に比べると広いが、それは若干奥行がある程度の広さしかない。
壁紙も白っぽいが、よく見ればクリーム色に近い。
床は濡れてもいいように水はけの良い素材で敷かれていた。
家具などは置いておらず、この部屋にはリィリンが入っている水槽とその水槽に繋がっている機械のみだった。


(そうだ…私…心臓を取られて…)


周りを把握したリィリンは次に自身の体の変化に気付く。
まず最初に胸元を見れば、心臓を取られた傷跡があったのに今は綺麗に塞がっていた。
胸元へ手を伸ばしても傷痕の感触さえない。
不思議に思っているとツェッドがそれに気づき教えてくれた。


「リィリンさん…あなたの心臓は取り返しました…もう、あなたを苦しめた人間もいません…あなたは自由なんです」

「自由……私を苦しめた人間……あの男は…もう、いない…?」

「そうです…あなたはもう自由なんです…ですから…」

「――…じゃあ…あの子は…?ルゥルゥは…?あの子はいないの?どうして?だって…あの男の元にはあの子もいたはずなのに…!ルゥルゥはどこにいるの…!!あの子も心臓を取られたのに…!!」


ツェッドの言葉にリィリンは目を見張った。
心臓を取り戻してくれた、そしてリィリンを苦しめた人間はいない…ということはリィリンは助けられたということだと確信できた。
だけど周りを見渡してもリィリンが入っている水槽しかなく、ルゥルゥの姿はなかった。
仲間は生きているか死んでいるのか分からずリィリンにはもうルゥルゥしかおらず、ルゥルゥさえ無事であれば自分の命などいらないとまで思っているほど妹を愛していた。
錯乱しはじめるリィリンにツェッドは慌てて宥める。


「落ち着いてください!リィリンさん!!ルゥルゥさんも心臓も無事です!ですから落ち着いてください!」


ツェッドの言葉はリィリンに届き、リィリンは肩で息をしながらも落ち着きを取り戻し青い目をツェッドに向ける。
その目は水中で分かりづらいが涙が浮かんでおり、妹が無事だと言う言葉に安堵の色も交じっていた。


「無事、なのですね…?ルゥルゥは…私の妹は…」

「はい…今僕の部屋であなたを待っています」

「そう…そう…あの子は無事なの…よかった…」


リィリンは妹が無事だと知り安堵の息を吐き出す。
ガラスに額を押し当て不安だった気持ちを落ち着かせていると視界に見慣れた自身の尾が見えた。
そこでツェドにはもう人魚だと言う事がバレていることに気付き、思い返してみればツェッドが『あなたを苦しめた人間もいません』『あなたは自由だ』と言っていた事から全て知られているのだろうと察する。
リィリンは顔を上げてツェッドを見る。


「全て、知ってしまったのですね…」


ツェッドはリィリンの言葉に戸惑いを見せたが、ゆっくりと頷いて見せる。
その頷きにリィリンは悲しげな、そして諦めたような笑みを浮かべ『そう』と呟いた。


「ごめんなさい、ツェッドさん…私はあなたを騙していました…」

「…分かっています…ですがあなたは何も悪くはありません…あなたはただ人間に命じられたままに動いたにすぎず、あなたはその命令に従うしか方法はなかった…全てルゥルゥさんに聞きました…」

