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 アレス王国はどのような場所だったか。


 ただそれだけのことを語るにしても、どうしてもこの話をしなくてはならないだろう。

 簡単に言うと、緑が豊かで人も穏やかで優しい国だった。方々は山に囲まれ恵まれている国だった。
 そんな自然が多く城下には活気があふれる国。潤沢なソウルを肌で感じ、生命が息をしている。

 そんな国で私は偶然目を開けた。


「目が覚めたって聞いたぞ、ちょっとちょっとどいてくれ、通してくれ!」

 快活で豪気、それが彼、ディラン・アレスへの第一印象だった。
「なあ、アンタ自分の名前は覚えているのか? 家は? どこから来たのか覚えてるか? そもそも何で街中に……」
「わあ、待って待って待ってください! 名前……は……うっ」

 私は口を開こうとすると、なぜか殴られたような頭痛がして、頭を抱えてうずくまってしまった。

「おい何やってんだバカ」
 長髪の男性の後ろからぬっと顔を出した男性がそう言う。私を(かば)ってくれたのだろうか。
「うるせーよバカ」
「何やってるんだよバカ兄貴とバカ兄貴」
 二人の息のあった「バカ」という言葉に黒い長髪の男性は項垂(うなだ)れた。酷い、そこまで言わなくても……とわざとらしい泣き言を溢した後に「まあでも、俺もちょっと急ぎすぎたかな」とケロリとした様子で、軽く謝罪をした。

「悪かったよ、いきなり質問責めにして。俺はディラン、この国――アレス王国の騎士団長だ」

 黒髪の男性は決まり悪そうにへにゃりと破顔してみせた。

 自分の頬に熱い液体が降りかかった、最初は汗だと勘違いして手で拭った時に、視界が曇って見えなくなった。
 ――それを涙だと認識する前に、私はディランと目があって、ディランが口をあんぐりと開けていく様子を、今際の走馬灯のごとく他人事のように見ていた。

 もしかして今、私、汗をかいたんじゃなくて、泣いているの? 私は、涙が出ているの?

 私は、ディランの名前を聞いた瞬間に涙が止まらなくなった。そのことを遅れて理解しても、涙は止まらず、自分がなぜ泣いているのかもわからなかった。

「えっ!?」
「はっ?!」
「どうしたの!?」
 その時の三人はまさに兄弟と言った具合に波が伝わるように揃って狼狽えては顔を見合わせた。
「お前、こんなに可憐なおなごを泣かせるなんてどういうことだーー!?」
「ディラン兄、僕たちが来る前にこの子に何したの!!?」
「何もしてないし、何も言ってないぞ!!? そうだよな!? な!?」
「じゃあ何故、おなごが泣いている!? 正直ちょっと羨ましいぞ!」
「知らねーよ!! 何言ってんだお前ヴィシャス」

 今にも取っ組み合いの喧嘩が始まりそうになっていた騎士団の医務室は、「医務室ではお静かに!」という鋭い声が飛んでくるまでその混乱を収めることはできなかった。




 有り体に言ってしまえば、当時の私は記憶喪失だった。
 記憶喪失だが、自分の名前だけはかろうじてレナだと覚えており、生活に必要な文字の読み書きや家事雑事、魔物との戦闘といったことはこなせるけれど、今まで自分がどこでどうしていたのかがわからないという状態だった。

 落ち着いてディランの話を聞けば、ある日アレス王国の街中にポツンと弾き出されるように倒れていたのだという。すぐに近くで店を構えていた商人が騎士団の人間を呼び、騎士団の医務室で目を覚ました。
 止まらない涙に自分自身で困惑しながらも「とりあえずこれで涙を拭いて」と可愛らしい少年に差し出されたハンカチで涙を拭い、私は上記の話をして「どうして自分がここにいるのか、なぜ街中にいたのかは分からない」という話をした。

「じゃあなんで君は泣いていたんだ?」
「ちょっと! ヴィシャス兄……この子がまた泣き始めたらどうするんだよ」
「その時は俺が――」
 と知らないところで話が進んでいる中で、ディランがあっけらかんと言う。

「俺はお前のこと知らないし、どこかで会ったこともないと思うぞ」
「はい、私も記憶にないので確かではないのですが……えっ、やっぱりお互いに初対面?」
「じゃないか?」

 ディランは言い難いことでも必要だと感じたのならば真摯に伝える、という姿勢を持った人間なのだろう。
 彼は意外なほどあっけらかんと言外に「俺のせいで泣かせたわけじゃないし、何も悪くない」と伝えてきたので、それを理解するまでに少しぼうっとしてしまったが、そのおかげでより正確に情報を擦り合せる事が出来た。

