(20 / 37) 黒死蝶殺人事件 (20)

キィ、と音を立て扉が開かれる。
部屋には一人の少女と青年が入ってきた。


「お嬢様…本当に明智様でなく私で良いのですか?」


青年は先に部屋に入っていく少女…彩羽に戸惑いながら問う。
扉の下枠の外側で足を止めている青年…英二の困惑とした顔に彩羽は苦笑いを浮かべ、手を取って中に入れる。
彩羽に手を握られ引き入れられた英二は困惑から驚いたが表情へと変えた。


「いいの…できればお母さんの事あまり知らない人についてきてほしかったから…」

「お嬢様…」


この部屋は母の部屋だ。
正確に言えば母と義父の部屋。
以前の彩羽なら決して自分から好んで来訪しなかった部屋である。
それがなぜ今になって来たのか。
それは…


「気持ちの整理をしたいから…」


気持ちの整理をしに来たのだ。
英二は母と義父の部屋を見渡す彩羽の横顔を見つめた。
彩羽の横顔は切なく、泣きそうな顔をしていた。
しかし気丈にも彩羽は決して泣くものかと我慢している。
彩羽は自分の事で精いっぱいだった。
憎いとまで感じた母を亡くし、弟とも仲違え、明日香達には謂れもない事で責められる。
まだ17歳なのに辛い事がその華奢な体に振りかかったのだ。
そんな彩羽の願いをどうやって拒絶できるのだろうか。


「かしこまりました…彩羽様…」


英二はゆっくりと扉を閉めた。
バタン、と静まり返る部屋に扉が閉められる音が嫌に大きく彩羽の耳に届いた。

―――部屋は薄暗く、彩羽と英二でカーテンを開けた。
すると薄暗かった部屋があっという間に光が差し明るくなり、部屋を照らした。
彩羽は部屋を見渡すと、母が亡くなる昨夜までの同じ光景が広がっていた。


「この部屋の物全部ね、お母さんのなの」


立ち尽くすように部屋を見渡しながら彩羽はそう呟いた。
その呟きに英二は『はい』とだけ返した。
だがそれでよかった。
ただ思い出に浸り、そして母と決別をしたいからただの独り言も同然だった。
ただ…誰かに聞いてほしいだけ。
だから下手に母をよく知っている人物ではなく英二についてきてもらったのだ。


「お義父さんが死んで、お母さんはお義父さんの物全部捨てちゃってね…」


カーテンを隅に纏めて留め、そのカーテンを見上げた。
このカーテンも母が義父が亡くなってから変えたもので、まだ新しい。
カーテンだけではない。
カーペットも、ベッドも、椅子も、全て買え替えた。
御乱心したと周りに言われ、これだから後妻は、とも言われても母は気にせず全ての物を自分の私物に替えた。
彩羽はそのままソファに座る。
英二も静かに音を立てないよう歩き彩羽の後ろに控え立ったままではあるが主人と同じ目線で風景を見る。
彩羽が見上げるその先にある"モノ"を英二も見て目を丸くする。


「見事な絵画ですね…まさかこの絵画をこんなところで見ることができるとは思いませんでした…」


彩羽の邪魔をしないよう心掛けたが、彩羽が見上げるそのモノ…絵画を見て思わず呟いてしまった。
自分の声にハッと我に返り急いで口を手で覆ったが、彩羽は目線を英二に向けただけで咎める事もなく、視線を絵画に戻した。


「これってすごい絵画なの?」

「え?…は、はい…これは1800年ほどの画家の絵画で、当時はあのゴッホと共に活躍した方が描かれたものですよ」

「そう…」


英二の言葉に彩羽はただただそう短く返した。
英二から聞いて母があんなにも手に入れたがっていた理由が分かった。
だけど


「やっぱり…ただの絵にしか見えないな…」


彩羽にはそんなに価値がある絵画には見えなかった。
恐らく絵画好きに聞かれれば激怒されるであろうその言葉に英二は静かに頭を下げる。


「お母さん、私がこの部屋に来るときは大抵何か訴える時でしたね」


足を伸ばして背もたれに背を預け絵画を見上げて笑みを浮かべながらポツリと呟く。
母に語る様に呟いたその言葉は英二に向けたものではない。
もはやいなくなった母に向けたものだった。
返事を待つように彩羽は口を閉じるが、当然、返ってきたのは静けさのみ。
それを彩羽は寂しいと感じ、笑みが消える。


