(32 / 37) 黒死蝶殺人事件 (32)

彩羽は慣れた道を歩き、部屋に戻った。
パタンと扉を閉められ、彩羽は扉に凭れ掛かり、ズルズルと座り込む。
彩羽は疲れ果てていた。
重い体を起こし、彩羽はのそのそとベッドへ向かい、倒れる様にうつ伏せに横たわる。


「……不法侵入」


彩羽はポツリと呟く。
その呟きに笑いを我慢する声が聞こえた。


「すみません…どうしても心配でしたので…」


そう言うと男の声が彩羽の耳に届く。
その声は顔を上げて見なくても聞き慣れた声…英二に扮している高遠だった。
静まり返っていると音はどんなに小さくても不思議と大きく聞こえ、鍵が開けられた音や扉が開けられる音、カーペットを歩く音など普段気にもしない音を人間の耳は拾う。
謝る高遠だったが、全くもって申し訳なささが見当たらず、彩羽は溜息を吐いた。


「鍵かけてたのに…」

「お嬢様…世の中には合い鍵というものがございます」

「…一応乙女の部屋なんだけど…」

「それは申し訳ありません…責任取ってあなたを娶りましょう」

「…………」


彩羽は高遠の…英二の口調がどこかおかしいと気づいた。
世話係だから丁寧に話すのは同じだが、どこかいつもと違うと何となく気づく。
ゆっくりと顔を上げれば英二はベッドの脇に座っており彩羽を見下ろしていた。
彩羽と目が合うとニコリと笑うその顔はいつもと同じ佐藤英二の物だったが…今の彩羽にはそれすら別人に見えた。
しかし今の彩羽の状態でそんな細かいのを気にする余裕はない。
気にはなるが、暴こうとまでは思わず彩羽は上げていた顔を再び枕に埋めた。
そんな彩羽に英二は『失礼します』と一言かけて彩羽の頭を撫でた。
その手は明智のように大きな手で、とても優しく、彩羽の心を落ち着かせるものだった。


「辛いですか」


彩羽は安心する手に撫でられゆっくりと瞼を閉じる。
明智以外の人間にこうして頭を撫でられるのはいつぶりだろうかと考えているとポツリと高遠が呟いた。
その言葉に彩羽は瞼を閉じたまま黙り込んでいたが、ゆっくりと頷いた。


「何が辛いですか」


頭を撫でる手を止めず、高遠は次いで問う。
続けられた質問に彩羽は口を噤んだが、暫くしてその問いに答えた。


「お母さんのこと」

「奥さまの何が辛いのですか」

「全部辛い…お母さんが死んだのも、お母さんと加川先生が不倫関係だったのも…全部辛い…お母さんは生きててくれないと…」

「なぜ」

「…生きててくれないと…お母さんを捨てる事さえできないから……お母さんがお父さんにしたみたいに…お母さんを捨てる事ができないのがつらい……私は…なんのためにここまでがんばっていきてきたのか…わからなくなる…」


結局、彩羽は母の呪縛からは逃げ出せなかった。
母がいなくなればいいと彩羽は心の底から思っていが、実際いなくなってみると喪失感が強く何もする気力すらなくなった。


「殺したかったですか…貴女の手で…貴女の母を」


英二の、高遠の、その言葉に彩羽は一瞬口ごもったが、首を小さく振った。
高遠は彩羽の反応に意外そうに見つめるが、それほど驚いてはいない。


「私はお母さんが憎いし、お母さんを殺してやるって本当に思ってた…でも…お母さんを殺すのではなく、生きて後悔させたかった……と、思う…」


母を殺してやりたいと思ったのは本当だ。
しかし"ある切っ掛け"によって母を殺すのを考えるのはやめた。
その代わり母を捨てたいという気持ちに変わっていった。
高遠は彩羽の言葉に質問を止めて黙り込み、彩羽は黙り込んだ高遠にうつ伏せから仰向けへと体を向けた。
ベッドに座って見下ろす高遠と目が合うと彩羽はくすりと目を細めて笑う。


「不思議なことにね…お母さんを殺せなかった事には後悔はしてないの…勿論悔しいけど…でも…はじめちゃんのおかげで私人を殺さなくてすんだ…」

「金田一、様…ですか…?」


彩羽の言葉が意外で、高遠はつい『金田一君』と呼びそうになったのを何とか持ち直す。
高遠が言い間違えそうになったのに気づかず彩羽は頷いて目を瞑り、その光景を思い出す。


「覚えてる?健悟兄さんと一緒に行ったミステリーツアーではじめちゃんと美雪ちゃんと再会したって話」

「勿論です」


この屋敷に雇われ、彩羽がやっと懐いてきてくれた時にその話を聞いたことがあった。
人生で初めての殺人事件で、その後に高遠が起こした殺人事件が起こり、そして今回も。
ドイツ城の時の話しは二人と再会できたからか嬉しそうに語っていたのを鮮明に覚えている。


