第7話
「うわぁ……かわいいね」
旧体育館裏の階段に腰かけて、伊東真緒が猫を抱き上げて言う。
今朝から降り続いている雨は昼休みになっても止むことを知らず、旧体育館裏の此処もいつもは乾いたコンクリートの地面が雨で色濃く染まっている。唯一、出入口の階段付近には日差しがついており、そのおかげで何とか濡れずにすんでいる。
普段から人気のない場所であることに加えて、この天気のせいで、辺りには靖友と伊東の二人しかいない。否、二人と一匹しか。
「ねぇねぇ、この子なんて名前?」
猫を膝の上に乗っけながら、伊東が無邪気な顔でこちらを振り向いた。
靖友がこの猫と出会ったのは、今年の四月のことだ。
三年に進級してクラスが変わり、あの時期特有の何とも居心地の悪い雰囲気に馴染めず、靖友は昼休みになると此処で一人寛いでいた。そんなとき、どこからともなく現れたのが、この猫――ビアンキ――だ。
元々、靖友が旧体育館裏の此処を見つけたのは、彼が箱根学園に入学したばかりの頃。
言わば、彼が最高に荒んでいた時期(靖友曰く折れ曲がっていた時期)だ。
あの頃は、周りの人間にも環境にも、そして自分自身にも嫌気がさして、よく此処で授業をサボっていた。
今考えると本当にバカなことをしていたと思う。だが、そもそも自分がハコガクに来なければ、あの福富と出会うこともなく、すなわちそれはロードに出会うこともなかった。
そう思えば、あの荒んだ日々でさえ、無駄ではなかった。と、今はそう思うことにしている。
昔話に思いを馳せたせいで、盛大に話が逸れたが、言わば此処は靖友にとって特別な場所で。自転車部の仲間はおろか、福富にさえ話したことのない、とっておきの場所だった。少なくとも、今朝までは――
「な……なんで伊東チャンが知ってンだよ!」
まさに青天の霹靂といった様子で、靖友は言葉を失った。
「荒北くん、黙っててごめんっ……実は」
顔の前で手を合わせて謝りながら、伊東真緒がことの顛末を静かに話始めた。
「そか。見られちゃってたんか……」
伊東チャンに、と、ボソッと靖友が呟く。別に隠していたわけではないが、なんとなく気恥ずかしい。多分、自分と猫という組み合わせ自体、周りから見れば違和感を感じずにはいられないのだろう。イメージ的に。
そんなことを考えながら、靖友がチラリと横目で伊東真緒を見ると、彼女は申し訳なさそうな顔で靖友を見ていた。
「……別にィ、謝ることじゃねーし……」
そんな目で見んな、と、照れ隠しにいつもの悪態をついてみたが、何とも居心地が悪い。
「……」
二人の間に何とも言えない沈黙が走る。
「……見にくるゥ?」
「えっ!いいの?」
靖友の一言に、沈んでいた伊東がたちまちパアッと笑顔になる。
「……!」
その顔が、あんまり可愛くて、靖友は思わず目を反らしてしまう。思いっきり不自然に。
しかし、色々差し引いても、何故ああ言ったのか靖友自身よくわからない。
あまりの居たたまれなさがそうしたのか、はたまた別の何かか。
とにかく、一人と一匹の秘密の場所に初めて招かれた客――それが伊東真緒になったことは間違いなかった。
「ビアンキ」
真緒より数段上の階段に腰かけた靖友がボソッと呟く。
「そっか!真っ白だもんね、この子」
うん、ぴったり、と真緒がビアンキに頬擦りする。
「はァ?白いからぴったりってなんだよ?」
意味わかんねェ、と言いながら立ち上がった靖友が伊東の隣に腰を下ろした。
「え、イタリア語で“白”って意味でしょ?ビアンキって」
「へぇ。そりゃ知らなかったヨ……って、伊東チャン、イタリア語もわかんのかよ!」
お前、スペック高すぎんだろそれ、と靖友が大げさに空を仰ぐ。
「うーん、わかるっていうより、現在お勉強中?」
「はァ……つか、一体何目指してんだよ?伊東チャンは」
レベル高過ぎてオレはついていけねぇわ、と靖友はまるで“参った”とでも言わんばかりに、片手を額に当てた。
「何って幼稚園の先生だけど?」
靖友の反応を不思議な顔で見ながら、さらっと伊東が答える。
「はァ?幼稚園でイタリア語とか関係なくね?」
意味不明、という顔で靖友が伊東の顔をまじまじと見た。
「ごめん、言い方が悪かったね。厳密には幼児教育の先生になりたいの」
いつものように、ふんわりと微笑みながらも、どこか遠くを見つめるような顔で伊東が答える。
「私ね、小さい頃、引っ込み思案で人とコミュニケーション取るのが苦手だったの」
まぁ、今もそうかもだけど、と伊東が苦笑する。
「当然、お友達もいなくてね。最初に入った幼稚園も全然馴染めなくて。困り果てた両親が見つけてくれたのが、その幼児教育のプリスクールだったの」
まるでとても大事な記憶のドアを開けるみたいに、ゆっくり伊東が言葉を紡いでいく。靖友は、ただ黙って彼女の話に耳を傾けていた。
「そこの園長先生が本当に素敵な人でね。少しづつ私の頑なな心を解いてくれて。そのおかげで、こうして今の私がいるんだよね」
あ、ごめん、どーでもいい話しちゃって、と真緒は少し恥ずかしそうに笑った。
「ふーん。その幼児教育ってやつの先生になんのが伊東チャンの夢かァ?」
黙って話を聞いていた靖友が、徐に伊東に尋ねる。
「うん。私の子供の頃からの夢。その幼児教育の本場がイタリアでね。いつか、絶対留学したいんだよね!」
そう言って、自分の夢を楽しそうに語る真緒の横顔は、生き生きとして眩しく見えた。雨空に太陽なんて出ているわけないのに、現実に一筋の光が差し込んだみたいな気がして、靖友は思わず目を側める。
と同時に、まるでゴール前にいるみたいに、えもいわれぬ高揚感が靖友を包む。いつのまにか、自分の鼓動の音が周りに聞こえそうな程大きくなっていた。
(くっそ……んだよ、これ)
今まで感じたことのない種類の昂りに、靖友は内心動揺を隠せない。
「あーなんか、色々余計なこと話しちゃったね、私。こんな話、さっちん以外誰にもしたことないんだけど」
荒北くん、意外と話しやすいから、と、靖友の気も知らずに伊東が無邪気に笑う。
その言葉に靖友の心臓が、また小さく跳ねた。
「……なれんじゃねぇのォ、伊東チャンなら」
あさっての方を見ながら、靖友がボソッと言う。平静を装ってはみたものの、きっと顔は真っ赤に違いない。こんな顔見られたら死ねる。マジで。
「ありがと……嬉しい」
そう言って、真緒がはにかむように笑う。
その顔に、再び靖友の心臓が鷲掴みされたのは、言うまでもない。
もっとも、なんか荒北くんに言われると、照れるね、などと宣っている伊東本人はそんなこと知る由もないが。
「……るっせ、ボケナス」
頭をボリボリ掻きながら、そう小さく呟くのがそのときの靖友には精一杯だった。
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