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――月――日
あれから何日経ったのだろう。確証は無いけれど、なんとなく数日は寝過ごしたような気がする。それどころか・・・まるで一生分寝たような、酷く気怠い体を起こした。
医務室には誰もいない。窓の外は明るく、時計は昼過ぎを示していた。皆、だいたいランチを食べ終わった頃だろうか。
それだけ考えた時、ぽたぽたと何かが布団に落ちる音がした。違和感に気が付き右手で顔を触ると、何故か私の両目から涙が流れている。なんだこれ。
それと同時に、左手に痛み。目線を下げてからようやくそこに巻かれている包帯に気が付いた。腕が持ち上がらないうえに、指も上手に動かせない。そっか、私は怪我をしたのだ。私は怪我を・・・。
これは、どんな怪我だったっけ・・・。
一瞬分からなくなってから、だんだんと眠る前の記憶を思い出した。そうだ、私はあの日スタンを怒らせて・・・その翌日に分かりやすく熱が出て。それから、銃の点検を怠ったおかげでオオカミに左手を・・・。
頭が動かない。視界もなんだかぼんやりしてるし・・・起きたばかりで強烈な眠気。このまま寝てしまおうかとも思うが、それよりも喉が乾いて仕方がなかった。痛む体に鞭打って、ベッドから下りた。
ランチが済めば、全員作業に戻る時間だ。廊下には人影がない。理由もなく未だに溢れてくる涙を拭いながら、壁伝いをゆっくり歩いた。意識が朦朧としていて、少し気を抜けばすぐに倒れてしまいそう。そして、目的地に着く直前、靴を履くのをすっかり忘れていたことに気づく。
やけに足が冷たいと思った。私ってこんなにボケてたっけ。・・・まあいいか、わざわざ戻るのも面倒だ。気にせずそのまま中に入った。
「ナマエ」
ほとんど目を閉じてたどたどしい足取りで歩いていたから、その小さな声は鼓膜に届かなかった。そこにいる人物が、これでもかというほど目を見開いて私を凝視してくるのも視界に入らず、まっすぐ奥の調理場へ向かう。
そこにいた仲良しのチームメイトに小さな声で「水が飲みたいの」と告げると、彼女は私の涙にギョッとしながらも、慌ててコップに水を汲んでくれた。
「・・・ほ、ほら!」
「ありがとう」
ごくごくと一瞬でそれを飲み切るが、まだ足りない。もう一度お願いすると、彼女はすぐにコップを受け取る。まるで単純作業のように水を飲み続ける私。
「ナマエ・・・おま、大丈夫かよ・・・?」
「うん」
「・・・ま、まだ顔赤いよ、ほら」
「うん」
「なあ、座った方がいいんじゃ・・・、あ」
彼女の言葉が不自然に途切れたかと思ったら、後ろからぐいと腕を引っ張られた。左腕は包帯がぐるぐる巻きなので、必然的に右腕を。驚いてするりと滑り落ちたコップが、床に当たって割れた。その音が一瞬で周囲の音をかき消してして、ぶちまかれた冷たい水が素足に直接まとまりついてくる。
「・・・ナマエ!」
大好きな彼の声がした。
それまでなんとか重心を保ってギリギリのところで立っていた私の体は、腕を引かれたことによって簡単にバランスを崩す。しかし、その場に崩れ落ちそうになるのを、すかさず彼が支えてくれた。
ぱちくり。彼の手によって立たされると、数回瞬きを繰り返した。背をかがめた愛しい彼が私の顔を覗き込んでくるが、視界がぼやけてよく見えない。スタンもまた私の涙にギョッとして、もう一度名前を呼んだ。そんな反応をされても、私もなんで自分が泣いているのか分からないのだ。見つめないでほしい。
「・・・それ、片せ。あとゼノ呼んでこい」
黙って様子を見続けていた部下に、スタンは乱暴に吐き捨て、目配せした。いや、私が落としたコップだし、私がやらなきゃ。そう思ってスタンの手を振り払うが、有無を言わさず腕を引かれて、そのまま医務室に連れ戻されてしまう。
ああ、彼女にはあとでお礼を言わないと。それから・・・あの時、精神がギリギリだったとはいえ、ナイフを向けてしまったことへの謝罪も。
彼は感染症にかからない絶対的な自信があるのだろうか。当たり前のように扉を開けて中に入ると、私をベッドのへりに座らせて額と首筋に手を当てた。冷たい。ちょっと気持ちいい。
「・・・全然熱下がってねぇし。・・・あ?てか、なんで裸足?」
それは私も疑問だった。その小さな呟きに心の中で頷いていたら、彼は汚れた足をタオルで拭き始める。
