泡沫の泡

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(馬鹿だなあ、私)
 少女は崩れ落ちました、足から、がくりと。
 まるで糸が切れた人形のように、がくりと。
(馬鹿だなぁ……あはは)
 少女は心のなかでそうつぶやいて、笑いました。
 目の前にいるあの人は、どうも起きないようです。きっと連日、結婚式の打ち合わせを熱心にしていたからでしょう。
 そう結論づけて、少女はまたうつむいてしまいました。
 いつだったか、自分の容姿を熱心に褒めてくれた海の住人がいました。
 海でもその美貌を噂される七人の人魚姫、少女はその末妹。
 海上からの光を受けてきらきらと輝く髪、真珠のように透き通った肌、深海の宝石のような瞳。そして彼女は誰もを惹きつけてやまない美しい声を持っていた。そう、持っていたのです。
 持っていた短剣がするりと腕から抜け落ちて、床にあたってからんと音を立てました。
 この短剣は彼女の姉が彼女に渡したもの。
『その短剣で、あの王子を刺し殺すの。そうしなければ貴方は泡になって消えてしまうわ。ねえ、また一緒に海の中で暮らしましょう? 楽しく楽しく、暮らしましょう?』
(ごめんなさい、お姉さま。お姉さまの美しい髪と引き替えだったのに)
 彼女は悲しみのあまりうつむきました。ぽろり、ぽろりと涙を流しました。
 そして頭から湧き水のように、記憶が蘇ってきました。
 彼女が、自分の祖母を訪ねた時のことです。彼女の祖母は、人の命は短く、人魚のほうが長い命を生きていけるのだ。と誇らしげに人魚のすばらしさを教えてくれました。
(お祖母さま、私やっぱり、人になってよかった)
 彼女は自分の足に視線を落としました。
 人魚の尾ひれと引き換えに、人間の足を手に入れたけれど、鈍い痛みが彼女を苦しめました。
 あの人に会うために、歩くたび、痛くて痛くて。彼女はそれを悟られないよう、必死に努めました。
 王子さまはとてもとても彼女をかわいがってくれました。時分の妹のように大切にしてくれました。
 彼女はほんとうに嬉しくて……でも、王子さまは彼女の気持ちに、彼女こそが彼の命の恩人であることに気が付きませんでした。
 声が届けば、彼女はきっと唄ったでしょう。届け、届けと。
 でもそれはできません。
 彼女はいつも笑っていました、地上に輝く花のように、笑っていました。
 足は痛くても、大切な人に振り向いてもらえなくても、彼女は笑っていました。
 だって彼女は誰よりも幸せだったから。
 人魚としての長い生を生きることより、彼女は刹那の時を人として過ごすことを選びました。
 大切な人のそばに、居たかったから。
 結ばれなければ、泡になってしまうと知っていても、彼女の決心は揺るぎませんでした。
 王子さまが、彼女以外の人間と、結婚を決めたとき彼女の胸は張り裂けそうなほどに痛みました。
 王子さまと結婚したいのは、私です。
 彼女はそう、彼に伝える術をもちません、伝えることはできません。
 けれど、彼女は彼を責めませんでした。
 結婚すると言われたときも、彼女は朗らかに笑いました。彼もそれを見て安心したように笑いました。
(私、ずっと幸せだったの、幸せだったのよ。そんなことを言っては、お姉さまを驚かせてしまうかしら?)
 だって、一時でも大好きで愛おしい彼のそばにいることができたから。
 きっと、人魚であったなら、それは無理だったでしょう。
 けれど、人になったから彼女は彼のそばにいることが出来ました。
 彼の何気ない話を聞いては笑いました、彼の寝顔を見て可愛いなと彼女は笑いました。
 彼女は誰よりも幸せでした。
 ***
 王子さまは目を覚ますと、部屋の床に短剣が落ちているのを見つけました。
 短剣を拾い上げた彼は、なんだか嫌な予感がして、彼女を探しに走りだしました。
 けれど、彼女はやってきた時と同じように、どこにもいませんでした。
 まるで最初からいなかったかのように、すっかりと姿を消してしまったのでした。
 ***
 深海は今日もお魚たちの楽園、海上からはきらきらと光が差し込みます。
 その光を受けてふわふわ、漂いながら、光る泡。
 まるで、とても幸せそうに笑う、彼女のようでした。



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