「ツェッドさん…でも、私はあなたの…」

「ですから、ルゥルゥさんとあなたはもう自由の身…もうすぐ海に帰れますよ」

「え…?」


リィリンが人を殺した事実は消えない。
だが、リィリン自身が人を殺したいから殺したわけではないため、罪に問われることはない。
それはライブラの配慮であり、その代わりルゥルゥに協力してもらい、人魚を売買している違法業者を探り捕まえる事が出来た。
業者の残した記録を辿り警察と共に人魚を買い取り飼っている者達を捕まえ、政府に人魚の捕獲・採取・殺傷・損傷を禁止する法律を作らせた。
売られていた人魚の大半が食べられ死んでいたが、生き残った人魚は体調を見て本人の希望した海に帰している。
驚いたのは、今までライブラにさえ知られていなかった違法業者だというのにあっさり捕まりあっさり裁かれたと言う事だった。
スティーブン曰くこういう輩の背景にはベイジルのような裏に顔が効く大物が潜んでいるはずなのだが…人魚を売りさばいていた業者を庇う者は一人も出てこなかった。
正直言って一人でも引っかかってくれれば御の字だとスティーブンは思っていたが、誰も引っかからず残念がっていた。
しかし『まあこれでひと段落ついたし…やっと家に帰れる』と呟き彼は出勤して4日目にしてやっと愛娘の待つ家に帰る事が叶ったという。
ツェッドはリィリンが罪に問われることはないと伝え、それにリィリンが何か言おうとしたその言葉を遮った。
リィリンは遮られたその言葉に目を丸くしキョトンとする。
そんなリィリンからツェッドは目を逸らし続ける。


「ルゥルゥさんは力を取り戻しています…リィリンさんもあと二三日で海に帰れるでしょう…リィリンさん、あともう少しの辛抱ですが、我慢してくださいね」

「ツェッドさん…?」

「必ず…必ず僕達があなたを海に帰します…政府も人魚の保護するための法律を作ってくれました…それでもやはり違法業者は後を絶たないでしょうが、以前よりは乱獲もなくなるでしょう…」

「ツェッドさん、ちょっと待ってください…私の話を聞いて…」

「そうなるとルゥルゥさんと遠くで平和に暮らせます…きっと仲間の人魚とも再会できますよ…だから…」

「―――ツェッドさん!!!」

「……、…」


リィリンはツェッドの急ぎ足の言葉に戸惑った。
何度も彼の名を呼んでもツェッドは止まらなかった。
まるでリィリンの言葉を聞きたくないと言うかのように捲し掛ける。
聞いているとツェッドは早くリィリンとルゥルゥを海に返したいようだったが、リィリンはそんな気は更々なかった。
いや…帰る気ではいたが、それはツェッドに拒まれたらの話だ。
だからリィリンは普段出さない大声を出してまでツェッドを止める。
ツェッドはリィリンの声に口を閉ざし、目線を逸らしたまま黙り込む。
それでもリィリンはツェッドに伝えようと彼を見つめた。


「ツェッドさん…聞いて……私はあなたに嘘をついていました…それはあの男…ベイジルの事です…あなたが知っての通り私はあの男のペットでした…あの男の命令で人間も殺しました…そして男と関係を持つことだってありましたし、あの男とも関係を持っていました…」

「…っ」


全て知っているということは、自分が人間の男にハニートラップを仕掛けていた事も知っているはずで、リィリン自身男と関係を持ったことに対しての罪悪感はない。
それは人魚だからそういう感情が薄いというのもあった。
だがツェッドは魚と人間の交配種とは言え常識や感情は人間側で、あの師に育てられたとは言え純粋な心を持つ今時珍しい青年だった。
今まで師の元で秘境で修行していたのもあって、リィリンが初恋だった。
その女性から自分以外と関係を持ったと聞かされ、それは他人から聞くよりも意外と衝撃が強かった。
それに気づかずリィリンは続ける。


「関係を持ったと言っても私達人魚は口淫や手淫しか欲を解消させる手段はありませんので私が本当の意味で関係を持ったのはあなただけです…」

「え…」

「私達人魚は相手に欲情しない限りセックスはできないんです」


関係を持ったと言っても、リィリンは相手に欲情したのはツェッドだけだから今まで口淫や手淫、パイズリなどでしか相手の欲を解消する手段はない。
だからセックスという意味ではツェッドが初めてだった。
その為ツェッドと関係を持った時リィリンは処女膜があり、その膜をツェッドに捧げたのだ。
ツェッドは人魚の生態に詳しいわけではないのでリィリンの言葉は初耳で目を丸くさせるばかりだった。
やっとこちらを見たツェッドにリィリンは彼と妹にしか見せない優し気な笑みを見える。


