始発を控えた早朝の東京駅。温もりの感じられない黒鉄の車体を、白い手袋が慈しむように撫でる。明治時代の駅員を思わせる衣装の青年は目深に被った制帽の下で、愛おしそうな笑みを浮かべていた。中身は最新のディーゼル車であることは重々承知しているが、やはりこの黒は胸を高鳴らせる。これからこの子と走れるということが、未だ夢のようだ。
この青年は偽汽車と呼ばれる妖怪だ。正確には"偽汽車を軸に鉄道関係の怪談都市伝説が習合した妖怪"であるが、然程違いはない。自分の「仕事」以外にちょっと地獄にお客様を運んだり、きさらぎ駅に寄ったりするくらいである。まあそれも今は関係ないのだが。
ゆったりと手を動かしながら、青年はとある女性の言葉を思い出す。
『この貨物車だけが指定した橋の上に残るよう、切り離して欲しい。それから…』
鉄道が比較的新しい分野であるために、関連する怪談は少ない。ゆえに頼める妖怪が少なかったのだろうが、己の半身とも言えるこの美しい黒が傷つけられる未来を思うと、正直複雑な気分だ。…断りきれなかった自分にも非はあるが。
目を閉じてすぅ、と深く息を吸えば懐かしい黒煙が肺を満たすような感覚に陥る。同時に蘇ったのは、妖界での自分の相棒に目を輝かせる嘗ての妖界王。
ー今世でも、彼女はこの黒に自分を見出し求めてくれた
先代が人の身を得てもその力になれるという至上の喜びが無い筈の心臓を衝き動かし、青年の青白い頬を桜色に染め上げる。
−願いの先に彼女の望む未来があるのなら、その為に尽くしたい
青年の白い手が黒い車体と馴染むように溶け合い、ゆっくりと沈む。数分としないうちに、彼は蒸気機関車の中へ消えた。
長い一日が始まる。無人の機関車が突如鳴らした汽笛は朝を迎えたばかりの東京の空と駅員達を大層驚かせ、誰も予想し得なかった終着点へと進む物語の始まりを告げた。