彼が目覚めたそこは、見たことのない実験室だった。
横に目をやると、理科室で瓶詰めにされたいきもののように、何かの液体に浮いている白髪の男がいた。
状況がわからなかった。
ここはどこだろう、思い出すこともできず、そもそもどうしてここにいるのかも、彼はわからなかった。
どこからかやってきたのか、はたまた元々ここにいたのか。それすらもわからない。
手も足も動く、目玉も動かせる。
よくよく確認すると、自分は横にいる男と同じように何かの液体に浮かんでいるらしい。
水よりもサラサラとしていて重さを感じさせない。
ぞっと寒気がした。
前をよく見ると、黒い壁には光がせわしなく点滅している。
扉が開いて、白衣をきた男が自分を見てこういった。
『No.2、時間だ。出ろ』
男がそう――ドイツ語で――言うと、自分の体が外に投げ出され、数人に取り囲まれて無理やり連れて行かれた。
これ以上、詳しくいうことは遠慮しておこう。
彼はあらゆる精神的な拷問を受け、様々な薬を注射された。
日々を過ごす過程で、気がついたことがある。
自分は「どんなに硬いものでも破壊することができる」能力を持っている、ということだ。
そしてもうひとつ、この組織は自分たちのことを「G.G.」と呼んでいた。
白衣の研究者たちは、彼のような能力は持っていないらしい。しかしNo.1と呼ばれた――白髪で右目が金、左目が青のオッドアイを持つ――男はまた違う能力を持っているようだ。そんな話を小耳に挟むことがあった。
その能力を持つ彼を制御するために、様々な拷問が施され精神安定剤が注射されていたと、後に推測をたてた。
***
彼はそれでもあることを覚えていた。
自分には妻と幼い娘がいたことを。
しかし名前も顔も思い出せなかった、とにかく死ぬものかと生にしがみついた。
あるとき、転機が訪れた。
彼の横で「No.3」と呼ばれていた男が能力を暴走させ、研究施設の全ての警備システムがダウンしたのだ。
彼は必死に逃げた、逃げて逃げて逃げて何日間も走り続けた。
ふっとどこかで倒れ、彼の意識は途切れた。
***
『気がつきましたか。貴方は外で倒れていたんですよ?』
『貴方は……?』
白く長い服を身にまとったフランス人の老人はそう――英語で――彼に優しく話しかけた。彼は老人を睨みつけた。
まず組織の人間かと疑ったが、彼にとってはそれでも構わないと感じた。
殺せばいい、すぐに殺せる。そう考えたのだ。
***
老人は神父という神に仕える職業だと教えてくれた。ここは神という存在に祈りを捧げる神聖な場所――教会――だと教えてくれた。いくらかの修道女とともに彼は神父の世話になった。
行く宛がなかった彼を神父は養い、仕事を教え、神の言葉を教えてくれた。
聖書の言葉が彼にはいくらか慰めになった。
あるとき彼は、神父にこう尋ねた。
『俺は何も持っていないし、追われている。そんな俺を匿っても貴方にはなんの得もない。貴方はなぜ俺を匿ってくれるのか』
『私は、主の御心のままに行動しています。貴方も神に望まれてこの世に生まれ、神のご意思でここに導かれたのです』
彼には神父の言葉の意味がよく分からなかったが、とにかくここにいても構わないということかと解釈した。
「G.G.」の人間は追ってこない、そこまで心配しなくてもいいのかもしれないと彼は思い始めた。
彼のことを神父は「ディオニュシウス」と呼んだ。彼が自らの名前を「2(デュオ)」と呼んだからだ。
記憶が混同しており名前を忘れていて、本来は「ディオニュシウス」ではないかと推測してくれた。
彼は悩んでいた、妻と娘のことを覚えているのに名前も顔も、どこに住んでいるのかも何も手がかりがない。
自分は必死に生きてきたが、これからはなんのために生きるのかと心に穴が空いている事に気がついたのだ。
***
街に買い出しに行ったある日、彼は倒れている子供を見つけた。
しかし、助けるすべを知らなかった彼はその子供を教会へ連れ帰った。
『神父様、この子供、目を開けないのです』
『すぐにお医者様を呼びましょう』
教会へやってきた医者は栄養失調だと診断した。彼は心が重たくもたげていることに気がついた。
どうしようもなく、彼は神の御前に座っていた。悩み事があるとそうするといいと神父に教わったからだ。
そう座っているうちに、隣に神父がそっと腰掛けた。
『何か悩みごとがあるんですか』
『はい。俺はどうすればいいのか分からないのです』
彼は自分の顔も名前もわからない娘と、先ほどの子供を重ねていた。
栄養失調で倒れる子供たちは後を絶たないと神父が教えてくれた。
『俺はどうしたらいいんでしょうか』
『自分の使命について悩んでいるのであれば、神がもっともよいように取り計らってくださいます。何も心配することはありません』
その言葉を聞いて、彼は決断した。
『神父様、俺はすべてのものを壊す恐ろしい力を持っています。その力を子供たちのために使いたいのです。子供たちを助けるために使いたいのです』
『貴方はすべきことを見つけたのですね。私にできることなら協力します』
『はい!』