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遠いところで血が繋がっているとはいえ、その関係は他人くらい薄っぺらなものだった。両親が事故で死んでいなければ、おそらくは一生関わることがなかったその親戚は、突然一人になった私に対して親身になって尽くしてくれたわけじゃないけど……それでも食べるものと住む場所を与えてくれて、最低限のお小遣いをくれた。
会話なんて滅多にない。食事も別の時間。年齢は私より一回りは上だと思う。コレクターみたいだけど、私が入れる部屋は限られていたから何を集めていたのかは分からない。あの人は自分のことは何も語らなかった。でも決まって深夜にどこかに出かけていくから、なんとなく危ない仕事をしているんじゃないかとか、意味もなくそんな妄想をしていた。
住まわせてもらっているのに大学まで行かせてもらうのは忍びなかったから、進学はしなかった。やりたいこともなかったし。この膨大な時間にバイトをしてたくさんお金を貯めたから、そろそろ自立するつもりだった。
そしたらこれまで世話になった分のお金を返して、お礼もして……。他人みたいな仮の家族だけど、恩返しをしたいと思うくらいには良くしてくれた。この家を出て行くのを少しためらうくらい、居心地が良かった。だって、あの人は私が風邪を引いて寝込んだ時に布団をかけ直してくれた。私が作っておいたシチューが朝無くなっていたこともあった。
「ただいま」と言ったら、いつも静かな声で「おかえり」と返してくれた。
たったそれだけの短い会話が、私の人生の中で唯一温かい瞬間だったのに。それを失くした今、恨みくらい抱けばいいのに、私の中に残ったのは何故かそういう類いの感情ではなく。呆然と、虚無感と、今後の人生に対する脱力感。おそらく私の命は長くない。何故ならあの目付きの鋭い殺人鬼に目をつけられてしまったから。
どうしてあの場で殺されなかったのか、いくら考えても答えが見つからない。あの時彼が何を考えていたのか、私にはちっとも分からない。何故私があの時犯されたのか、私にはちっとも。お酒でも飲んでいたならまだ理解のしようがあるけれど、彼はどこからどう見てもシラフだった。いや、そういう人がそういう行為に及ぶことに、いちいち理由なんて見出しても仕方がないのかもしれない。
ごちゃごちゃ考えるのが面倒になって、数日たった今日、遂に死のうかな……と思い始めた。どうせ私はあの殺人鬼に殺されることになるんだし。そんな私の心情などつゆ知らず、一方的に愛をくれる恋人は今日もいい笑顔で私のことを抱き締めて、私に向かって拳を振り上げる。
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家は燃えていた。人が死んだ家で寝泊まりするのは、その日精神的に来ていたのもあってさすがに遠慮したくて、とりあえずコンビニで物理的に明るい夜を過ごしたのち、おそるおそる家に帰ったら燃えていた。
「あ、忘れもんすんなよ。金とか」
家を出る前、あの殺人鬼が言っていた本当の意味がわかった。人を殺すような人に気遣いをされることに違和感を覚えていたが、あれは単なる事務的な報告だったのだ。もうここには帰って来れない。『お別れ』とは、この家のことを指していた。
既に消防や警察が到着していたが、彼らと関わるのは面倒だったから、私はすぐにその場から逃げてスマホは即座に電源を切った。これで誰からの電話も出なくて済む。
お金はあるから、とりあえず格安ホテルで数日過ごした。バイトは全部ドタキャンした。多分もう行くことは無い。もしこの近所に親しい人がいたのなら、寝床を借りるくらいは出来たかもしれないのに。
