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何を守っているのだろうか。
「ばかじゃないの」
そういう言葉を使って。何を閉じ込めているのだろうか。その頑丈な檻の中に。
さっきぶりに目を合わせた彼女は、いつの間にか泣いていた。両目から流れた涙がぽたぽたと下に落ちていく。息が詰まった。
「……ばかだよ」
いや何があった。前触れもなく、いつの間にか泣いている。ちゃんと彼女の顔を見ていたはずなのに、俺はもしかして何も見えていなかったのだろうか。俺は今まで彼女の何を見ていた?
そんなことより、あんたの泣き顔はトラウマだ。ほぼ無意識に立ち上がって、どうにかしなければと一生懸命思案したが、それ以上体を動かすことができなかった。たぶん近づこうとしたらまた拒絶される。……惚れた女の涙も拭えないのか。ここ一週間ずっと思っていたが、それとは比べ物にならないほど今が一番情けない。
「違う、勘違いしないで」
彼女の涙が止まらない。嗚咽に混じってかろうじて聞こえてくる言葉に、おそるおそる返事をすることしかできない。
「……違う?」
「ばかなのは、私」
さっきの発言のこと?俺に対して言ったわけじゃねぇのか。でも、
「あんたはバカじゃねぇよ」
バカでクソ野郎なのは俺だ。そんなことは言われなくても自分でちゃんと自覚している。
「どうしてそんなことを言えるの?」
「そんなこと?」
「あなたはどこまで『良い人』なの?」
「……」
誰が良い人?
「中身が最悪だったらよかったのに。そしたら私、こんなに苦しくなかった」
ふらり、立ち上がる彼女。片手で顔を覆い隠しているから表情が見えない。
「それに、ゼノがいなければ、あなたは苦しまずに済んだのに」
「は?それ、どういう意味?」
「初めてあなたを見た時にここを撃ち抜かれてすきが溢れちゃったんじゃない」
布切れを投げられた。
それは俺の右肩に当たって、床に落ちた。
「最初はちょうどいい距離感を保っていられたのに。ゼノがもう一度あなたを連れてきたりなんてするから」
足がすくんで元の場所に座り直した。頭が熱い。両手で髪をかきあげると、さっき立ち上がった時に膝から落ちた俺の服が視界に入った。汚れちまう。拾わないと。手を伸ばすだけの簡単な動作が、できない。難しい。それはたぶん、俺の脳味噌が彼女の話を聞くので精一杯だから。
「もう一度すきが溢れちゃったんじゃない」
石の世界は静かだから、それは呆気なく耳に届いた。
「閉じこもるしかないじゃない。こっちから距離を取らないと、偽物の私が出張ってあなたを傷つける」
震える声を聞きながら、昨日の会話を思い出す。ゼノ、結局あいつは正しいことしか言っていない。寝不足だったこともあったし、何を言っているのか分からないことだらけだったが、今にして思えば的確すぎる言葉を使っていたんじゃねぇか。
「それなのにゼノが私の前にあなたを連れてきたりなんてするから、あなたが余計に傷ついているんじゃない。ゼノがいなければ、私たちが出会うことは無かったのに」
ゼノは魔女の役にはなれなかった。
でも、彼女に呪いをかける手伝いをした。
「あなたは私の理想のモデルなの。一緒に中身まですきになっちゃう単純な女なの。そんなの表に出せるわけないでしょ……?」
こういう本心を隠したくて、自分自身を檻の中に閉じ込めたのだ。彼女は呪いをかけられたいばら姫でもあるけれど、当時に彼女は自分自身に呪いをかけた魔女でもある。そういえば彼女は黒が好きだと言っていた。
あの日。
あのドレスを身にまとった彼女は、既に黒い魔女に侵され始めていたのだろうか。
「頼んでもないのに近づいてきて、仲良くされて、優しくされて、挙句の果てにはあからさまに好意向けられて……。正気でいられるわけないじゃん」
それを仕組んだのはゼノだ。確かにゼノがいなければ、俺はあんたと出会うことはなかった。ゼノがいなければ、たぶんあんたは俺のことで苦しい思いをせずに済んだ。
でもゼノがいたから出会えたんじゃねぇか。一度のみならず二度までも。俺は、二度目があったからあんたのことが好きになれた。あの時からずっと、この感情は何故か途切れずにいる。
でもいつしか簡単にほつれてちぎれてしまうんじゃないかって、心のどこかでは思っていたから、今、すっげぇ安心してる。
「嫌いなんて全部うそ。今まであなたに投げかけた全部、うそだから、真に受けないで、いい加減気づいて」