「私があなたに近づいたのも関係を持ったのもあの男の命令ではありません…最初はその想いに気付きませんでしたが…あなたと過ごす中、私は知ってしまった…」


リィリンの笑みにツェッドはドキリとさせ、つい頬が赤くなりかけたが、必死に抑える。
辛そうな表情を見せるツェッドにリィリンも胸が締め付けられるほど切なくなる。
リィリンは彼にそんな顔をさせたくはなかった。
ただ彼と幸せになりたいと思った。
ツェッドが自分に惚れこんでいることはすぐに気づいた。
だからそれに付け込んで子種を貰おうと思い近づいで親しくなった。
人魚はその見た目で子種を持つ相手を誘惑し繁栄するため、相手に好かれるよう顔が整って生まれる。
そのためリィリンを異性として見る男は多い。
だけどその感情を多くの者に向けられてもリィリンは何も思わなかった。
だからこそ、初めてなのだ。
異性からの愛情が心地いいと感じたのはツェッドが初めてだった。
子種のためではなく、血肉のためではなく、彼自身を独り占めしたいと思ったのは初めてだった。
だけど彼は自分を海へ帰そうとしている。
彼に振られればそうしよう。
だけどきっと彼と同等か彼以上に惚れる相手とは出会いえない。
ならば曖昧にしたまま彼の言葉通り海に帰って後悔するよりも全ての想いを伝えてしまおうと思った。
振られたら振られたで構わないとも。


「ツェッドさん…私はあなたが好きです…子種のためとか食べるためとかではなく…私はあなたを自分の物にして独り占めしたいって思っています…」

「ッ、リィリンさん…」

「あなたが受け入れないと言うのなら私はルゥルゥと共に海に帰り一生あなたの前には現れないと約束します……振ったからと言ってあなたを恨んだりしません…ですから…教えてください…あなたの本当の気持ちを、私は知りたいです…ツェッドさん…」

「…ッ」


ツェッドはリィリンの言葉に息をのんだ。
リィリンから『好き』と言われて心が揺らいだ。
だけどツェッドはリィリンと離れると決めたのだ。
彼はリィリンを本当に心から愛している。
愛しているからこそ、彼女のためとはいえ傷つけた自分がどうしても許せなかった。
それに人魚の存在は今回の事件で大きくではないが知られており、法律で決めたとは言っても人魚の密漁や乱獲は恐らくゼロにはならない。
HLは人間の法は届かない街であり、HL内の法をもってしてもリィリンが安全に暮らせるという保証はない。
ツェッドはリィリンを傷つけた自分が許せなかったのもあるし、リィリンを想って拒絶をしていた。
だけどリィリンに自分の本当の想いを知りたいと言われ、ツェッドは心を揺らいだのだ。
リィリンを想えばツェッドは自分の心を隠し彼女を安全な海に帰した方がいいと分かっていた。
だけどリィリンも自分を好いてくれていたと知った今ではそんな簡単な事すら貫き通せず意志が揺らいでしまう。
自分もまだまだ甘いな、とツェッドは思いながら迷っていた。
そんなツェッドにリィリンは不安そうな表情を浮かべながら再び彼の手と手を合わすようにガラスに触れる。
ツェッドはリィリンの白い手に気付きハッとさせ顔を上げた。
不安そうで泣きそうな彼女の表情を見てツェッドはグダグダ考えるのをやめた。


「…僕は…あなたが好きです」

「!、なら…」

「ですが、海に帰ってほしいと思っています」

「…!」


考えるのを止めて本音を話そうとリィリンと向き合う。
リィリンはツェッドから好きと言われ不安そうだった表情を嬉しそうに変えたが、続けられた言葉にショックを受けたような表情へと変えた。