無性に地元に帰りたくなった。かつて両親と一緒に住んでいた場所だ。そこならきっと、引っ越す前にそこそこ仲良くしてしていたクラスメイトや近所のおばさんが今もまだ住んでいる。帰りたい。でも、それは叶わない。いくつかのバイト先ともう一つ、私のスマホに登録されているその連絡先から電話がかかってきたら、私はすぐに彼の元に向かわなければならないから。
「あ、やば。電源切ってた」
久しぶりにスマホの電源をつけたら、案の定信じられない数の不在着信とメッセージの到着を知らせる表示が出てきた。最近眠れておらず、ぼんやりした頭でメッセージアプリを開く。やけに優しくて私を心配するような丁寧な文章が、むしろ目に痛くて頭痛を引き起こした。
ああ、死のうかな……たぶんこの状態になった彼と会うより、このまま死んだ方が圧倒的に楽だ。そろそろ限界だと思っていた。丁度彼を殺すために用意していた危ない薬も手元にあることだし、これを一気飲みすればおそらく今すぐにでも旅立てる。
今まで悪いことを企んだ経験があるのは否定しないけど、でもその悪いことを実行したことがあるわけじゃない。それなのに、なんとなく天国には行けないような気がする。
それはどうしてだろう。誰か私を天国に連れて行ってくれないだろうか。はあ、そんな親切な人がこの世のどこにいるっていうんだ。だって天使がいるのは天国だ。現実にいるのはいい笑顔をした悪魔だけ。
「ひ、久しぶり」
重い腰をあげて指示された待ち合わせ場所に向かったら、久々に見た彼はいつもと同じ笑顔で私を抱き締めてくれた。そう、第一印象は優しかったんだけどね、それはただの仮面でしかない。かなり怒っている。なんとなく分かる。それなりの期間一緒にいたから。そりゃあ数日無視し続けたらこうなるよ。普段からすぐに返事しろと、しつこいくらい言われているのに。
「ごめんね、すぐに返せなくて。謝るから、ごめんなさい、ごめん」
私の家が燃えたことは知っているらしいが、それはどういうわけか彼からの連絡を無視して良い言い訳にはならなかった。理由が不十分らしい。
基準が分からない。私の恋人は思考回路がおかしいのだ。だったら、唯一の血縁を殺した殺人鬼にレイプされたとまで言ったら許してくれるのだろうか。あはは、笑えない。
一人暮らしをしている彼のアパートに到着してすぐ、色々と心の準備をするために「シャワーを浴びたい」と言ったら、彼も着いてきた。心の準備をする隙を与えてくれないストイックな恋人だ。
しかしシャワーを浴びるより前に彼の顔色が豹変した。リビングで上半身を脱いだ時、急に首を絞められたのだ。
「ぁ、……っな、に」
いつにも増して急に態度を変えるから、何かと思えば私の首筋の裏に見覚えのない赤い跡があるらしい。赤い跡って、何。ああ、キスマークか。は?
鏡で見えない位置に付けられており、指摘されるまで気が付かなかった。彼はこれを見つけてしまったから、急に態度を。
壁に押し付けられ、首を絞められながら納得した。浮気だと疑われている。でもこんなの浮気だと疑われても仕方がない。最近連絡が取れなかっただけで疑わしいのに、キスマークまで見せられたら決定的である。誰だって怒る。
あの男が、やったのか。
いや、本当に何を考えているの?
なんとか言い訳を試みたが、彼にはもう言葉は通じなかった。ていうか首を一度強く締められたせいでろくな声が出せなくなった。引き裂くような勢いで身ぐるみを剥がされ、口の中に問答無用で突っ込まれた。ただでさえ息が出来ないのに、その上さらに首を絞めようとするから、苦しくて苦しくて涙が溢れてきた。
濡れていないのに、無理やり押し込んでくるから痛かった。痛いと言ったら殴られた。抵抗したら暴言を吐かれながら殴られた。両手を押し付けられて抵抗する術をなくしたら、私はもう必死に口を閉じて涙を流すことしかできない。痛いのに動くのを止めない。
ああ、これじゃあこの前の殺人鬼の方がまだマシだ。彼は体を優しく扱ってくれた。なにこれ、何と比べているんだ、私は。でも、でも、聞いて。あの時はこんな風に殴られたりしなかった。それに、ちゃんと手順を踏んで丁寧に進めてくれた。暴言を吐かれなかったし、私に触れる手つきは殺人鬼なのに優しくて……レイプされていると分かっているのに、気持ちよかった。