「本当に…私は貴女に会いに行けば文句ばかり…何をするにも貴女に反抗していました」


母の部屋に来る時は大抵呼ばれた時か、何か文句を言いに向かう時だけだった。
決して自分から母に会いに行き一度でも笑い合ったことはなかった。


「英二さん…私ね、お母さんの部屋に行くと絶対に口論になるんだ…でもね、お母さんが私を呼ぶときはいつも何かを買ったときなの」

「はい…」

「その度に私はお母さんと喧嘩して…いつも喧嘩別れしてた」


この部屋に思い出があるとするならば、母との口論だろう。
いつもこの部屋に彩羽が訪れる時は口論して喧嘩別れしていた。
お互い頑固だから数日は口を利かないが、母は二三日すればコロッと忘れたように彩羽に話しかけ、そしてそれを繰り返す。
しかしそれに対して母は何かを買う度に彩羽を呼びつけそれを見せる。
『どう?可愛いでしょう?』と母は買った服を見せた。
『これなんて手に入れるのに苦労したのよ』とネックレスを見せた。
『とても綺麗な入れ物でしょう?香りもね、とてもいい香りするの』と香水を見せた。
『ずっと欲しかったの、これ』と絵画を見せた。
その度に彩羽は、
『どれも同じ物じゃない』と服を見て呆れた。
『また買ったの?いい加減浪費やめたら?』とネックレスを見ようともしなかった。
『変な匂い』と香水を嫌った。
『よく分かんない』と絵画に興味すら沸かなかった。
その度に母は悲しそうな…寂しそうな顔をしていた。
でも彩羽はその母の顔すら見ず、さっさと部屋を出て行ってしまう。
絵画から目を逸らし、彩羽は花瓶へと見る。
その花瓶には見事な花が活けてあった。


「実はお母さんって生け花が得意なの」


ソファから立ち上がりその花を活けている花瓶を持って振り返り、『ほら、これ』と英二に見せた。
しかし、すぐ後ろに英二が控えており、彩羽はもう少し離れていると思ったからか驚いて思わず言葉を切ってしまう。
しかし不自然な切り方ではなかったため、英二は目を細め『そうですか』と返し、彩羽はホッと安堵の息を吐く。


「とても美しい生け花ですね」

「そうでしょ?私のお父さんが生きてた頃は家を艶やかにしてくれたの…よく私も手伝ったんだけど…私はお母さんみたいに上手くはできなかったなぁ」

「幼かったのでしたら仕方のないことですよ」

「ううん…私には生け花の才能がなかっただけ…血が繋がってないからね」

「お嬢様…」


困ったような英二の反応に彩羽はクスリと笑った。
英二は彩羽と初音が血が繋がっていない事を以前に話したため知っている。
だから気兼ねなく冗談が言えるのだが…今の状況では冗談に聞こえなかった。
困ったような反応に面白さを感じたが、同時に申訳なくも感じた。
『ごめんね』と謝ると黙って首を振られた。
花瓶を元の場所に置き、彩羽は続いて寝室に向かう。


(お母さんの寝室…初めて入る…)


この屋敷に来たのは9歳。
幼子ではあったが、すでに1人部屋を用意され、一人で眠るよう言われた。
最初は寂しくて泣き疲れて寝ていたが、いつの間にか一人にも慣れて眠れるようになった。
母には『甘えるな』と言われていたので寂しいからと母の寝室に潜り込むことは出来なかった。


「…!」


寝室に入り彩羽は目を丸くして唖然とさせた。
英二が立ち止まった彩羽を不思議そうに見つめていたが、それに気づかず彩羽はまっすぐと"そちら"に向かう。


「ッ、ウィル…!?」


彩羽が向かったのはベッドサイドテーブルだった。
寝室も全て買い替えたのか元々ツインベッドが置かれていたのに今ではダブルベッドだけが置かれていた。
その脇に置かれているベッドサイドテーブルの上にある"それ"の元へ駆けつけた。
"それ"は人形だった。
彩羽が大切にしていた人形。
彩羽が母に奪われ燃やされたと思っていた人形。
その人形がなぜか母の寝室のサイドテーブルに置かれていた。


「どうして…ウィルが……どうして…」


手に持ってみると長年触れていた感触と同じだった。
汚れだって、長い年月が経ちゴワゴワとなった布生地だって、同じだった。
それにウィルはもう生産中止になっており、今入手しようものならそれ相応の時間と金が必要。
彩羽からウィルを奪ってそう時間も経っておらず、別を用意したとしてもわざわざ汚くする必要もないだろう。
ならば今手に持っているのはウィルと名付け愛した人形。
14年前の自分を知るただ一つの人形である。
彩羽は震える手でウィルを抱きしめた。
決して綺麗とは言い難い生地に顔を埋める。


