第14話
「次、問題集××ページ問1……」
もう10月になるというのに、未だに夏のような太陽がギラギラと煩い、とある日の午後。
数学の先生の淡々とした授業が続く中、今までなら居眠りをする者が少なからずいてもおかしくないのだが、受験生のニ学期というだけあって、皆真剣に先生の話に耳を傾けている。
もちろん、それは彼も例外ではない。
板書をノートに書き写しながら、真緒はそっと窓際に視線を送る。
そこには、ちょっと前まで、もれなく机に突っ伏して寝ていた姿ではなく、真面目に授業に集中する荒北の背中が見えた。
頑張っている彼を目の当たりにして、思わず、笑みがこぼれる。
と同時に、未だに締め付けられるような胸の痛みを感じて、真緒はそっと自分の胸に手を当てた。
あの日以来、荒北とは一言も口を聞いていない。
席替えの効果も相まって、まるで4月の始めに戻ったみたいだ、と真緒は思う。
最初は苦しくて苦しくて、とてもつらかった。3年生になってからの数ヶ月、それこそ一緒にいるのが当たり前みたいに近くにいたのだから。
しかし、日一日と経つにつれて、少しづつ苦しさも落ち着いていった。直接関わらないのだから、それはごく自然なことだと思う。
その一方で、一度気づいてしまった恋心を忘れることは全くできそうにない。
(好き……)
荒北の背中に向かって、心の中でそっと呟く。
それこそ、玉砕するのを知りつつ、この気持ちを伝えようかと何度も思った。でも、面と向かって拒絶されるのが怖くて、どうしても勇気が出ない。
こんなに臆病で弱い自分がいるなんて、恋をするまで知らなかった。
自分でも情けなくて嫌になるけど、要するに、逃げてしまったのだ、わたしは。
ダメ元で思いを伝える勇気もなく、かといって、今まで通り友人として振る舞う強さもなく。
そんな弱い自分に残された道は、時間が解決してくれるのを待つだけだった。
きっと、訳もわからず避けられて彼は不愉快に思っているだろう。
現に、あのとき、とても怒っていたと思う。けれど、それでもいい。
普通に接することができない以上、たとえ今まで通りにしても、もっと嫌な気持ちにさせるだけだから。
もし、自分の気持ちの整理がついて、前みたいに友達としてつき合えたらどんなにいいだろう。願わくば卒業までにはそうなりたいな、なんて虫のいい願望を密かに抱きつつ、真緒はじっと荒北の背中を見つめた。
「あ、伊東。お前今日の放課後暇か?」
帰りのホームルームが終わるやいなや、思い出したように、渋谷先生が真緒に声をかけた。
「はい。大丈夫ですけど」
そう答えながら、真緒が小走りに教卓へ歩み寄る。
「悪いけど、文化祭の配布用ガイドライン作るのお願いできないか?クラス全員分の」
すまんな、と申し訳なさそうに片目を瞑りながら、渋谷先生が真緒に頼み込む。
「わかりました」
「恩にきるよ。ん?でも伊東一人じゃ大変だな……あ、おい、荒北!」
「……!」
渋谷先生の口から、思いがけず荒北の名前が出て、真緒は思わず、息をのんだ。
「あァ?ンだよ、シブセン」
帰り支度を終えて、今まさに教室を出ようとしていたところを呼び止められた荒北が振り返る。
「荒北お前、今から伊東の手伝いやれ」
「はァ?なんでオレなんだヨ」
「お前、さんざん伊東の世話になっといて嫌とか言わないよなぁ、まさか」
「……わーったよ」
絶対服従の呪文をチラつかされて、荒北が苦々しそうに舌打ちした。
「俺はこれから会議だから、詳しい話は伊東から聞いてくれ」
それじゃ伊東頼むな、と言って渋谷先生は足早に教室を出ていく。
「……」
「で、どこで何をすればいーの?オレはァ」
一瞬漂う妙な空気を断ち切るように、荒北がぶっきらぼうに尋ねる。
「……っ、ごめん、社会科準備室で資料作るの……」
「りょーかい」
「……」