「どうして…」


好きと言ってくれたのに突き放すツェッドにリィリンはジワリと涙が溢れる。
零れた涙は水に溶け消えたが、ツェッドにはちゃんと涙は見えていた。
だからツェッドも辛そうな表情を深めるが、それでもリィリンを想うと受け入れる事はできなかった。
ツェッドはガラス越しに重ねられているリィリンの手を握る様に力を入れる。


「その方があなたにとって安全だからです」

「安全…?安全がなんです?私には眷属がいます…私も多少なら反撃だってできます…ツェッドさんのお手を煩わせないように頑張りますから…あなたの傍にいさせてください…っ」

「出来ません…海へ帰ってください」


ツェッドはリィリンを好きと言った。
そしてリィリンはツェッドを好きと言った。
両想いだと分かったリィリンは嬉しいしツェッドの傍にいられると喜んだ。
だけどツェッドは決して首を縦には振らずただ海へ帰そうとリィリンを突き放す。
ツェッドの心をリィリンは理解できなかった。
自分も相手も想い合っているというのなら傍にいるべきだとリィリンは思った。


「ッ――どうして…!なぜ…!私もあなたもお互いを愛しているって分かっているのにどうして海へ帰れるのです!?私はあなたが好きです!愛しています!!海へ帰れと言うのなら…!私から離れるというのなら…!!あなたをライブラから奪って箱に閉じ込めて一生出さず私の傍から離れないようにしたいと強く思うほど私はあなたを愛しているのです…!もしあの時あなたを誑かし騙し無理矢理関係を持ったことを怒っているのなら謝ります!あなたが許してくれるならこの身を食べてくださっても構わない…!あなたが私から離れないと言うのなら私はあなたに食べられたって構わない…!!だから―――」

「そうじゃない!!そうじゃないんだ!!僕は…、僕は……ッ」


リィリンは悲痛な声で叫ぶ。
初めて愛した男に捨てられるのは美人な人魚でも悲しむ心に違いはない。
もしツェッドが初めて会った時の事を怒っているのなら彼が謝って気が済むのならいくらでも謝るし、彼が許してくれるなら他の女を好きになったとしても目を瞑れるし、彼が自分から離れないというのなら殺されて食べられたって構わなかった。
むしろ食べられるなら本望だと思った。
ツェッドは化け物に変わってしまうが、彼の血肉となって傍にいられるのだ。
ツェッドから食べると言われたらリィリンは喜んでこの身を捧げるほどツェッドを愛していた。
しかしツェッドはリィリンの言葉に声を上げ、リィリンはビクリと肩を揺らし口を閉ざした。
ツェッドは何か言いたげに口を開けるも中々言葉に出来ず、リィリンの海よりも青い瞳から涙の雫が零れ水に消えるのを見つめる。
青い瞳から零れる涙が綺麗で、ツェッドは見惚れ、心が落ち着いていくのを感じる。


「…違うんです…リィリンさん…僕はそんな事に怒ってるわけではありません…」

「ではなぜですか?私のどこがいけないのでしょうか?言ってください…言ってくだされば私は出来うる限り…いいえ…絶対に直してみせますから…ですからどうか…私を傍に置いてください…」


ツェッドが自分への想いが無くなっても傍にさえいられたらよかったのだ。
過去に彼が自分を愛してくれていたと言う記憶があれば彼が他に女が出来ようが自分を冷遇しようが、リィリンは、人魚という生き物は…一度相手を愛すれば死ぬまで一生その想いを貫く生き物だった。
ツェッドはリィリンの想いに驚いていた。
まだ付き合いの短いツェッドはリィリンを清楚で大人しくまさに大人の女性という印象だった。
しかし今のリィリンは熱を上げている妻子持ちの男に捨てられると必死になっている男運のない女性だった。
だが、恋は盲目と言い、ツェッドはリィリンの深い愛に嬉しさを感じていた。
しかしそれでもツェッドはまだリィリンと別れる決心は崩れていない。
首を振るツェッドにリィリンは目を丸くし、そのまんまるとした目から涙が溢れ、ガラスに置かれていた手で顔を覆って俯き泣き出した。
好いた女性が自分のせいで泣く姿は胸を締め付けられ、ツェッドは唇を噛む。