涙でぐちゃぐちゃになりながら、感動すら覚えた。暴力があるかないかだけでこんなに違うのか。この人としか経験がなかったから知らなかった。ねぇ、どうして?意味がわからない。住む場所をくれたあの人じゃなくて、こっちを殺してくれたら良かったのに。今更ながら怨念の気持ちが湧き上がってきた。落とし前をつけてほしい。今こんなことになってるのは、あなたが私の首に残した余計な跡のせいなんだから。
いい加減地獄から抜け出したい。
誰か私を天国に連れて行って。
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「よぉ、久しぶり」
その時、突然聞こえてきた声に心臓が止まるかと思った。
唐突に現れたその男は、何食わぬ顔で玄関から入ってきて、リビングに顔を出した。その整い過ぎた顔面を忘れるはずがない。私の親戚を殺した張本人だ。
いきなり知らない男が乱入するという意味不明な状況に、さすがに彼も心底困惑している様子だ。私の中から出て行くと同時に怒り出した。こいつは誰だ?浮気相手か?そう叫びたくなる気持ちはわかるけど、私の方が混乱している。だって、元凶がやってくるなんて夢にも思わない。
「いや、単に街で見かけてさ。着けてきた」
相変わらず何を言っているのか分からない。困惑している私たちを前にして、殺人鬼はまるでタバコでも取り出すような軽い動作で服の中からナイフを取り出した。
ようやく異常事態を認識した彼は、我に返って立ち上がってテーブルに置き去りにしていたスマホに手を伸ばす。警察を呼ぼうとしているのだろうと理解できたが、その瞬間、まるで弾丸のようなスピードで彼の頭スレスレをナイフが通過していった。
「あ〜やっぱりDVされてんじゃん。ゼノの子もそうだったし、最近流行ってんのか?」
殺人鬼が、いつの間にか手ぶらだ。手に持っていたナイフを投げたのだ。それは見事に反対側の壁に突き刺さっていた。
……すごい威嚇方法を見た。二人して驚いている隙に、その殺人鬼は彼の正面に立って、シニカルに笑った。
「タイホな」
その言葉と同時に、彼の鳩尾に深くて鋭い拳がぶち込まれた。ゴッ。鈍い音とうめき声に思わずビクッと肩が震える。
今のは、痛い。いきなり何が始まったの?半目になりながら様子を見守っていることしかできない。
糸を切られた操り人形のように、ぺしゃりと床に崩れ落ちた彼。今の一発だけでノックアウトしたらしい。痛みに悶えているのにも構わず、殺人鬼は彼の手と足をどこかから持ち出した縄できつく縛り上げてしまった。
何が起こっているんだろう。地面に座り込んだまま呆然としていると、殺人鬼の目線が今度は私に移った。切れ長の目が、静かに私を見つめている。
もしかして私も殴られる?もう殴られるのは嫌だ。心の底から逃げ出したいと思うのに、メデューサに睨まれたように体が固まって動かない。涙を拭うことすらできない。
「ナマエ、泣くなって言ったろ。あぁ、こんなに殴られて……また傷増やしてんじゃん」
それはあなたのせいだけど。
名前を覚えられている。そんなことに気づかないくらい、酷く混乱している。
何故って、彼が自分のジャケットを脱いで私の肩にかけたから。そういえば服を着ていなかった。全身の打撲痕に対して「可哀想に」だなんて呟きながら、あの時と同じようにその大きな手で頭を撫でた。
「辛かった?もう安心だ、だから泣くな」
ジャケットから煙草の匂いがする。どうしてそんなにも温かい言葉をくれるのだろう、この殺人鬼が。彼の落ち着いた声とトーンでは冗談を言っているように思えないのに、冗談にしか聞こえない。
そして、次の言葉は本当に冗談かと思った。
「こんなクソ、渋ってねぇでさっさと殺しゃいいのに。ほら、教えてやっから一緒にやろうぜ」
は?