そういえば、煙草を咥えていない。さすがにここが医務室だからだろうか。静かな部屋でぼんやりと考えながら、口を開いた。
「スタン、本当にごめんなさい・・・全部私が悪かった」
黙々と手を動かしていた彼は、その言葉に動きを止めて私を見上げた。
眠っている間、私はずっとこれを言おうと思っていたのだ。あの時の発言のこと。熱を隠していたこと。銃のこと。全部全部ごめんなさい。私が怪我をしたのは、全て私のせいだ。
寝起きで芯のない声。未だに続く熱のせいで掠れてもいる。とても軍人のそれとは思えない。だが、彼は何も言わずに私の言葉を待っていた。重たい頭を働かせながら、続きを紡ぐ。
「心配かけてごめんなさい。あと、迷惑もたくさんかけた。スタンだけじゃなくて、他の皆にも」
スタンはまだ何も言わない。でも、優しい顔。部下にもその顔で接したらいいのに。場違いにもそんなことを思う私に、彼は顔に手を伸ばしてそっと涙をぬぐう。
その優しい手つきにもっともっと罪悪感に苛まれて、もう一度しっかりと謝った。彼の部下として。まっすぐ彼を見据えて。
「この前のあの発言を撤回させて。本当に申し訳ありませんでした」
そして、あの時彼が言った言葉を。
「もう、なかったことにするから」
「・・・ナマエ」
「もう全部、全部、これまでのこと・・・全部なかったことにするから。私が言ったことも全部、取り消す。それで許して」
「ナマエ、違う」
「ちがう、そう、ちがうね。許されないことだよね・・・許してくれなくていいから、もう全部全部なかったことにして」
スタンとの関係も全部、なかったことに。
必死に口を動かすうちに、先程までとは比べ物にならないほど大量の涙が両目からこぼれ落ちてきた。それはあっという間に彼の両手をびしょびしょに濡らし、次々にしたたり落ちていく。
そっか。そっか。ようやく分かった。私はこの時のために泣いていたんだ。目覚めた時から、この時が来ることを恐れて泣いていた。スタンにごめんなさいをしたあと、あの時スタンに言われた通り『全てをなかったことにする』この瞬間が、どうしようもなく怖かった。
「違う、ナマエ。そうじゃねぇ」
これまでに類を見ない大号泣。慣れない自分に大きく息を吸い込むが、それを素早く吐き出してしまい、どんどん呼吸のペースが早まっていく。普通の呼吸ができない。苦しい。やばい、過呼吸。スタンはすかさず新しいタオルで口元を塞いだ。
彼の手の上から口を押さえて肩を揺らす。情けないなあ、自分。スタンは背中をさすりながら、私に言い聞かせた。
「俺はあん時『全部なかったことに』なんて言ってねぇ。絶対に。全部ナマエの思い違いだ」
そんなの嘘だ。
「何もなかった。あの日、お前は何も言ってねぇし、俺も何も聞いてねぇ。な?何もなかったろ?ほら、頭冷やせ」
あからさまな嘘。彼はあの時の会話を全てなかったことにするらしい。私情を挟んで帳消しにするなんて、軍の隊長として有るまじき行為だ。でも今の私は頭が働かないので、そうだったかも、なんて思い始めた。単純な思考だ。なんだ、私は勘違いしてたんだ。
・・・そっか。それならいいの。だって私、スタンのことをなかったことになんてできないから。
しばらく時間が経つと、段々と落ち着いてきた。涙も治まってきた。鼻をかむ恥ずかしい顔を、スタンはただじっと見守っているだけ。・・・私は今一番気になっていることを尋ねてみた。
「ねえ、今日って何日?」
キョトンとする彼。
「もしかして・・・年明けた?」
「いや、25日だ・・・もちろん12月の」
あれ、そんなもんか。てっきり年は変わってると思っていたのに・・・私が気を失ってから、二日かそこらしか経っていなかったのか。
ていうか!私は重大な事実に気がついてしまった。それとは正反対に、質問の意図が掴めていないスタン。なんというか・・・まだ現実味がないふわふわな意識でも、私の心は嬉しい気持ちでいっぱいになった。ここは天国なのだろうか。
「・・・良かった。クリスマス、楽しみにしてたの」
そう言って控えめに笑うと、スタンは途端に綺麗な顔をゆがめて強く強く抱きしめてきた。何度も名前を呼びながら、頭と背中それぞれに回した腕に力を込める。
怪我人にも容赦ない抱擁。そのまま彼が立ち上がるから、私の体も一緒に持ち上がった。
「ったく、ナマエ・・・お前はッ・・・!」
前のめりになる彼の体重と共に、スタンのとてつもなく巨大な想いがごちゃごちゃになりながらのしかかってくる。顔面を彼の肩に押し付けられながら、私はじっと受け止めた。