「どうして…こんなにもあなたを愛しているのに…っ!こんな想いをさせているのはあなただというのに…」


生涯の中で愛する人を見つける事ができる人魚は稀である。
そしてその人魚と相手が結ばれるのも更に稀だった。
原因は人魚の愛する人物が陸上で暮らす者が多いからと、海の者でも人魚に求愛されて答える者も少ないからだ。
陸の者の場合、陸に生きる生物と海に生きる生物で隔たりができてしまい共同生活自体が難しく、人魚は愛を自覚すれば相手を一途に想っているが、陸の生物は浮気する者が多い。
海の物の場合、そもそも海の者だからこそ人魚に恐れる者が多く、求愛されてもその恐怖から逃げ出す者も多い。
そのため多くの人魚は生涯孤独に生き孤独に死ぬ者も多いのだ。
そうなりたいとかそうなりたくないとか関係なく、リィリンはツェッドと離れて海に帰りたくはなかった。
まだツェッドが自分を愛していないのなら諦めもついた。
彼と離れても彼を愛したまま生涯を終えるのも抵抗はない。
だけど彼は自分を好いてくれていると知ってしまえば、諦めるなんてできなかった。
人魚は一途故にその愛に対して盲目でもあった。
ツェッドは泣くリィリンの姿を見て脳裏に傷だらけとなり大量に出血するリィリンの姿を思い出しガラスに当てている手をグッと握りしめる。


「…ここ、HLは…外の世界と比べて僕達異形には住みやすい場所です…」

「…?」


ツェッドは何も言わず悲しませてでもいいからリィリンを安全な海へと返したかった。
だけどリィリンの言葉を聞いてリィリンの想いを知って、ツェッドは心を鬼にすることはできなかった。
ツェッドが脈略のない言葉を話しはじめ、顔を手で覆って泣いていたリィリンは涙をそのままに顔を上げてツェッドを見て首を傾げる。
目元が赤くなっているリィリンを見てツェッドは自分が彼女にそんな顔をさせていると気まずげに目を逸らし俯く。


「だけど人魚は外界は元よりそんなHLでも特別な存在です…だから人魚を乱獲し売りさばく業者から買う者達が後を絶たない……そんな輩は僕達ライブラが潰した今、あなたは自由になった……けれど…だからこそあなたはHLにいては危険だと思ったんです」


リィリンはツェッドの言葉に溢れ出ていた熱情が少しずつ静まっていくのを感じる。
叫び駄々をこねるのをやめ、ツェッドの言葉に怪訝とさせた。


「どうしてです?私達人魚を違法に捕まえ売り払った人間はツェッドさんたちが潰してくださった…私とルゥルゥを所有物として扱っていた男もいない…なのになぜHLにいてはいけないのです?私は自由だとおっしゃったではありませんか…」


リィリンは自由だとツェッドは言った。
今に至るまで人魚を売り買いしていた者達もライブラによって暴かれ、他にも人魚をオークションに売る業者や買う人間達を逮捕されている。
多くの人魚が海に帰り、これから人魚という保護対象も増えまた攫われた人魚が救われることもあるだろう。
危険な事はもう終わり、ツェッド達が潰してくれたと言うのに何が危険だというのだろうか。
外界の事や人間の常識は分からないリィリンは首を傾げた。
しかしツェッドには首を振られてしまう。


「危険です…もし街で歩いているときリィリンさんが人魚だと分かると恐らくあなたは誘拐されまた売られるでしょう…最悪食べられてしまうかもしれない…僕はあなたを愛しています…あなたを守りたいと思っています…でも…一日あなたの傍にいることはできない…」