 私は名前だけ覚えている記憶喪失の人間で、突然アレス王国に現れた。ディランとは初対面のはずなのに、なぜか彼の名前を聞いた時に泣いてしまった。


(にわか)には信じがたいが……何も覚えていないんじゃあ仕方ないよな」

 どこからどう見ても私が怪しい不審者で間違いはない。
 ディランは騎士団の人間として侵入者は厳正に対応する必要があったし、別におかしなことを根掘り葉掘り聞いたわけではない。
 どこかの国の間者(かんじゃ)が、潜り込んで都合よく身分を隠すために「私は記憶喪失で名前しか分からない」と言い訳をしたのかもしれない。けれども、実際に目の前にいる女は記憶喪失で路頭に迷っている心細い人間かもしれない。現時点では断定が難しいが、ひとまずは鵜呑みにして信頼させ、様子を見て、必要ならば情報を聞き出す。そんな彼の考えが詰まった一言だった。
 だからこそ、ディランの対応はとても紳士的で普通の対応だった。
 ここがアレスでなければ、医務室のベッドではなく牢で繋がれていたって文句は言えない。それが不法入国という罪であり、間者と思わしき人間への適切な対応である。
 幾分か手厚い対応に感謝こそすれ、非難するようなものはなかったはず……なのだが、

「お前がそんな言い方だから泣かせたんだろ」
「怖かったから泣いちゃったんだよね、分かるよ。僕もすっごく怖かったもん」
「おいお前ら、完全に面白がってるだろ」

 ヴィシャスとノエル。ディランの弟だと名乗った二人は明らかにその状況を楽しんでいた。
 ノエルの目には幾分かの警戒と緊張があったけれど、ヴィシャスは「なぜその場面に俺は立ち会ってないんだ」と嘆いた後に
「俺と会ったことはあっただろう?」
 と目を輝かせた。
「えっ? えっと……えっと……何も覚えていない、ので……」
「あったということにしないか?」
 ヴィシャスの話の意図が掴めず、混乱しているとディランが割り込んだ。

「いや、お前もうちょっと真面目に話をだな」
「――ちなみに、真面目に話すと俺にも彼女と会った記憶はない」
「……だろうな」
「……だろうとは思ってたよ」
「紛らわしいんだよお前、やめろ本当に」

 そうディランは怒って(というか大きなため息をついて)。ノエルは呆れた顔で近くの椅子に座ってから足をプラプラと遊ばせていた。


「えーー、話を元に戻すと。なんでも、あんたはアレスの街中で突然光と共に現れた。多分ルーンの光だろう……って目撃者の話だったけど、ルーンやソウルのことは分かるか?」
「はい、大丈夫です」

 ルーンとは私たちの生活に密接に関わる不思議な石のことである。
 ソウルと呼ばれる命の光、私たちの生命エネルギーのようなものを注ぐことで様々な効果を発揮する。ランプに使われるルーンならば光るし、水中で息が出来るようになるルーン、爆発するルーンと効果は数え切れないほどあり形や大きさも様々、それらのルーンを応用・利用することで私たちは生活を発展させてきた。

「つまり、あんたはなんかのルーンの力で突然アレスの街中に現れたんじゃないかっていうのが、俺たちの考えってことだ」

 本来、そのような国内への侵入は不可能だ。
 各国には魔物除けのルーンと並行し、魔法を使って国全体に結界を張るなどの防衛手段を講じている。(国家の防衛に関わることなので、ディランは明言こそ避けたものの)アレス王国にも同様に防衛の魔法や結界、ルーンがあると考えた方が自然だろう。というか普通はそうだ。
 そして、「なぜその防衛手段が機能しなかったのか」ということが国防の根幹に関わる可能性があるため、その手段を持っている可能性がある私をディランは――いや、アレス王国は非常に警戒しているのだ。どうしてそのような“国内への侵入者を許すという緊急事態が起きてしまったのか”ということを聞き出そうとしていた。

「それが……よく分からなくて。繰り返しになるんですが、本当にどうやって自分がそこにいたのか分からなくて」

 私が首をかしげながら話すと、シャラリと音が鳴ってピアスが揺れた。

「その……耳の石は? ルーンか?」

 ディランに指さしで「ほら、それ」と言われ、自分の耳にピアスがついていることに気がついた。

 触ってみると、大きさよりも明らかに軽く、無理に右下に目をやれば光を反射して宝石のように輝いていた。見た目よりも軽いことを加味するとこの石は普通の石ではなくルーンなのかもしれない。

