彩羽が落ち着くのを待って明智は彩羽を抱き上げて部屋に入った。
(これは…また…)
部屋に入るとその惨状に微かに目を丸くする。
まず入り口にはクッションやマクラが落ちていた。
恐らく出てくるよう煩い初音に腹を立てその辺の物をドアに向かって投げていたのだろう。
部屋の奥へ入ると一室全体が散らばっており、彩羽はどうやら大暴れしたらしい。
しかしそれは明智には想定内であった。
なぜならば、過去に初音がぬいぐるみを捨てようとした時も暴れてこの部屋のような惨状だったからだ。
床には教材や文房具や本、衣服…様々な物が散らばっていた。
それらを避けながら唯一無事のベッドに腰を降ろす。
彩羽は従兄の首に腕を回して顔を埋めた。
「に、さ…」
「ん?」
「ごめん、なさい…」
じわりと彩羽の涙で服が濡れるのを感じながら明智は黙って彩羽の頭を撫でてやる。
彩羽はあれほど冷たく凍える様に凍り付いていた心が明智の手で撫でられる度に少しずつ溶けていくのを感じた。
明智に頭を撫でられているだけなのに…それだけなのに、彩羽は怒りや悲しみでぐちゃぐちゃになっていた何とも言葉に表しきれない感情が落ちついていくのを感じる。
それは同時に、この家には彩羽が頼れる人間がいないというのを表していた。
明智は彩羽の囁きに首をかしげた。
「私、健悟兄さんに沢山謝る事がある…」
「何を謝る事が?謝るとしたら巻き込んでしまった私の方だ」
「ちがうの…健悟兄さんは悪くない……私の方が謝らなきゃいけないのに…お母さんがごめんなさい…」
明智は巻き込んんだと言っていたが、彩羽があのツアーに無理を言って参加したのであって、謝るのなら守ってくれたお礼も言わず頬を叩いた挙句に責めた母親だろう。
彩羽は明智の頬を叩いて責めたと母から聞いて顔を青ざめた。
彩羽は薬のせいで意識が曖昧であまり覚えていないが、命をかけてぬいぐるみを取りに行ってくれた事はちゃんと覚えている。
しかし…
「それに…ウィルはもう…」
ウィルと名付けたぬいぐるみはもう無い。
あの後初音は彩羽が眠って意識がない間に捨てるよう命じてしまい、彩羽が薬が切れて意識もはっきりした時にはすでに燃えカスになっていた。
そして、この惨状である。
明智は初音から電話が来たときウィルの事を聞いており、珍しくも初音を怒鳴り散らした。
彩羽があのぬいぐるみを大切にしているのは自分だけではなく、明智の亡き父や母ですら知っている事なのに、初音は彩羽の気持ちを蔑ろにし人形を燃やして処分したのだ。
更にそれを知った彩羽が部屋に籠り今日を入れて5日も飲まず食わずにいると知った時の感情は正直思い出したくはない。
その時、警視庁にいたので、怒鳴り散らす明智にその場にいた警官達は一同ぎょっと驚いた表情で明智を見ていた。
明智も怒りで周りが見えておらず、飛び出したように出て行った明智の剣幕にその場にいた剣持を含めた警官達は電話の相手に手を合わせ合掌した。
彩羽の住むこの屋敷は、明智が住んでいる場所から新幹線で3時間もかかり、郊外に屋敷があるので更に最低でも1時間は掛かってしまう。
その為、急いできたがすでに夜になってしまった。
一応客室も用意されているだろうが、彩羽の今の状況ではその気遣いも無駄に終わりそうである。
かと言ってそれが嫌なわけではない。
明智家と縁を切ったと言った初音が切り捨てたはずの自分を5日で電話して助けを求めるほど彩羽は明智に心を許してくれている。
そう思うと彩羽には悪いが、兄として悪い気はしなかった。
「ごめんなさい…健悟兄さん……兄さんが命がけでウィルを助けてくれたのに…結局…ウィルは…っ」
自分の我が儘で明智はもしかしたら死んでいたかもしれない。
薬のせいにはしたくないし、恐らく薬を飲んでいなくても彩羽は炎の中に飛び込んでまでウィルと名付けたぬいぐるみを取りに行っただろう。
だけど、冷静になってみればそれは馬鹿な行為だと彩羽も分かっていた。
命とぬいぐるみ…どちらが大事だと言われれば普通ならば命だ。
金田一にも『人形より自分の命だ』と叱られた。
それは彩羽も理解している。
だけど彩羽が言った『自分の命よりも人形の方が大切』というのも彩羽の本心だった。