「なら私は外には出ません…外に出る時はあなたと一緒の時だけにします…」

「それでも人魚だと知られるでしょう…絶対にあなたが人魚だと知られないという事はありえません…なら…僕はあなたを海へ帰って安心に暮らしてほしいのです…」


人魚の存在を知りライブラをはじめとした政府機関などは人魚の保護に力を入れてくれるだろう。
それだけでも攫われる人魚の数はガクッと減るはずだ。
だがそれでもゼロではないのだ。
禁止されていても、禁じられた法を犯してでも旨味が強いから人魚を乱獲するものは後を絶たないとスティーブンは言っていた。
人間とはそういう生き物なのだと。
なら、人間に扮して生きていてもいずれは何らかの拍子でリィリンが人魚だと知られてしまう可能性は低くはない。
そして知られた人物が悪であればリィリンは再びオークションで売られまた人間に飼われ自由のない日々を送る事になる。
ツェッドは守るつもりではあるが100%リィリンを守れると言われれば答えはNOだ。


「安心…?安心ってなんです?海が安心だと思っているのならそれは間違いです…確かに人魚は海の王者と呼ばれ海に君臨しています…でも海の王者として頂点にいた時でさえ人魚に歯向かう者に多くの人魚が命を落としてきました…人魚だって完璧ではありません…相手の方が強ければ弱い人魚は食べられる…海はそういう世界です……そんなの、HLとどう違いがあるんですか?HLだって…いいえ、HL外の世界だって弱者が死に強者が生き残る世界ではありませんか…私は同じ危険な目に合い誘拐され食べられると言うのなら…HLに残りその時まであなたの傍にいることを選びます…私が邪魔だと言うのなら私を売ってくださっても構いません」

「!―――ッそんな事するはずがないでしょう!!あなたは僕の…ッ」


HLへの危険はリィリンは正直に言えば分からない。
箱入り娘のようにしまい込まれ大切に大切に"保管"されていたから外の事はツェッドよりも知らない。
だけど海の事はよく知っており、HLが危険だから海へ帰れと言うのなら、海だって危険な場所なのだ。
海はHLのように異形がいない代わりに肉食の魚がいるとか、深海は謎ばかりで危険だと思われがちだが…海だって異形がいないわけではない。
人魚がいるのと同じように人間が知らないだけで異形な魚や生き物は多く生存している。
それこそクラーケンやセイレーンなど空想上の生き物は実在する。
人魚は海の王者と言われるほど海の世界ではトップの強さを誇っているが、所詮それは眷属の強さ。
人魚が弱ければ食べられるし、弱くとも戦い慣れている者であれば生き残る。
人魚が海の王者だからと言って食べられないというわけではないのだ。
同じ危険度ならば最後まで愛する人の傍にいたいというのが人魚の愛情だった。
邪魔ならば売ってくれれば、愛する人の意志ならばそれに従う…それが人魚の盲目的愛情である。
それを伝えればツェッドは怒ったような声を上げた。
だがすぐに我に返り口ごもる。
すぐに冷静になり、遠回しに海に返そうと思っていたがそれも諦め自分の本当の想いを告げた。


「…すみません…それはただの言い訳にすぎませんね……正直に言います…僕はあなたを愛する資格はないんです」

「それは…どういう…?」


HLが危険だと言ってもリィリンは首を縦には振らなかった。
折れたのはツェッドの方だった。
ツェッドの言う『リィリンを愛する資格』というのが今一分からず、リィリンは首を傾げ問う。
その問いにツェッドはガラス越しにリィリンの頬に触れる様に手を伸ばし、指の腹で撫でる。


「あなたは覚えていないようですが…あなたはベイジル・ロッドという男に意志を奪われ市民を襲っていました…」


ツェッドの言葉にリィリンは思い出そうとするも思い出せなかった。
どうやら意志を奪われている間の記憶は消えているようで、怪訝とするリィリンにツェッドは『思い出さない方がいい』と思う。
ツェッドは覚えている。
まだ目を瞑ればその光景が鮮明に浮かんだ。


「あなたの姿が見えたので僕はクラウスさん達に無理を言って一人であなたを説得しようとしました…ですがあなたは意志を奪われていたから僕の事が分からず僕に襲い掛かってきた」