「お嬢様…」

「英二さん…この子がウィルなの…この子は…ウィル……私が今の私になる前から私の傍にいてくれた子なの…」

「はい…」

「でも…お母さんはウィルを捨てたって…燃やしたって言ってたのに…どうして…ここに…」


ウィルの事は英二も知っていた。
ウィルはドイツ城の際、母が眠っている彩羽の隙をついて捨てたヌイグルミだった。
取り戻さないよう燃やしたと母の口から聞き、その時の衝撃と怒りは今も思い出せるほどだった。
だが、ウィルは実際母の寝室に置かれていた。
燃やしたと言った人形を母は寝室に置いていたのだ。
何故、と当然に彩羽は困惑した。
あれほど捨てたがっていたぬいぐるみをなぜ傍に置いていたのか…彩羽は分からなかった。
しかし、サイドテーブルに伏せられた写真立てが何となく目につき、ウィルを抱きながらその写真立てへ手を伸ばした。


「…っ」


恐らくウィルを持ち上げた時にウィルの足が触れて写真立てが倒れたのだろう。
伏せられたその写真立てを見ると彩羽は息を呑んだ。
その写真に写っているのは―――母、彩羽の二人の写真だった。


「これ…お母さんが再婚する前の写真だ…」


写真には母である初音と、彩羽の写真が写っており、色々な花が咲き乱れていた。
この写真には見覚えがあった。
花で有名な場所に遊びに行き、そこで撮った写真だった。
父が写真を撮ってくれたので父が写っていないのも可笑しくはない。
写真を見てその思い出が蘇ったのか花の甘い香りが今も漂っているような気がした。
もう一つ、写真が立てられていた。
持っていた写真立てを立てて戻し、もう一つの写真立てに手を伸ばす。
そこに写っていたのは彩羽一人だけだった。
夏なのか、涼しそうな恰好に強い日差しから守るための帽子を被り夏の日差しに負けないくらい眩しい笑顔を向けている自分がいた。


「―――ッ」


彩羽は悲しみや懐かしさよりも苛立ちが積もった。
思いっきりテーブルに置いてある写真を払うように落とし、その勢いで写真立てのガラスが割れた。
持っていた写真立ても床に叩きつければ、落とされたのと同じく割れてしまった。


「わけわかんない…っ!あんなひどい事言っておいてなんで寝室にウィルがいるの!!なんで家族の写真が置いてあるの!!あの人は何がしたかったの!!」

「お嬢様…」

「昔を懐かしむくらいならなんで…!!なんで……どうして…」


母は巴川家に…正確に言えば父が亡くなってから人が変わった。
あれほど優しかった母がまるで金に捕らわれたようになった。
人に対して損得でしか付き合わなくなり、金を積まれればどんな汚い事だってしてきた。
彩羽の通っている学校だって、彩羽は自分の実力で入ったつもりだが、もしかしたら母が裏口入学させたのかもしれない。
だけど母はまるで本当は彩羽を愛しているように写真を置きウィルを捨てずにおいた。
この部屋に入る前はあれほど落ち着き過去を振り返っていられたのに、今ではそれすら出来ないほど腹立たしさが沸々と沸き上がり、世間から見れば母が写真とウィルを残していたのは感動ものではあるだろうが、今の彩羽には苛立ちしか生まれない。
女々しい事をするぐらいならこんな家を捨てて二人で暮らそうと言ってほしかった。
貧乏でもいい。
貧しくても、贅沢ができなくなっても…母がそう言ってくれたのなら彩羽はすぐに母の手を取ってこんな家捨てたのに。
母が金をとったのか、それとも別の何かを取ったのか分からないが、彩羽は母に対して怒りを感じていた。
同時に…―――後悔していた。
もっと早く母に本音を告げていればよかったと。
もっと早くにこの家を出ようと自分から言っていれば良かった、と。
彩羽は涙が溢れた。
怒りからか、後悔からか…分からない。
今、彩羽の中では怒り、悲しみ、腹立たしさ、辛さ、後悔、辛さの全ての感情が混ざり合い真っ黒に固まっていた。


「お嬢様…失礼します…」

「…!」


泣き止みたくても自分では制御できなくて、情けなさもあり彩羽の大きな瞳からは雫のような涙が溢れていく。
嗚咽を零しながら母への感情を必死に抑えようとする彩羽に英二が一言声をかけ、そして―――後ろから彩羽を抱きしめた。
抱きしめられた彩羽はビクリと肩を揺らして目を丸くする。