「ああ、金のことはいい。今回だけ特別な」
本物のサイコパスってこんな感じなんだ。震えて声は出なかったけど、顔には出た。むしろ感心の念すら滲み出る表情で殺人鬼のことを見上げると、彼は面白そうに笑って立ち上がり、先程自分が飛ばしたナイフを壁から回収した。
それを、右手に握らされた。
「やっぱ首掻っ切んのが一番手っ取り早いけど、痛い目見させてぇなら心臓に遠いとこから順に刻んでく感じで……」
殺人鬼は唐突に人殺しの授業を始めた。
「ここがド田舎で周りに何もなきゃ銃使えんだがな。こんなうっすい壁のアパートじゃサプレッサーなんてクソの役にも立たねぇ」
「……あ、の」
「あぁそれともアレ使うつもりなんだっけ。あの危ない薬。アレ、あんた自分で使うために持ってたんじゃねぇだろ?」
思い出したように、ソファーの上に置いていたバッグを漁り始める殺人鬼。すぐに目的のものを見つけて「お、発見」と手の平サイズの瓶を掲げた。
「でも、こういうのって検死されっと面倒だからやめといた方がいいぜ。入手経路とか完全に絶ってんならまだマシだが」
「……」
「そういうわけじゃあねぇんだろ?あんた、これどこで手に入れた?」
ネット。家のパソコンで。小さな声で呟いたら、安心したように頷かれた。
「じゃあま、いいか。俺が燃やしたし」
常識から外れた言葉を淡々と。
私は少し目線をずらして、右手に握らされたナイフを見つめた。これはもしかして……あの人を殺したナイフだろうか。そのことに気づいた途端、身震いがした。
「なあナマエ?こいつうっせーし、やんなら早くやろうぜ。悩む理由ある?」
「……」
「あ、まだ好き?こいつのこと」
好きじゃない。
両手両足を縛られた彼は、今もずっともがいて縄からの脱出を試みていた。何をやっている?何を言ってる?この男は誰だ?何故自分が縛られなきゃいけない?そんなことを立て続けに叫び続けているけれど、それはどれもこれも私が知りたいことだった。
ところで、あなた、なんでさっき警察を呼ぼうとしたの?
自分は悪くないみたいな顔をして。捕まらない自信でもあったのだろうか。ここに警察を呼んでしまったら、この不法侵入してきた不審者はともかく、私の体に出来上がった数々の鬱血痕にも彼らの目が行くだろう。そしたら優秀は警察官たちはあなたの拳に傷があることにも気がついて、自分まで捕まってしまうかもしれないということを、あなたは考えられなかったのだろうか。
ふらりと立ち上がった。なんでこんなことを考えてしまうのか分からないけど、そういえば私は随分と前からこの人の殺害を計画していて、だからわざわざあの薬を手に入れたのだ。殺人鬼が肩にかけてくれたジャケットが落ちないように手で支えながら、床に倒れたままの恋人に近寄った。
半裸で両手両足を縛られている滑稽な姿を見下ろして、上半身の真横にしゃがみ込んだ。右手にはナイフを持ったまま。今って、もしかして今までやられたことをやり返すチャンスなんじゃない?でも、全部やり返すのは面倒だな。……脳天気な恋人は、どうやら私が助けに来てくれたと思っているようだ。お前が手に持っているそれで早くこの縄を切ってくれと、懇願にも近い命令を始めた。
そんな時、背後に人肌。ほぼ抱き締められるような体勢で肩を抱かれ、横から顔を覗き込まれた。
「ナマエ、あんた人の悲鳴好き?」
よく分からない質問だったけど、とりあえず首を横に振ったら、彼は「だろうな」と呟きながらその辺に落ちていたタオルを恋人の口の中にせっせと詰め込み始めた。
「どうせトラウマになんだろ。一個助言しとくと……目は合わせない方がいい。俺はいつもガン見してっけどな」
何かと思えば授業の続きらしい。タオルを詰め込まれたことで、ろくな声をあげられなくなった恋人。ここでようやく自分が殺されようとしていることに気がついたらしく、目の色が変わった。
その様子に後ろの彼は柔らかく笑って、私がナイフを持つ手の上からそっと自分の手を添えた。殺人鬼なのに温かい。刃先が頸動脈に移動する。
「あとは、ここ当てて、引くだけ」
耳元で囁かれた。
目が眩むような優しい声色で。
「できるよ、あんたなら」