「おい、ぼやっとしてっと置いてっちまうヨ、伊東チャン」
ぎこちない返事しか返せない真緒を、荒北が少し呆れたような顔で見た。
「ご、ごめん……」
久しぶりに聞く荒北の“伊東チャン”に、自然と胸が高鳴る。
(やっぱり、まだ全然ダメ……)
離れていた距離が近づいただけで、こんなに簡単に心がざわつく。
普通に話せる日が来るのは、まだまだ先になりそうだと、真緒は思った。
「このプリントを端から一部づつ取って、ホチキスで左留めするんだけど……」
「げぇ……すげーあるじゃん。めんどくせぇ」
準備室で、机の端から端までびっしり並んだプリントの山を見て、荒北が辟易したように悪態をつく。
「荒北くん、無理しなくても、わたし一人でも大丈夫……」
「バァカ、こんなん一人でやってたら、朝になっちまう」
ほら、さっさと片付けちまおうぜ、と真緒が言い終わらないうちに、荒北がプリントの山に手を伸ばした。
なんだかんだ言いつつも、手伝ってくれる荒北の不器用な優しさに、涙が出そうになって真緒は思わず、きゅっと唇を噛んだ。
「……39、40、うん。無事完成したね」
「あーくそ疲れたァ」
出来上がったガイドラインの束の横で、荒北が大きくのびをした。
「あ、ごめんね。手伝わせちゃって」
「……へッ」
反射的に謝ってしまった真緒を、まるで少しばかにするみたいに、荒北が鼻先で笑った。
「私、何かおかしなこと言った?」
いきなり笑われて、理由がわからず、真緒が首をかしげる。
「伊東チャンさァ、さっきからほぼ、ごめん、しか言わねぇのな」
「え、嘘……」
「嘘じゃねーよ。つか、大丈夫かァ?マジで」
「……」
「最近、なーんかおかしいよな。授業中もどっか上の空だしィ?今だって、ぼんやりしてっし」
危なっかしくて見ちゃいらんねーよ、と荒北が口の端を上げた。
「もーちっとさァ、ちゃんとしろヨ、じゃねェと……」
「……わないで」
荒北の言葉を遮って、真緒が何かを呟く。その声は小さかったが、声色にははっきりとした意思が見えた。
「あ?」
「おかあさんみたいなこと、言わないでよ!わたしのことなんか、ほっとけばいいじゃない」
完璧に八つ当たりだと、言ったあとで思う。
荒北くんは悪くないのに、頭ではそうわかっているのに、なんで、どうして、という気持ちが溢れて止まらなくなる。そして、気づけば自分勝手で可愛いげのない言葉をぶつけてしまっていた。
それでも、好きじゃないなら、優しくしないで欲しいと思うのは、わたしのわがままだろうか。
「……じゃねェよ」
それまで無表情に真緒の言葉を黙って聞いていた荒北が、不意に険しい顔に変わる。
「……ッ!?」
射抜くような鋭い視線と目が合ったと思った瞬間、あっという間に距離をつめた荒北に、ぐいっ、と少し乱暴に肩を引き寄せられる。
直後、唇に感じた柔く乾いた感触と、突然、視界が荒北で埋め尽くされるのを目の当たりにして、真緒ははじめてキスされたのだと知る。
ほんの一瞬の出来事が、永遠にも似た長さに思えて。
今、目の前で起きていることが、夢なのか現実なのかさえわからない。
「おかあさんなんかじゃねーよ、バァカ」
唇を離した瞬間、低い声で荒北が吐き捨てるように呟いた。呆然と立ち尽くす真緒を置き去りにして、後ろで無機質なドアの閉まる音が聞こえた。
その音が合図だったかのように、真緒はへなへなとその場に座り込んだ。
「……ッ!!」
咄嗟に口を両手で覆ったのは、無意識だった。
しかし、結果的にそれが唇に残る荒北の感触を呼び覚まし、真緒は思わず息をのむ。かあっと全身に火がついたみたいに熱くなって、心臓の音が早鐘のように鳴り響く中、真緒はその場から一歩も動くことができなかった。
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