「英二さん…?」

「すみません…失礼なのは承知の上です…ですが…見ていられなくて…」

「…………」


彩羽の戸惑う声に英二の抱きしめる力が強くなった。
それでも苦しくはないが、彩羽は英二の言葉に口をつぐんだ。


「ねえ、英二さん」

「…はい」

「この後、あなたはどうするの?」

「この後…?」


暫く抱きしめられたまま過ごした。
長くはないが、短くもないその時間は彩羽を落ち着かせるのに十分で、すん、と鼻を鳴らしながら彩羽は落ち着いた声で英二に声をかける。
英二は彩羽の言葉に小首をかしげた。


「お母さんが死んで…多分私、健悟兄さんに引き取られると思う…だけど…流石に英二さんを雇い続けるほどお金持ちじゃないし…健悟兄さんと隼人の三人で暮らす事になるだろうから人手が足りてないってわけじゃない…英二さんはこの家を出てどうするの?やっぱりご両親のいるイギリスに行ってしまうの?」

「………」


この後、とは事件が片付いた後の事を指していた。
彩羽はこの家に留まるつもりはない。
この家には楽しい思い出なんて一つもないのだ…そんな家に留まる道理はもうない。
17歳とは言え、まだ彩羽は保護者が必要な年齢で、7歳の弟を連れて独り立ちは無理だ。
そうなると施設に預けられることになるのだろうが、恐らく明智がそれを許さないだろう。
きっと明智が弟と共に彩羽を引き取る事になる。
そうなると英二が心配だった。
英二は赤の他人だしただの雇われた使用人にすぎないが、英二には沢山助けてもらった恩がある。
この味方のいない家の中で常に傍にいてくれた。
母や明日香達から助けてくれた。
彩羽の心を守ってくれた。
ただの力のない少女なのに、雇われただけなのに、守ろうとしてくれた。
その恩があった。
だから職を探すにしてもイギリスに行ってしまうにしても、母の私物を売ってそのお金を渡そうと思っていた。
少しでも力になれる事をしたいと思っていた。
しかし…英二は彩羽の言葉に頷くことはなく、後ろから抱きしめていた腕を放し、なぜか向かい合うように彩羽の前に立つ。
なぜ前に立ったのか不思議そうに英二を見上げた。
英二は真剣な目で彩羽を見つめ、彩羽もその真剣さに釣られるように口を閉じて英二を見つめ返す。
そして…


「彩羽様…私と来ませんか?」


彩羽は一瞬何を言われたのか分からず、呆気に取られた。
呆気に取られる彩羽の手を英二はそっと取り、優しく握る。


「私と結婚してください」


彩羽は目を丸くした。
英二は真剣に彩羽を見つめており、とても冗談を言っているようには見えない。
何の反応もない彩羽に英二は手を握りしめたまま続ける。


「突然言われて戸惑うのは分かります…でも…私は貴女が好きなんです…ずっと…愛していました…」

「ずっとって…」

「貴女に出会った時から…」

「………」


英二の言葉に彩羽は口ごもる。
会った時から、というと英二がこの屋敷に来た時の事を指すのだろう。
その時期は一年も満たない。
恋愛に出会った長さは関係ないと言うが、本当だったとはと彩羽は案外冷静に想う。


「私はまだ未熟者で…明智様と比べると給料だってそれほどいいというわけではありません…ですが絶対に貴女に苦労はさせません…決して貴女を不幸にはしません…ですから…私と一緒になってくれませんか…」


蓮の時も思ったが、どうしてこうも告白されるのは突然なのだろう。
古いがよく学園物で呼び出されて告白されるならまだ心の準備と何を言うのか言葉を考えるが、こうも突然言われるのは困ってしまう。


「…英二さんは…私にとってなくてはならない人で、私の恩人です…沢山助けてもらったし…守ってくれた…私、あなたの事好きです…あなたは素敵な人だと思います…」

「では…」

「でも…ごめんなさい……付き合えないし…結婚できない…」


英二の想いは嬉しいと素直に思う。
しかし、それを受け入れるのは出来なかった。
『ごめんなさい』と頭を下げる彩羽に英二は悲し気に笑みを浮かべ首を振った。
しかし手は離さず、離れようとする彩羽を引き留める様に手に力を入れる。
グッと力を入れられた彩羽は顔を上げ、英二を見上げた。


「私は諦めませんから…いつかあなたが振り向いてくれるよう努力するつもりです…ですから覚えておいてください…私があなたの事が好きだという事を」


彩羽に断られたが、諦めるつもりは毛頭ない。
そう言われ彩羽は真剣な表情の英二の言葉に思わず頷いてしまった。

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