THE STONE WORLD


音色

+++


すっかり赤く染まった空の色が窓の外からぼんやりと廊下に滲んでいる。窓枠の幾何的な影が私の歪な影と重なって、不可思議な模様を作る。夕陽を遮りながら人のいない校舎の中をただ歩く。私はこの哀愁漂う瞬間がとても好きだ。
早朝の学校より、昼時の学校より、夕方の学校の方が趣があると考えるのはきっと私だけではないはず。そう考える理由はたった今述べた通りだ。情熱的な赤色の空、伸びきった灰色の影、そしてなにより、この学園の特色として欠かせないものが。

繊細な音色が音を鳴らす時間だから。

「……」

春なのか夏なのかよく分からないこの季節、この学園は長くても十八時前には部活が終わる。それはこの時期だとギリギリ太陽が身を潜める直前だ。この時間を過ぎると生徒は原則として校舎の立ち入りが禁じられ、直ちに寮に戻らなければならない。これはれっきとした校則だ。もし破るようなことがあったら即座に成績に響くことになるだろう。しかし、規則には例外が付き物である。
そんな例外こと私は、“18時05分”の時刻を示す手のひら大の懐中時計を左手に携えながら、文字通り誰もいない校舎を堂々と練り歩いていた。向かう先は、先程から聞こえ始めたいつもの音色の発生源。軽やかで、繊細で、彼らしいジャズ調のピアノの音色。
ちなみに吹奏楽部が使う合奏室のものではなく、日中音楽の授業で使われている音楽室のスタンウェイだ。カラーはブラウン。おそらく礼拝堂にあるパイプオルガンの次に高価なそれは、なかなかに洒落た様相をしていて校舎の華美な装飾にもよく馴染む。

なにより演奏者が天の使いのような美しい容姿をしているから、画になるったらない。どうせこの扉の先にはこれまた絵画のような光景が広がっているのだろうな。そんなことを考えながら、余計な音を立てないようにそっと音楽室の扉を開けたら、そこにはやはり絵画があった。
美しいピアノの鍵盤に両手を添える美しい天使は、私の来訪に気づいた途端に惜しくも演奏を止めてしまった。静寂を感じる暇もなく彼の桃色の唇が動く。

「よ、早ぇじゃん。ゼノのやつ、今日すっげ張り切ってたからどうせ解散遅れんじゃねぇかって踏んでたのに」

この由緒正しき学園で模範を務める者としてはとても相応しいとは思えない、そんな砕けた物言いをする彼、スタンリー先生はこれでも女子生徒からは絶大な人気を誇るスターのような存在だ。私はあまり興味がないが、クラスメイトに聞くところによるとファンクラブまであるらしい。そして彼の写った写真は高値で売買されている。彼女たちは秘密裏に活動しているようだが、本人にはとっくにバレている。

「ごきげんよう」

そんな彼の宝石のような瞳に見つめられながら、スカートを両手で摘んで軽くお辞儀をした。これがこの学園における挨拶の基本なのに、先生はやっぱり「んなお堅いのいらねぇよ」と教師に有るまじきことを言う。でも、これもいつものことなので私は気にせず話を続けた。

「確かに今日はいつもよりゼノ先生の表情が恍惚としていて、合奏中の無駄話も多かった気がします。何かあったのですか?」
「あれ。いいレコード見つけたってさ。お気に入りの曲なんだと」
「なるほど。でも石神部長はあの通り、顧問より強い権限を持っていますから。いくらゼノ先生がやる気に満ち溢れていようと、彼の一声で部活は時間通りに終了します」
「あーね。千空はあいつのお気に入りだかんな。愛弟子には甘い」

私が所属する吹奏楽部の顧問であるゼノ先生と現部長は、かねてより師弟関係にあるらしかった。なんでも部長のお父様が彼と同じ楽団にいたらしく、その縁で幼少期からゼノ先生がレッスンを受け持っていたのだとか。
しかも部長はオーボエで指揮台に座席が近いから、ゼノ先生は合奏でも彼によく絡んでいる。本人はとても鬱陶しそうにしているけど。まあ音楽をやっている人は変な人が多いから、他の部員はあまり気にしていない。

それはそれとして、私が姿を現したことでピアノの音が途絶えてしまった。これは私にとっては重大な事件で、そういうことなら一曲が終わるまで律儀に外で待っていれば良かった、と少し残念に思いながら中に足を踏み入れる。
彼の音色が好きなのに。運動もお得意さまで、ルーブル美術館に飾られていてもおかしくない逞しい体つきをしているのに、その指先が奏でる音は信じられないほど優しい。
もっとずっと聞いていたかった。しかし彼はそんなことはどうでもいいみたいな顔をして、鍵盤にクロスを被せ早々に蓋を下ろしてしまった。それは演奏終了の合図と同義。再び残念な気持ちに襲われる。

「ところでスタンリー先生。何の用でしょうか、わざわざこんな時間に。生徒はもう寮に戻る時間です」
「何の用って、そりゃ」

残念な気持ちが表に出てしまったようで、少し素っ気ない言い方になってしまった。理由なんて聞かずとも分かるのに。
手招きに誘われて先生に歩み寄ると、優しく手を取られてあっという間に彼との距離がゼロになった。先生の分厚い胸板に鼻が潰されてうめき声をあげたら、すぐに上を向かされて彼の前髪が私の目の前におりてきた。

「デートしようぜ」

大人の男性なのに、お茶目に笑う。普段生徒に見せている落ち着いた雰囲気とは程遠い。これはきっとファンクラブの重鎮ですら知ることない、私だけに見せる表情。ついつい見とれていると、待ちきれないとばかりに数日ぶりの熱が唇を塞いだ。
清楚にお淑やかに、という張り紙がある教室に響くいやらしい水音と熱い吐息の音。人はいないと分かっているのに、音楽室の肖像画は皆私たちを見つめていた。周囲が気になって目が泳ぐ私を牽制するように、長い睫毛の奥にある大きな瞳はじっと私を見つめていた。
苦味のある舌が口内を舐り、大きな手が私の体を撫でまわしている内にだんだんと息があがってきた。先生お馴染みの黒い衣裳を引っ張ると、いつも無視することの多い先生だけど今日すぐに顔を離してくれた。

「てか、あんたが誘って来たんじゃん。すれ違う度に猛烈アピールしてくんの、ほんと可愛すぎてニヤケんだろ。やめろよ」
「……べつにそんなアピールしていません」
「してたって」

思わぬ言いがかりに少し顔を逸らしたら、彼は何故かとても楽しそうに微笑んで頭を撫でてきた。そして、しばらく触れ合わなかった分を取り返すかのように、飽きずに何度も何度もキスを繰り返す。

「ねえ、……俺とこうしたくてたまんなかった?」

先生の大きな背中に手を回して顔面を彼の匂いでいっぱいにすると、緩く笑って甘い声で語りかけてくる。後頭部を指先でなぞりながら「寂しがり屋の仔猫ちゃん」なんて言うものだから、猫の真似をして胸板に頬ずりをしてみた。
彼は何もかも完璧で、神様はよくぞこの造形を丁寧に作り上げてくれたと思う。あとこの美人先生に足りないのは、清く正しい言葉遣いだけ。……そう思っていたのは初対面の時だけで、今やもうそんな砕けた言葉遣いなんて気にもならないくらい、かすかに聞こえてくる鼓動の音に耳を奪われている。私だけが聞ける音。彼の温かい音色。



音色
backnext
[ toplist ]