第8話
「――以上、本日の特別補習終了」
黒板に最後の文字を書き終えると同時に、渋谷先生が高らかに宣言する。
「あー……クソ疲れたァ」
その言葉を最後まで聞き終わらないうちに、荒北が机に沈み込むように突っ伏した。
「渋谷先生、ありがとうございました」
補習の邪魔にならないように、教室の隅で委員会の資料をまとめていた真緒が、すっと立ち上がって教壇の渋谷に駆け寄っていく。
まだ梅雨明けが宣言されていないにもかかわらず、すでに真夏のように暑い7月最初の土曜日。
本来ならば、学校は休みのはずだが、高校3年の夏にそんなことを言っていられるわけもなく。この日は模試のため、3年生は全員午前中から登校していた。その模試終了後の時間を利用して、荒北の特別補習をしてもらえるように、真緒が渋谷先生に頼み込んだわけである。
「荒北くん、お疲れさま」
渋谷先生と簡単に言葉を交わした後、戻ってきた真緒が荒北のつむじに向かって話しかける。
「あー……死ぬわマジで」
顔を伏せたままの状態で、低い声で答える荒北に真緒は小さく苦笑した。
「でも、これで遅れてた分取り戻せたし」
あとちょっとだよ、すごいよ、と真緒が嬉しそうに荒北に言う。
「るっせ。ほめんな」
補習で褒められても嬉しくねぇし、と荒北が沈んだままで憎まれ口を叩く。
(相変わらず、素直じゃないなぁ)
と心の中で苦笑しながら、真緒は、すとんと荒北の隣の席に腰を下ろした。
「あー……腹減った。超牛丼食いてぇ」
食いてぇ、マジ食いてぇ、と突っ伏した荒北が繰り返し低く呟く。
「ねぇ、牛丼ってそんなにおいしいの?」
私、食べたことないんだよね、と真緒が独り言のように言う。
「はァ?!伊東チャン、それマジか?」
荒北が突っ伏していた頭を、がばっと起こした。
「うん。マジです」
「はッ!信じらんねぇ!」
天然記念物か、と荒北が心底驚いた顔で真緒の顔を覗き込む。
「そんなに珍しくないと思うんだけどな」
女子的に、と少し納得いかない顔で真緒は荒北を上目遣いでじっと見る。
「じゃ、今から行くかァ。人生初の牛丼食いに」
しょーがねぇからオレがおごってヤンよ、と言って荒北が立ち上がる。
「えっ!今から?」
「伊東チャン、確かチャリ通だったよナ?」
返事も聞かないまま歩き出した荒北に、条件反射的についてきてしまった真緒が、こくりと頷く。
「じゃ、それ貸りるヨ」
「え?私の自転車?」
荒北のいわんとすることが、いまいち掴めずに真緒は困惑した表情を浮かべた。
しかし、荒北はそんなのお構いなしに、さっさと昇降口を出ると、生徒用の自転車置き場へ歩いていく。
「へー……これが伊東チャンのチャリね」
いいんじゃナァイ、と言いながら、荒北は勝手にサドルの位置を調節し始める。
「乗れよ。うしろ」
それから、すぐにそのサドルに跨がりながら真緒を促す。
「えっ、二人乗り?」
だめ、それ校則違反、と真緒がぶんぶんとかぶりを振る。校則違反云々の前に、真緒の中のもっと別な部分がざわざわしていることには敢えて触れない。
「るっせ。ぐだぐだ言ってねーで乗れ」
早く、とまるで悪びれる様子もなく、荒北は真緒を急かした。
(……もうっ)
一瞬の逡巡の後、真緒は自分の自転車の荷台に腰かける。自分では滅多に乗ることのない場所に、違和感とほんの少しの緊張感を乗せて。
「じゃ、行くかァ」
つかまっとけよ、そう言うやいなや、荒北はぐん、とペダルを漕ぎ出した。
通用門を抜け、大通りに出ると、自転車が一気に加速する。思わず、真緒は握っていた荷台の端っこを慌てて掴み直した。
「荒北くん!」
「あァ?ンだよ、よく聞こえねーヨ」
「何か可笑しいね。私のに自転車部の荒北くんが乗ってるの」
一瞬で流れていく周りの景色を見ながら、真緒が楽しげに笑う。
「るっせ。あー……重てェ、やっぱママチャリ、クソ重てェわ」
全然、スピードのらねぇ、と悪態をつきながら、荒北がペダルを回す。
「ごめんね?荷台も重たくて」
少し申し訳なさそうに、真緒が荒北の背中に呼びかける。
「そか。荷台が超重てェもんなァ」
そりゃスピードでねぇわ、と荒北がニヤニヤしながら言う。
「もうっ!」
ひどい、と真緒が荒北の背中をポカポカ叩いた。
「おっと。この先下りだからァ」
つかまってねぇと落っこちるヨ、荒北が言い終わらないうちに、自転車が急激に速度を上げる。
「きゃあッ!」
突然のスピードアップに、堪らず真緒が荒北の背中にしがみつく。
「ごめんッ……」
と小さく呟いた声は荒北には届かなかったらしく。かといって、この状況で手を離せるわけもなく。真緒は荒北の背中に身体を預けたまま、自転車が坂を転がり落ちるように下っていく。
(……)
寄りかかった先、荒北の背中が見た目より広くて男らしいことに気づいて、真緒の顔に熱が集まる。細いけれど直線的で引き締まった体躯は、明らかに真緒とは違うもので。加えて、間近に感じる荒北の体温や汗の匂いが、今まで意識することのなかった彼の一面を強烈なまでに五感に訴える。
真緒の心臓がドクン、と大きく脈打った。
(心臓の音が聞こえちゃいそう……)
勝手に高鳴る胸の音は止まることなく。それが不安定な自転車の後ろに乗っているせいなのか、目の前の背中のせいなのかは、今の真緒にはまだよくわからない。
「――」
思わず、真緒が小さく何かを言いかけた声は、自転車が風を切る音に溶けるように消える。
気がつけば、さっきまで饒舌だった荒北も黙ったまま、何も話さなくなっていた。
初夏の蒸し暑い空気を切り裂くように回る車輪の音だけが、二人の間に流れる。
真緒もまた、なにも言わない背中に、そっと頭を寄せた。
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