「そうかもしれません」
「ちょっと試しに使って……いや危なすぎるか。ちょっと見せてもらってもいいか?」

 ルーンは生活利用から兵器利用まで用途が幅広いため、安易に何のルーンか分からない場合、使用するのは極めて危険が伴う。そのため、ディランはただ見せて欲しいとだけ伝えてきたのだ。

「なんだこれ……? 全く見覚えがないぞ」
「なんか裏側にルーンの使用説明書とか書いてあれば良かったんですけどね」
「だな」
 と彼は軽く笑ってから、隣にいたノエルに「僕も見せてもらっていいかな?」と声をかけられ了承した。
 ノエルも覚えがないらしく、ややくすんだ金具を見て「古いものに見えるけど…どうだろう? 年代とかまでは流石に調べてみないと分からないや」と呟いて私に返してくれた。

「ノエルさん、すごいですね。そんなことが分かるなんて……」
 みただけでも古いもので、自分の知識にはないと言うだけでもとても勉強が必要なことだと、私は思った。

「そうだろ! うちのノエルはすごいんだ。小さい頃から頭が良い奴なんだぜ。勿論、それだけじゃなくて」
「ちょっ、僕のことはいいから!」
 とノエルが制止するとディランはばつが悪そうに目を伏せてから、いたく真剣な表情で顔を上げた。
「なあ、悪いとは思ったんだが……実は、レナがここに運ばれてきた後、軽く身体検査させて貰ったんだ。あ、もちろん、女性の部下にやらせたぜ?」
「は、はい」
 そればかりは仕方ないだろう、爆弾を服の裏側に巻き付けていたとしたら……など周囲の安全のためにも身体検査は必要だ。
「でだ、危険そうなものは取り上げさせてもらった。剣、爆破のルーン、小刀……」
 爆破のルーンは世界的にも同じものが流通しているので見た目でそうだと判断したのだろう。
「……」
 私は元々武器を携帯していたらしい。
 確かに、この世界では整備された街を一歩出れば魔物がその辺りを歩いている。そういったどこにでもある危険性があるため護身用に小刀ぐらい誰でも持っているだろう。
 でも剣? 爆破のルーン?
 もしかすると私は冒険家や……騎士のような魔物と戦える人間だったのだろうか。

「でもそのピアスは分からなかったので取り上げなかった」
「はい」
「危険を承知の上でだが……そのルーン、俺がここで使ってみてもいいか?」
「えっ!」

 さっき彼自身がそう言ったように、正体不明のルーンはそこにあるだけでも危険だが……使用用途がわからないままソウルを流すことは使用者だけでなく周囲の人間も危険に晒すことになる。正体を明かす必要はあるかもしれないが、さらに危険な行動であることは間違いない。

「兄貴、そいつはちょっと危険すぎやしないか?」
 さっきまで「お前はちょっと黙ってろ」と部屋の隅に追いやられていたヴィシャスが大真面目な顔でディランの肩に手をかけた。

「やるなら俺がやる」
「いいや、俺がやる」
「いや僕が」

「あのな〜、危険なことを弟にやらせる兄貴がどこにいるんだ」

 そうディランが二人に告げると、二人は押し黙った。それが“アレス”のしきたりなのか、周囲にいる人間はそれ以上誰も口を出そうとはしなかった。二人を説得したディランは

「じゃあ、早速だが使わせてもらうぜ」
 と私に声をかけた。


 ……結果から告げると、厳重に結界を貼った中で使用されたルーンには何も起こらなかった。正確には、ディランがソウルを注ぐことで少しだけ輝いて見えたのだが、何も起こることはなく、ルーンは「何も起こらない謎のルーン」であること以上は分からなかった。

「う〜〜ん、結局あんたがどうしてアレスにいたのか、なんでいきなり現れたのか、あんたは何者なのか……何にも分からないのか」
「もしかしたら武器や服の流通先からわかるかもしれないよ。冒険家ギルドにもレナさんと特徴が一致する行方不明者がいないか、探して貰うのがいいんじゃないかな?」
「だな……それでいいか? レナ」
「はい、大丈夫です」
 ノエルとディランの提案に私は促されるまま頷いた。
 個人情報が手渡され、身ぐるみはがされてしまうが……背に腹は変えられない。
 私はどうも少額の金しか持っておらず、財布の中の貨幣から国や地域を割り出すことも出来なかったらしい。

 行方不明者の中に私がいなければ……私は、戸籍も何もないどこにいればいいのかも分からない人間になってしまうのだ。


 そしてその悲しい予想は少なからず的中することになった。




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Atorium