「最後にさ…はじめちゃんが犯人を追いつめて…結局その人は自殺しちゃったんだけど……その時にね、はじめちゃんが言ってた言葉が忘れられなかったの…」

「どんな言葉ですか?」

「『一体何が残るんだ』って言葉…その後に『仲間の裏切りと恋人の無残な死と憎しみだけ』だって…言葉」


犯人に向けた言葉を彩羽はあの時強い眠気と戦いながらも頭に残っていた。


「それだけじゃないんだけど…でも、はじめちゃんのその言葉を聞いて私…ずっと考えてた…私がもしあの二人を殺した後の事……考えて考えて…私にはなにも残らないって気づいたの…残るのは隼人だけ…でも…きっとあの子は両親を殺した私をきっと憎むと思う…」


膝を立ててお腹で手を組む。
瞼を開け天井をまっすぐ見つめながら彩羽は母と義父を殺したもしもの世界を想像した。
あの金田一の言葉を聞いてから彩羽はずっと考えていた。
何が残るのか、憎しみ続けて幸せなのか、復讐を遂げて満足か…ぐるぐると考えていた。
何が残る――復讐を遂げたという満足感と開放感が残る。
幸せだったのか――復讐を心に決めた7年間、幸せだと思った事は一度もなかった。
復讐を遂げて満足か――復讐をしていないから妄想でしか分からないが、満足感は一切感じなかった。
何が残る、という問いの場合、正確には弟が残される。
彩羽はあの時復讐を終えれば逮捕されてもいいし、死んだってかまわないと思っていたから後の事なんて考えた事はなかった。
だけど金田一の言葉に考えさせられ、そして気づいたのだ。
自分に弟がいるのだということに。
血の繋がりはないが同じ母から生まれた弟がどう世間から扱われるのか…それを考え、そして本来なら幸せになるはずの弟の未来が自分のせいで壊されるかもしれない…そう思うと復讐ばかり考えていた黒く染まっていた想いがスッと冷えていく気がした。


「私がいます」


そっと、腹部に組んでいた手の上を何かが重なった感覚がして、天井から手元を見た。
そこには高遠の片手が重なっており、高遠の手はそのまま彩羽の組んでいた手を解き、自然な動きで手と手を合わせた。
彼の綺麗な指が彩羽の指と指の間にするりと絡められ、まるで恋人繋ぎのようなそれに彩羽は手元から高遠を見た。
高遠は真剣な表情で彩羽を見つめていた。


「貴女には私がいます」


高遠の言葉に彩羽は言葉を詰まらせる。
真剣にこちらを見つめる強い眼差しも、真剣な表情も、そして高遠の言葉に、彩羽は応える言葉が見つからなかった。
否――応えたら駄目だとなぜか思った。


「私は言いましたよね…貴女の事が好きなのだと…愛しているのだと……私は例え貴女が殺人を犯しても愛しています…隼人様や明智様が貴女から離れても…貴女が一人になったと思っていても…私だけは貴女の傍にいます…」

「………」


英二からの告白は忘れてはいない。
蓮に告白された事も忘れていない。
正直なんで私が、とは思わなくはないが、嫌われているより好意を持たれているのは素直に嬉しい。
だけど義父からの性的虐待のせいで恋愛感情が分からなくなっていた。
だから英二の言葉も告白も応える事は難しい。


「私は…」


どうしようかと困惑した。
明智のお陰で己の身体が汚れているという認識は多少拭えたが、ずっと思いこまされたものは完全に拭いきれない。
彩羽が何か答えようとした時、ちょん、と指で唇に触れられ思わず黙り込み、繋いでいた手の力を強くする。
黙り込む彩羽に英二は目を細め微笑み、ゆっくりと顔を近づける。


(ちかい…)


顔を近づく英二に彩羽は慌てることなく、不思議に思っていた。
何も反応しないのをいい事に英二はそのまま――彩羽の唇に触れた。
軽く触れた後、啄むように繰り返しすぐに離れた。
彩羽は目を瞬かせ英二を、高遠を見つめる。


「言わなくていいんです…貴女の気持ちが他に向いていないのなら今はそれで構いません」


彩羽のその顔は呆けており、どうしてキスをされたのか理解していない様子に高遠は笑みを深め、彩羽の頬を撫でる。
微笑む高遠に、恥ずかしがる素振りも慌てる素振りもなくただ淡々とした反応を見せていた。
反応がないのは少々面白くなく感じるが、性的虐待されたことの影響だという結論に至り、すでにいない義父である修蔵を恨めしく思う。


「構わないっていうわりにはキスはするんだ…」

「勿論軽はずみではありませんよ…私が本気だと分かっていただきたかったからです」

「私…英二さんって結構淡白かと思ってたけど…性欲あるんだ…」

「……お嬢様…私を何だと思ってるんですか…」

「んー…聖人?」


キスされた事ではなく、淡白だと思っていた英二に性欲があった事に驚く彩羽の言葉に高遠は『何です、それ…』と呆れたように呟く。
高遠の反応に彩羽は愉快そうにクスクスと笑い、その笑みに高遠はホッと安堵の表情を浮かべた。


「何があっても私が守ります…」


高遠はそう言って繋いでいた彩羽の手の甲にキスをした。

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