「!」


ツェッドの言葉にリィリンはショックを受ける。
リィリンがツェッドに対して愛情を自覚したのは、ルゥルゥがしでかした事件で呼び出しを食らい去っていく彼を見てからだ。
愛した男を殺そうとした自分を聞かされリィリンは身が引き裂かれるくらいショックを受けていた。
リィリンが息を飲むのをツェッドは感じ、『気にしていないので大丈夫ですよ』と微笑み、リィリンの表情は和らぐが、彼を襲ったのは事実なので安堵は出来ていない。


「僕はあなたを絶対に傷つけたくなくて逃げ回っていたんですが…ルゥルゥさんが助けに来てくれて…あなたを殺す手前でいかないかぎりは僕達が死ぬと言われ…その……僕はあなたを…」


これ以上の言葉は言えなかった。
今は傷一つないリィリンの肌をツェッドは傷つけた。
ルゥルゥが切断した腕も自分が切断した腕も綺麗に修復され小さな傷も玉の肌に戻っていた。
ルゥルゥが斬りつけた首も傷痕なく治っている。
見た目は無傷に見えてもツェッドの記憶ではボロボロのリィリンが残っている。
その光景が忘れられず、そして絶対に傷つけないと思っていても最終的にはリィリンをお傷つけてしまった。
それが最良だと言われたとしてもツェッドにはそれが耐えられなかった。
リィリンも口を閉ざしたツェッドの先の言葉は分かった。
そして同時にどうして頑なにツェッドが自分を海へ帰したがっていたのかも理解した。
ツェッドとは短い間しかいられず全てではないが彼の性格は何となく把握していた。
彼は大真面目な性格なのだ。
だからこそ愛している女性を傷つけた自分が許せないのだろう。
それを理解した瞬間、リィリンはピン、と何かが浮かんだ。


「ツェッドさん…あなたは襲って来た私にやり返した…ということですか?」

「ッ…はい…」

「と、いうことは…私はあなたに傷物にされたということですね?」

「はい……………はい?」


ツェッドを襲ったというのはショックが隠せないほど傷ついたが、それ以上にリィリンはチャンスだと思った。
この状況…シリアスだという状況でのリィリンの言葉にツェッドはキョトンとさせた。
しかしリィリンはツェッドの反射的な返しを真に受け取り、目を輝かせツェッドを見つめる。


「傷物にされてしまったのだから仕方ないですね…ツェッドさん、責任取ってください」

「へ…へ!?せ、責任!?あ、あの…リィリンさん?」


リィリンの言葉にツェッドは目を丸くさせるが、リィリンはそんなツェッドに気付かずガラスに縋りつくように近づき興奮した調子でツェッドの言葉を遮り続けた。


「私聞いたことがあるのです!どこかの国では女性を傷物にした男性は責任を持ってその女性をもらい受け幸せにしなければならないというのを!!ツェッドさん!あなたは私を傷つけた…傷物にしたということですよね!!そもそもですよ!そもそも!!あなたは私の初めてを奪った!その当時は私はあの男の所有物で、あなたはその所有物の初めてを奪った立場にありますよね!ならば傷物にしたのも当然だと私は思うのです!!なら!!ツェッドさん!!!責任とって私をあなたのお嫁さんにしてください!!!」

「えええ!?ちょ、ええ!?ま、待ってください!リィリンさん!!落ち着いてください!!」

「いいえ!!待てません!!待ちません!!私あなたとならどこでもよいのですがあなたにも信じる宗教というものがおありだと思うのです!なので式はあなたに合わせます!!その宗教に入れと言われれば入ります!!子供は何人欲しいですか!?残念ながら私は人魚ですから人魚で女の子しか産めませんがあなたが望むのなら男の子も産めそうな気がします!!いいえ!産みます!気合で!!!」