やっぱりここは天国じゃなくて現実だったみたい。だって、体のところどころが痛いし、それとは比べ物にならないほど左腕に激痛が走っている。
でも、そんなこと今は考えてはいけない。彼に伝えたいことを伝えられたからか、はたまた目的だった水分補給を少ない量でも達成できたからか、もともとギリギリだった私の体はそのまま意識を手放した。
+
「スタン、それはいけない」
唇と唇の間にゼノの爪が挟まった。
「唇同士なんて濃厚接触でしかない。何度言えば分かってくれるんだ、君は」
「・・・邪魔すんなって」
「フ」
当然過ぎる指摘にのっそりと上半身を起こすと、ゼノは俺の表情を見て思いっきり鼻で笑った。笑うんじゃねえよ。
12月25日
一応、クリスマス。こんな世界では・・・あまり実感が湧かないイベントだ。
今はいつの間にか意識を飛ばしていたナマエをもう一度ベッドに寝かせたところ。
病人にキスをするなどという暴挙に出ようとした俺を、ゼノはしっかりと注意してから彼女の様子を観察する。
「僕はやれるだけ手を尽くしたが・・・まだ潜伏期間の真っ最中なんだ、決して安心はできないよ」
「分かってんよ」
「本当かい?スタンにまで移されたら、僕には手に追えないよ。・・・うん、大丈夫そうだ。何もないね」
彼女に特に変わったところがないと分かれば、ゼノは俺を引き連れて医務室を出た。名残惜しいが仕方ない。最後に手にキスをするのを許してくれただけ彼は優しい。どうしようもなく。
「にしても、僕はナマエが目覚めたと聞いてここにやって来たというのに・・・ぐっすりと眠っているじゃあないか」
「なんか知んねぇけど、起きてすぐぶっ倒れたんよ」
「そのようだね。部屋の外からずっと様子を窺っていたよ」
「・・・・・・」
「しかし、まずは目覚めたことに喜ばなければな。ただでさえこの高熱だ。もしかしたらあのまま・・・・・・いや、よそう」
俺に気遣ったのだろう、ゼノは途中で言葉を区切った。ああ、その通りだ。起きてくれて良かったよ。この二日間、とても生きた心地がしなかった。
「ところで、ナマエを襲ったと思われるオオカミの検死が済んだ。やはり僕の専門では無いので手こずったが・・・」
それ、確か昨日聞いた気がする。ゼノが当たり前のように言うので、俺の思い違いだったか?と頭を捻る。
「安心していい、あれは狂犬病などは持っていなかったよ。他の感染症には今後も注意しなければならないがね」
それも、昨日聞いたな。一字一句同じ言葉だった。その頃俺は誰とも口を聞かず、それどころか死んでも話しかけんなオーラを振りまいていたから、話なんか聞いちゃいないと思ったのかもしれない。
ゼノは俺と同様に、あの日からほとんど寝ずにナマエを診てくれていた。感謝しなければ。本当に。
「あ・・・、スタンリー!」
その声に顔を上げると、廊下の向こうからルーナとその取り巻きが全力で走ってくるのが見えた。なんだなんだ。
驚く間もなく・・・特にルーナは一瞬でここまで飛んできて、俺にすがりついてきた。
「スタンリー!ねえ、ナマエが起きたって聞いたの!それって本当!?」
「・・・ああ、さっき。今はもうさっさと寝ちまったが」
「そっかぁ、良かったぁ、あたし、ずっとずっと心配で・・・」
やけに声が震えているかと思えば、ルーナは思いっきり泣いていた。おい、お前もかよ。さっきナマエので見飽きたんだが。俺の服をガシィと掴んで、そのまま腹に顔面を押し付けてくるルーナ。隣のゼノに助けを求めると、奴はただ苦笑いをするだけだった。おいテメェ。
遅れてやってきた男二人になんとかしろと無言の圧力をかけると、彼らはすぐに引き剥がしてくれた。ったく、年下の奴らにも好かれやがってあの野郎。
「ゼノ、あいつ完治したら言え。とことん詰める」
「・・・ほどほどにな」
「何言ってんよ。フルマラ敢行は堅いね。コーン畑死ぬまで走らせてやんぜ」
「君は部下には手厳しいよな」
「まあね。・・・あと、」
一生分の愛してるを伝えてやる。そういえば、さっきこれを言うのをすっかり忘れていた。ナマエが起きたらまず一番に言うつもりだったのにな。
中途半端なところで口を閉じると、ゼノは不思議そうに聞き返してきた。
「あと、なんだい?」
「・・・いや、なんもねぇ」
こんなことを改めて言うのはなんだか気恥しかった。ので、さっき言いかけたのはなかったことにした。