(3 / 37) 黒死蝶殺人事件 (3)

剣持は過去最大のピンチを迎えていた。
自分のデスクに座りひたすら書類を書き続けるのを心掛けた。
息を殺して、目立たず、定期で上げれるように努力した。
それはなぜか…
勿論日本が平和だからなのもある。
デスクから離れなくていいのは殺人事件が起きていない証拠であり、すでに終えている証拠でもあるのだ。
だが…今回はそうではない。


「け、警部…こ、この空気…耐えられそうにないんですが…」

「シッ!無駄口を叩くな!大人しくしていればいずれ解放される!」


傍にいた部下がポソリと剣持に声をかけてきた。
その顔は青ざめており、傍からみれば体調が悪いのかと思う程だったが、当然体調不良からではない。
人差し指を立てて口に持っていきながら『もう少しの我慢だ!頑張れ!』とエールを送っていると…―――ガタリと音を立てて"ソレ"は動き出した。


「剣持警部」


低い声で自分を呼ぶ"ソレ"に一同ビクリと肩を揺らした。
剣持は慌てて立ち上がり、思わず敬礼する。


「はっ!なんでしょうか!!」

「これから私は会議に向かいます…そのまま帰宅しますので、何かありましたら連絡を入れてください」


"ソレ"の言葉に剣持は『了解です!』と声を張り上げて背筋を伸ばし敬礼したまま頷き、あからさまな剣持の様子など気にも留めず"ソレ"は『では頼みますよ』と言いながら荷物を持って出て行った。


「や、やっと解放された…」

「お、お疲れさまです…警部…」


"ソレ"が完全に部屋から出て行き足音が聞こえなくなった瞬間、緊迫した空気があっという間に緩和した。
誰もが安堵の息を吐き、デスクに突っ伏する剣持を讃える。


「明智警視…ちょっと前はご機嫌だったんだけどなぁ」

「よっぽど仕事しなきゃいけなかったのが嫌だったんだろうか」

「でもあれは不可抗力っていうか…奇跡的な偶然のようじゃ…」

「誰も明智警視の休暇の事聞かなかったですもんね」

「いや、普通あの明智警視に『え!休暇なんですか!?いいっすねー!それで?どこに行くんですか〜?』とか聞けねえだろ」


"ソレ"とは明智であった。
明智はここ最近機嫌がすこぶる悪かった。
事情を知らない剣持達部下は休暇が潰れた事が不機嫌の原因ではないかと読んでいる。
あの地獄の傀儡子と名乗った高遠が起こした事件に巻き込まれてしまい休暇が仕事となった。
あのご機嫌からして口説いている最中の意中の女性か、または恋人と休暇を過ごすため機嫌が良かったと皆勘ぐっていた。
若干その勘ぐりのせいでイケメン警視に夢を見ている女性警官達が仕事に手が付かずいつもの仕事が遅れてしまっていたのは今では笑い話である。
結局相手は年下の従妹とマジックショーを見に行くためだったと知った時の女性達と来たら…
毎日がお通夜状態だったのに従妹が相手だと知った瞬間の彼女達の満面の笑みや明るさを見て『現金だな』、と男性陣はまず思った。
だが、正直相手が従妹だったと知った大半の男性陣は、競争率が戻った事に『ちっ』と舌打ちしたのだからどっちもどっちである。


「でも…それにしては暫くは機嫌が良かったじゃないですか…仕事が原因なら不機嫌なまま出勤してきません?」

「そういやそうだな…剣持警部、何か知りませんか?」


『やっぱ来やがったか』と剣持は思った。
明智の直属の部下の中でも剣持は他の部下達と比べて接点が多い。
立場もそうだが、何より共通点である『金田一一』と仲がいいからだろう。
黙って部下達の会話を聞いていた剣持はそろそろ話を振られるかと思い、溜息をつく。


「あー…まあ…あれだ…まあ、うん…警視の従妹さんでちょっと、な」

「従妹さんですか…その従妹さんがどうしたんですか?」


気になるのは仕方ないと思うが根掘り葉掘り聞かれたのをホイホイ答えていいのか分からなかった。
あの警視の私生活などいい話のネタなのだから仕方ないとは思うが…情報源が自分だというのは考えなくても誰でも分かる。
明智の従妹の存在は剣持しか知らないのだから。
しかし、今の常にブリザードを発生させているほど不機嫌さを見せる明智に中途半端な情報を与えたままで誰かが地雷を踏むと更に被害は自分に振りかかるだろう。
そう計算した後、剣持は答えた。


「その…あまり周りには言うなよ?」

「は、はあ…分かりました」

「まあ周りに言い触らしたのバレたらどんな嫌味が出るかわかったもんじゃないですもんね」


いつも剣持を生贄にする部下達だが、剣持の言いたい事をすぐに理解し誰もが頷いた。
いい部下なのか、冷たい部下なのかは分からないが、話が分かる奴らでよかったとは思った。


「警視の従妹に悪い虫がついたらしい」


ぽそりと呟かれた上司の言葉に一同口を閉じた。
シン、と静まり返る一課に剣持は『まあそうなるわな』と思う。
剣持は明智と彩羽を見ても『少し心配性なお兄さん』としか見ておらず、金田一が『シスコン』と明智に言うのは嫌味返しだと思っていた。
しかし北海道での彩羽への態度といい、彩羽に男の影が見え隠れしただけでああも凍り付くような空気を出し不機嫌を隠さないのといい…金田一のあれはただの嫌味ではないと気づいてしまうだろう。

そう…我らが一課の花形でもある明智健悟は…

シスコンだったのだ。

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