「こ、ここ…ッ子供!?い、いえ!あの…!!子供とか…まだ早いっていうか…!僕的にはもうちょっと二人の生活を堪能してからっていうか…あなたとの子供なら男でも女でも人間でも魚でも人魚でもいいっていうか……ってそうじゃなくてですね!!」

「私的にはルゥルゥと一緒にいたいのでルゥルゥと生活したいのですがあなたが望むのならルゥルゥとは別々で暮らすのも仕方ないと思っております!あ!結婚の前にご家族にご挨拶しなくてはなりませんよね!!私別にあなたがご長男であろうと構いません!!ご両親の老後の世話をしろといわれれば喜んでいたしましょう!!あなたが亭主関白であればそれに従いましょう!!むしろ亭主関白の方が私を束縛しているようで大変興奮いたしますが…ご両親と同居をお望みなら反対いたしません!むしろ大賛成です!!」

「ちょ、ちょっとリィリンさん!!落ち着いて!!落ち着いてください!!話が飛びすぎてます!!」


ガラスが間になければツェッドは確実に押し倒され襲われていた。
それこそ最後まで致し『傷つきました責任取ってください』と言われていただろう。
ツェッドをガラスが守っていた。
リィリンは捲くし掛け、ガラスで隔たれているのにツェッドをグイグイと押していた。
ツェッドの大声にリィリンもやっと落ち着いたのか、それとも言いたい事を言い終えたのか、リィリンは口を閉ざした。
先ほどまでシリアスだったのに一瞬にしてそんな緊張感のある空気は崩れ落ち、ツェッドは困惑していた。


「…えっと…確かに僕はあなたを傷つけました…だからあなたを愛する資格はなく、あなたを必ず守れる自信もありません…なので海に帰ってほしいと思っているのですが…」

「それは聞けないですね…私はあなたを愛している、そしてあなたも私を愛してくださっている…それだけではいけないのですか?」

「…ですから、僕はあなたを幸せにする資格は…」

「ですがツェッドさん、あなたは私を傷物にしたのですよね?私を傷つけておいて資格がないからと責任も取らず海へ帰すのですか?それとも私は傷物だから捨てるのですか?」

「違います!!僕はどんなあなたでも愛しています!!…でも……分かってください…僕はあなたに触れることさえ許されない罪を犯しました…」


ツェッドの言葉にリィリンは内心首を傾げた。
人魚であるリィリンはツェッドの感情は理解できない。
好きなら好き、嫌いなら嫌い。
好いてくれているのになぜ一緒にいられなのかが理解できていない。
人魚はその相手を一度でも愛したら決してその愛情が揺らぐことも消える事はない。
そのため人間のいうドロドロな関係は人魚間の中では中々見られない。
極限的に仲が悪い人魚二人が一人の相手を同時に好きになった…なら話は別だが。


「…ツェッドさん、私は」

「リィリンさん、僕は決して自分の意志を曲げません…あなたを愛している気持ちは変わりません…だけど愛しているから傷つけてしまったあなたに許しを得るなんてしませんし、あなたを守り切る力がないのに責任を取るなんて簡単には言いません…我が儘なのは分かっているんです…情けないことだっていうのも…」


頬を染め興奮しきっていたリィリンの頬から赤みが消え、悲し気な表情へ変わるのをツェッドは見る。
だけどリィリンを傷つけないと決めたのに仕方ないからと手を出したことはリィリンが許してもツェッド自身がどうしても許せなかった。
止まっていたリィリンの涙が溢れるのを見てツェッドは胸が締め付けられる想いにかられるも、感情のままに彼女と結ばれればいつかリィリンは死んでしまうと思いとどまった。
世の中いい人ばかりではないのだ。
リィリンが人魚だと分かれば好意的な人もいれば悪だくみをする人だっている。
その人達全てから守れる力は自分にはまだないとツェッドは思っていた。
ツェッドは水槽から少し離れ頭を下げた。


「リィリンさん…すみません……出来る事なら僕の事は忘れてください」


そう言ってツェッドはリィリンの顔を見ずにその部屋から出て行った。

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