第6話
放課後の廊下を、荒北靖友は足早に歩いていた。補習帰りのその足で向かうのはもちろん、自転車部の部室だ。
昨日、福ちゃんこと主将の福富の話では、今日は大事なミーティングはないという話だったから、別段急ぐ理由もないのだが、骨の折れる補習から解放されたせいだろうか。今は早く愛車のペダルを回したくて仕方なかった。
先週から始まった補習も、今日でようやく一週間が経つ。
担任のシブセンから補習を言い渡されたときは、正直、お先真っ暗という感じだったが、今は違う。それというのも、靖友の後ろの席で学級委員長の伊東真緒が、一緒に付き合ってくれているからだ。それも、朝と放課後の二回も。
最初は、よく知りもしねえやつの補習につきあうとか、物好きな女だと思ってたけど。と、靖友は振り返る。
(本当に根っからのお人好しのバカなんだよな。あいつ)
たかだか一週間過ごしただけだが、靖友なりに伊東真緒の人柄が少しだけわかったような気がする。
伊東真緒は、優しい。
それは、靖友に対してだけではなく、いつでもどこでも誰にでも親切なのだ。そこには、損得勘定とか打算的な匂いは一切ない。要するに、困っている人間を放っておけない性質なのだ。
(まァ、おかげで助かってるけどォ)
斜に構えながらも、本当に伊東には感謝してもしきれない、と靖友は思っている。
しかし、そこはひねくれ者の彼のこと。間違っても、口に出して言うことはないのだけれど。
「遅いではないか!荒北!」
ロッカールームのドアノブを勢いよく回し、中に入ると、先客がいた。しかも、うるさいやつが。
「げ、東堂。いたのかよ」
思わず、毒づいてしまうのは、別に東堂が苦手だとかいうのではなく、最早、条件反射といってもいい。靖友だけでなく自転車部の。
「フクから聞いたぞ。荒北、お前毎日補習なんだってな!なんと情けない!普段から真面目に勉強しておかないからだ、この東堂のように……」
「るっせ。ほっとけ!」
東堂のいつもの長い口上が始まる前に、靖友はさっさと自分のロッカーの扉を開けた。
「それにしても、あの渋谷先生とマンツーマンで補習とは……さぞしんどいだろうな!」
気の毒に、と言わんばかりの顔で話しかけてくる東堂を苦々しく思いながら、咄嗟に「ちげーよ」と口走りそうになるのを堪えた。別に伊東と補習してることを隠すつもりはないが、何となく東堂にそれを話すのは嫌だった。どうしてかはわからないが。
「シブセンじゃなくて、伊東真緒だろ?靖友」
靖友の予定を全て無にして、どっからともなく現れた新開がさらっと宣う。それは、爽やかに。
「新開ィ、余計なことゆーな!」
ちッ、と舌打ちして靖友は新開を睨み付ける。
「伊東真緒……ってあの伊東真緒かー!?」
新開の出した名前に、案の定東堂が食いつく。
「そーだよ。うちのいいんちょーのな」
ほら、めんどくせぇことになった、と言わんばかりに、もう一度靖友は新開を睨んだ。
「ローレライ……」
「あ?」
「伊東真緒と言えば、ハコガクのローレライではないか!荒北!」
「はァ?!」
なんだそれ、と言わんばかりに靖友が東堂を胡散臭そうに見る。
「ローレライってのは、美貌と歌声で船乗りを誘惑して座礁させる伝説の魔女だったか?尽八」
「その通りだ、隼人」
さらり、と答えた新開に東堂が親指を立てる。
「だーかーらァ、なんで伊東チャンが、そのローレライになんだよ!」
意味わかんねぇ、と言わんばかりに靖友が毒づく。
「荒北、噂だよ。モテるのに今まで誰ともつき合わない伊東を揶揄したな!」
決まった!とばかりに、東堂がビシッと荒北を指差す。
「へぇー」
東堂を白い目で見ながら、靖友は気のない返事を返す。
(つか男とつき合ったことねぇのか。伊東チャン)
内心では下世話な好奇心が働いていることはおくびにも出さず。
「彼女は可愛い上に、誰にでも分け隔てなく優しい。当然、男は彼女を好きになってしまう。でもそれは恋愛感情からくるそれじゃない」
いつになく真面目な顔で東堂が言う。
「それに気づいたときには、もう手遅れってわけか」
ヒュウ、と新開が片目を瞑って見せた。
「言わば、伊東真緒は天然魔性の女だな。ちなみに俺は登れる上にトークもキレ……」
「伊東チャンが魔性の女、ねぇ」
東堂の口上をぶった切るように、靖友が言う。まァ、可愛いこたぁ可愛いけどさ、と内心思っていることは言わないでおく。
(どっからみてもただのお人好しだろ、あれは)
まァ、俺はそんな簡単に他人を好きになったりしねぇし?どーでもいーけどォ。と、まるで他人事のように、靖友は心の中で呟く。
「本当に、男ってのはバカだから、ちょっと優しくされるとすぐ好きになっちまうんだよな……」
まるで靖友の心の声が聞こえたみたいに、隣で新開が意味深長な笑みを浮かべた。
「くだらねぇ。俺はそんなバァカじゃねーよ」
「そうだな。でも、」
「んだよ?」
もったいぶんな、と靖友が新開の続く言葉を催促する。
「間違いなく男だってことさ。俺もおめさんもな」
新開の大きな目が、靖友を捉える。
「はッ!ありえねぇよ!」
そう吐き捨てる靖友に、わかってるよ、と言わんばかりに、新開が靖友の肩を叩いて去っていく。
「……多分」
閉ざされたドアの向こうに消えた新開の背中に、靖友が小さく呟いた。しかし、それは靖友自身の耳にしか届かなかった。
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