それを理解してくれたから明智は危険を顧みず死ぬかもしれないのに炎の中に飛び込んでぬいぐるみを取ってきてくれた。
そんな明智の勇気と努力を母が台無しにしたのだ。
それも一瞬で。
彩羽は強い罪悪感に襲われた。
母がした事とはいえ、自分の我儘で従兄の命は危ぶまれ、命を懸けてでも取りに行ってくれたぬいぐるみは気づいたら捨てられていた…それで罪悪感を感じるなというのは無理だった。
「あの人にウィルを渡してしまったのは私だ…あの人がウィルを捨てたがっていたのを知っていたのに…捨てるとも思わず渡してしまった私に非があるんだ…だから…」
「ッ、――馬鹿!!」
明智は死ぬかもしれないと分かっていて炎の中、ぬいぐるみを取りに向かった。
それで死んだのなら自分に非があるだけで、彩羽が責任を感じることはない。
明智は本気でそう思っていた。
しかし彩羽は明智の言葉を聞いた瞬間、明智と向かい合い叱る様に声を上げた。
突然『馬鹿』と叱られた明智は驚いた表情で彩羽を見つめる。
この屋敷に来てから初めて顔を合わせた彩羽は顔を顰め怒りを表していた。
「健悟兄さんの馬鹿!!あの時兄さん死ぬかもしれなかったんだよ!?私が…私があんな我が儘言わなきゃ兄さんはもしかしたら死んでたかもしれないのに!!なんで私を怒らないの!!!どうして私を責めないの!!!」
従兄はいつもこうだ。
どんなに彩羽が非があろうと、彼は決して彩羽を責めないし叱らない。
周りがどれほど彩羽が悪いと言ったって彼だけは彩羽の味方でいてくれる。
あれをやって、これをやって、あれが欲しい、これが欲しい、と無茶を言っても全て叶えてくれる。
明智の彩羽への扱いはまるでお姫様に対するそれだった。
だから彩羽は明智に我が儘を言ってしまうのは本人も自覚があった。
だからこそ彩羽は自重し、出来るだけ無茶な我が儘は控えようと決めていた―――はずだった。
その決意が、あのドイツ城の火事の時崩れてしまった。
薬で朦朧としながらもある程度は記憶にあるため、自分のせいで死にかけた事を彩羽は罪悪感を感じていた。
なのに、だ。
なのに明智は非があったのは自分だと言った。
彩羽には非がないのだと。
それがたまらず腹が立った。
明智は彩羽の言葉に目を瞬かせた後、困ったように笑った。
「ごめん、彩羽」
「…なんで謝るの」
「彩羽を叱る事はできないんだ」
「なんで……だって…あれは私のせいなのに…」
顔を合わせる彩羽は目を赤くして泣きはらしていた。
泣きすぎて目が腫れていたが、それも明智には愛しく見えた。
腫れた目元を親指で優しく撫でるように擦ってやると反射的に彩羽は片目を瞑った。
「私はね、彩羽…彩羽が可愛くてしかたないんだ……小さい頃から見て来たからとか、年の離れた従妹だからとかじゃなく…彩羽が可愛くてしかたないんだよ…彩羽のためなら炎はもちろん水の中だって平気で飛び込めるくらい、好きなんだ」
「だから、怒らないの?」
彩羽の言葉に明智は頷いた。
その頷きを見て彩羽は口を閉ざしてしまう。
『なにそれ意味が分からない』と言いたいのは山々だが、今まで明智が本気で怒ったことなど一度もないため言い返すことはできなかった。
何か悪い事をすれば注意の意味で咎めはするが、先ほどの初音との言い合いのような怒鳴る事はない。
ぬいぐるみ一つで炎の中に飛び込んでも彩羽を叱る事はなかった。
彩羽は自分のためとはいえ命を顧みない彼にじわりと涙が溢れ、抱きしめた。
「彩羽?」
「お願いだから…兄さんは自分を大切にして…このままじゃ私なんかのために兄さんが死んじゃう…そんなの、私…やだよ…」
想いを表すように彩羽は明智に抱き着く力を強くする。
震える彩羽の声に明智は彩羽が本当に自分を心配してくれていると知り、無性に嬉しく感じてしまった。
恐らくそれさえも彩羽にとって心配なのだろうから言わないが、明智は『努力する』とだけ返した。
彩羽はその言葉こそ信用できないと思ったものの、一先ず努力してくれるというのなら今はそれでいいかとこれ以上何も言わなかった。
何も言わなくなった彩羽に明智は『そうだ』と零し、ポケットを探り、彩羽に差し出した。
彩羽は埋めていた顔を上げ、差し出された物を見つめ首を傾げた。
「くまのにんぎょう…」
それは人形だった。