良かった。俺のこれが繋がっているうちに、あんたの口からその言葉が聞けて。
「すき。ちゃんとすき」
ようやく床に落ちた服を拾い上げることができた。砂埃を払って綺麗にしてやれば、彼女の好きな黒が元通りに姿を見せた。これ、こいつが俺のために作ってくれたやつなんだよな。俺のために。
愛おしい。それを片手で顔面に押し当てて、思わずニヤけちまうのを隠した。
「本心と真逆のことを言う理由に、照れ隠し以外に何があるって言うの」
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先日とは比べ物にならないほど大粒の涙を流し、顔を真っ赤にして教えてくれる彼女。何がきっかけになったのかは分からないが、何か彼女の中で吹っ切れたことがあったのだろう。いきなり過ぎんよ。いくらなんでも。前触れもなくそんなことを言われるなんて、つい受け取り損ねるところだった。
あのさあ、今まで俺がどれだけ刺されて殺されてると思ってんだ。今のこれだけで許してやれると思ってんの?許してやるに決まってんじゃん。
何個か嫌われてるなんてことは全部忘れてしまった。……ああ、結局のところ嫌いってのは全部全部嘘なんだっけ?そんなの知らね。もうすき。俺はあんたのこと数えきれないくらいすき。嫌いなんて一個もない。俺の中は全部すきで埋まってる。
「俺に惚れてんのに、恥ずかしくて真逆のこと言ってたって?」
「……ちがう」
「今のあんたの言葉要約しただけだけど」
「……ちがうから」
「ああ、それも真逆なのね」
一生懸命首を振る彼女。もう早速照れ隠ししてんのかよ。俺は単純な男だからたったこれだけの会話で気分がとても安らいだ。
彼女は本心を守っていたらしい。外に出さないように閉じ込めていたらしい。その扉が今の一瞬開かれたというわけか。垣間見えた彼女の本心は、どうしようもなく温かかった。
全回復した。
「ナマエ、好きだ」
また勝手に喋り出す俺の口。
彼女もまた耳を塞ぐ。心の扉は即座に閉められてしまったようだ。それでも関係ない。
外側にいる彼女も、内側にいる彼女も、俺にとっては一人の人間だ。どっちもまとめてナマエは俺の好きな人。
「ねぇナマエ、俺はついさっきまであんたの刺々しい言葉が結構苦しくて割とキツかったんだけどさ」
「……」
「今はもうそういうのなくなっちまったよ。あんたの本心が分かったから。いやまあ傷つくのは傷つくんだが」
「……」
「でもそれってお互い様なんだろ」
何もかも正しいゼノが言ってた。俺らはなんか知んねぇけど二人で一緒に傷ついてる。
さっき全部吐ききったような感じ出したくせに、未だに苦しそうな顔して。本心と真逆のこというのが辛いんだろ。
「ナマエが素直になってくれるまで待ってんのもいいけど、それじゃああんたが苦しいの放置してるだけだよな」
俺はもう一度立ち上がった。今度は遠慮なく距離を詰めることができる。こんなにも堂々と。でも一週間前よりかは少し離れたところに。彼女の顔がよく見える距離に椅子を置いて腰掛けた。
「ナマエ、教えて。俺にどうしてほしい?」
たとえば、あんたが接しやすいような距離感を心がける。それでまた以前のように話せるならお手の物だ。
「なんでも聞く。なんでも言いな」
そう言うと、彼女は手で口元を隠しながら、心底意味が分からないとでも言うように力なく首を振った。
「……な、なんで?なんで、そんなこと言えるの?」
「なんでって」
俺はあんたのためならなんでもできる。
「意味わかんない」
「どの辺が?」
「なんで私に構うの。意味わかんない」
「あんたに惚れてっから」
「やめて、いきなり言わないで」
また耳を塞がれた。俺が好きって言う度に、いちいちそんなことを。好きだね、ホント。でも、そういうのも今は照れ隠しだって分かっているからなんともない。むしろ可愛げすら感じる。俺ってどこまでも単純だろ?
「ほら、なんか言ってくんねぇと俺なんもできねぇじゃん」
「知らない、もういいから、馬鹿な私なんかに優しくしないで」
「分かった、優しくしなきゃいいのね」
わがままなプリンセス。ゼノが呪いをかける手伝いをしたんなら、俺は呪いを解く手伝いをしないとな。あいつの尻拭いは得意だ。
ったく、どいつもこいつも手間のかかるやつだよ。とりあえずあいつを殴るのはやめだ。今度あの広いマトにデコピンしてやろ。