そう言い放ち、スーシェンは何もかも嫌になって、舌を噛み切って死ぬ決意をして、大きく口を開けた。そうすると、男が異常を察したのか、スーシェンが舌を噛み切ってしまわないように、自分の手をスーシェンの口内に突っ込んだ。舌を噛み切るつもりだったスーシェンの歯を受け止めたのは、男の手だった。
口の中で自分のものではない鉄の味が、じわりじわりと広がって、スーシェンは慌てて男から離れた。
『ゲホゲホッ……何して……』
『それはこっちのセリフだ!! お前、何考えてるんだ! いいかげんにしろ!』
彼はそう言うと、スーシェンの方にずかずかと歩み寄り、スーシェンの頭に付けられていた脳波を測定する器具や、場所を特定する器具を次々と外して行った。
『はっ……? あなた、本当に何して……』
男はスーシェンの向きを変え、自分と向かい合うようにした後、スーシェンの両肩を手でがっしりと掴んだ。
『逃げよう。こんな場所から、逃げるんだ』
『は?』
『こんなところにいちゃ、お前はだめになる』
『いやだから、えっと』
『だから、逃げよう。ここから二人で』
男はそう言うと、スーシェンの手を強引に引っ張って、走りだした。
***
『俺さ、故郷に妹がいるんだ。どうしても金が欲しくて、この組織で働かせてもらうことになって……最初は知らなかったんだが、やっぱりここは……』
こんな好青年がなぜ裏の組織にいるのかというスーシェンの疑問はこうしてあっけなく解決された。走りながらも、二人は会話を続けた。
『これで、僕を助けた理由が自分の妹に似てたから、とかだったら怒るよ』
『え? どうしてわかったんだ?』
カメラの死角を通りぬけ、彼に朗らかに、抑えめな声で笑われてしまえば、スーシェンはそれ以上怒ることも追求することも出来なかった。彼がどうしてスーシェンを人間のように扱うかだとか、裏があるのではないのかだとか。そういった小難しい問題は全て解決してしまったように思えた。
彼は元来お人好しなのだ。それも、救えないほどに。
だから、逃げるだとか、そんな愚かなことが言えてしまうのだ。成り行きで二人逃げているのだが、よくもまあ命を投げ出せるものだ。彼は絶対に馬鹿だ。スーシェンはそんなことを考える。自分は一度命を捨てた身だから、もうどうでもよいのだが、彼は妹がいるはずだ。自殺願望があるとは思えない。本気で生き延びれると、逃げきれると考えているのだろうか。
『あなたって……馬鹿だね』
『ああそうだな。馬鹿だ』
自分の行いが愚行と知りながらも、彼は立ち止まらない。どうやら、呆れてしまうほど本当に、お人好しらしい。スーシェンは能力を継続発動させながら、追っ手から逃げていく。能力のために、扉やカメラの位置も分かるため、スムーズに逃げていく事ができる。
***
もう五メートル、この廊下を走り抜ければ外に出られる。そんな時に、ありがちでどこででも繰り返されたようなことが起こった。
神様は、残酷だった。
後ろにも十分注意していたつもりだったが、ほんの少し、ほんの少し気が緩んだせいで、後方の物陰に敵が潜んでいることに気が付かなかった。
バン、という無機質な音がしたと思い振り返れば、やや後ろを走っていた人物が鮮血を出して地に伏せていた。銃で撃ち殺されたのだ。
スーシェンはその場で立ち止まり、口が開いたまま塞がらない。頭が動かない、真っ白なままで思考が停止していた。嘘だ、そんな馬鹿な、嘘だ。喉が乾いて、呼吸が速くなる。まともに酸素も吸えないような状態で、スーシェンは男を見つめ、彼の安否を確認する。
『No.4の狙撃に失敗。繰り返す、No.4の狙撃に失敗』
狙撃手のものだと思われる声が、放送で命がない静かな廊下響き渡る。
スーシェンはその放送で分かってしまった。いや、ずっとずっとそんな気はしていたのに、こうなることもどこかで予想していたはずなのに、それなのに、彼は目の前で、自分のせいで死なせてしまった。
スーシェンは悔しさのあまり、唇を噛み締めて、血が滲んだ。すると、狙撃された男が意識を取り戻したのか、血を吐いた。その血の量から、彼はもう助からないのだとスーシェンは察してしまった。
『早くいけ、先に行け、逃げろ……!』
『え……いや……あの、でも……あなたが』
『お前だけでもいいから、早く逃げろって言ってるんだ!!』
そうだ。彼は自分のために命の危険をおかしたのだ、自分がここで死んでしまっては意味が無い。
スーシェンは腹をくくると、彼を床において、出口に向かって走りだした。
『ごめんなさい……ありがとう』