手の平サイズのチェーンが付いているクマの形をした人形。
それはお土産としてどこにでも置いてある物だった。
彩羽は瞬きを繰り返した後明智を見る。
「これは?」
「ウィルの弟として連れて来た」
「ウィルの…弟?」
急いで購入したのか、袋はなくシールが張られていた。
しかし今日は彩羽の誕生日でなければ、クリスマスでも、おめでたい日でもない。
明智の言葉に彩羽は首を傾げた。
「この子はウィルの弟で、彩羽の傍にいてくれる子だ」
彩羽は目を丸くする。
誰もがたかが人形だと答える中、明智だけは彩羽を尊重してくれた。
今だって急いでいるのにわざわざ駅のお土産屋に入って彩羽が寂しくないように、と思って買ってきてくれた。
この家では居場所がないに等しい彩羽には嬉しいプレゼントだった。
「ウィルに比べちゃうと安物だけどね…ちゃんとした物は後で贈らせてほしい」
明智の給料からしてもっといい人形は簡単にプレゼントできるだろう。
しかしそうせずすぐに渡せる人形を選んだのも彼の優しさだった。
彩羽はぐにゃりと視界が歪み、瞬きをするとポツリと涙が零れた。
「安物でもいい…高くなくてもいい…大きくなくたって…ウィルじゃなくたっていい……私…この子がいい…ウィルの、弟の…この子がいい…」
ウィルと同じ人形を買ったって彩羽はその子をウィルと認識するのはできない。
彩羽にとってのウィルは燃えてしまったあの人形で、あの人形以外がウィルとは思えなかった。
新しく出来た家族を彩羽は胸元で抱きしめた。
明智は彩羽が受け入れてくれたことにホッと胸を撫で下ろす。
はっきり言って、内心では彩羽が人形を受け入れてくれないかもしれないと思っていた。
しかし受け入れてくれた事に安堵した。
「兄さん…ありがとう」
明智の方に顔を寄せ、貰ったクマを見下ろす。
手の平にすっぽりその人形はお土産屋さんによく売っているクマのぬいぐるみで、ウィルと比べると少し濃い茶色の布を使用されていた。
目元は黒というよりチョコレートのような目が縫い付けられていた。
嬉しそうに笑みを浮かび人形を優しく撫でる彩羽に明智も嬉しくなり笑みが自然と零れた。
「名前、どうしようかな…」
すん、と鼻を鳴らし、従兄に寄りかかりながらポツリと呟いた。
彩羽はぬいぐるみに名前を付けるタイプで、勿論この人形にも名前を考えていた。
「ルディっていうのはどうかな」
「ルディ……"ラドヤード"?」
「そう…ラドヤード・アップルビー」
言葉も少しずつはっきりしはじめ、鼻をすするのも少なくなり彩羽は少しずつ落ち着き始めていた。
名前を考えているとポツリと呟かれた明智の言葉に、彩羽はふと思い出す。
ラドヤード・アップルビーという名は、架空の人物の名だ。
1900年代のイギリス女性作家の作品にある登場人物である。
ジャンルは恋愛+ミステリー小説。
ラドヤードは女主人公の弟という立場で、主人公の友人に恋をしており、最終回では主人公の友人と結婚していた。
更に言えばイケメンで結構ファンが多く、作中にもファンにも愛称の『ルディ』と呼ばれていた。
彩羽もファンで、明智もそれは知っていたのか名前を悩む彩羽にその名を貰ってはどうかと提案する。
「ルディ……うん、ルディいいね……あなたは今日からルディだよ」
名前が決まれば更に可愛く見える。
両手に持って人形に名前が決まったと教える。
人形を愛でる趣味はあるがファンシーな思考ではないので、人形が喋るわけもないと分かっているが、つい話しかけてしまう。
嬉しそうに笑う彩羽に明智も笑みがこぼれた。
心が落ち着いたためか、彩羽の腹からぐう、と虫がなり、彩羽はお腹に手を当て恥ずかしくて俯く。
耳を見れば真っ赤に染まっており、明智は愛し気に目を細める。
「5日も食べてないからね…食事を運んでもらおうか」
「う、うん…」
明智は気にしていないが、彩羽は一応女子なので恥ずかしてたまらなかった。
その間も腹の虫は空気を読まず鳴り続ける。
明智の言葉に彩羽は貰ったルディと名付けた人形に顔を埋めて頷いた。
そんな彩羽に笑みを深め、何とか無事だった電話を取り、内線で使用人たちに食事を頼んだ。
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