- 序章 -
06:狐と狸の化かし合い  


あんなに憎まれ口を叩いていながら、江流はあれから度々私の布団に潜り込むようになった。まあ可愛いから良いけど。
その事をたまたま光明のお茶に呼ばれた時にぽろりと零したのだが、それを聞いた光明はさぞ驚いたように見えた。

「そうですか……あの子が……」

それは何処となくホッとしたような表情にも見えた。

「ま、あんな憎まれ口を叩いていながらもやっぱりお子様って事ね。
寝る時くらいは子供は子供らしくさせても良いのかと思うけれど」

「ええ、そうですね。
あの子も漸く人に甘えるという事を知ったんでしょう」

茶菓に出された羊羹を咀嚼しながら茶を啜っていると、光明はポツリと零す。

「あの子は実は親がいなくてですねえ……。
揚子江を流れて来た所を偶然私がいたから拾って育てた子なんです。
だから川流れの江流なんて言われて他の兄弟子の一部には余り良い顔をされていないのも知っていながら、私が助けては悪循環になってしまいますからねえ。
ですからあの通りすっかり捻くれてしまい憎まれ口を叩くようになってしまっていますが、あの子には私の後を継ぐだけの才能を十分に持っています。
私は、近いうちにあの子にこの聖典経文と魔天経文を譲るつもりです」

双肩にかかる経文を見せる光明に今度はこちらが瞠目した。

「私もそろそろ歳ですからねえ」

「歳って……あんた幾つよ」

「私ですか?私は四十八ですよ」

「四十は……童顔!?」

「はっはっは良く言われます」

精々三十半ばかと思ったら一回りも上だった。

「そろそろ私もこの経文の後継者を決めなければいけなかったのは本当ですからねえ」

変わらずのほほんとしてた様子で言う光明に少しだけ悪戯心が芽生えた。

「だからあんなにあの子に目を掛けているのね。
あの子にかまけている間がご無沙汰過ぎてコッチはもう使えなくなってしまっているのかしら?」

「おやおや、いけないヒトだ」

多少からかう様に前に身を乗り出して光明の頬に手を充て輪郭に沿うように滑らせ指を唇なぞる。
一応、私はこの外見に自身はある。とはいっても自分の身体ではないけれど、今この身体は私のものだ。大抵の男は簡単にコロリと落ちてしまうのは妲己がしてきた事を見ていれば十分に理解している。
さて、この男はどうだろうと思ったのだが光明は変わらずぽややんとした雰囲気を崩さずにいた。
これは自我を強く持っているタイプだから無駄だな。即座にそう結論付けた私はぺ、と小さく舌を出した。

「……なんてね。
それもある意味楽しそうだけど、貴方相手だったら逆に良いように転がされそうだからやめておくわ」

「それは残念。
私もあと二十年くらい若ければ若気の至りとかで応えていたかもしれませんがねえ」

「あら、貴方もいけないヒトね」

ははははは。

ふふふふふ。

とても最高位僧と尼の会話ではない下卑た会話だ。
きっと彼の弟子がこんな会話を聞いていたら卒倒してしまうだろう。
だがこの男の余裕の表情を崩してみたいと思うのも事実で、少しだけつまみ食いしたいとうずうずしてしまうのはあの女狐の影響だろう。やだもう私ったらなんてビッチ。ま、誰にでもそう言う訳じゃなくてあくまで吟味に吟味を重ねた相手にだけだ。

「あの子は自分でも冗談のような幼名で呼び続けられる事にほとほと飽いているですから、法名を与えその時に私の跡を継ぐ【三蔵】となる事を言っておこうと思いましてねえ」

「……そんな事を言っていると自分の死期を悟っているような言い方だな」

その時見せた笑みが何処か今にも消えてしまいそうな程はかなく見えたのは錯覚だろうか。

「人間、歳を取ると何かと今まで以上に覚悟を決めなくてはいけなくなりますからねえ……。
貴女の様に強力な力を持つ存在の前に立たされればまるで羽虫の如く微力な存在なんですよ」

「良く言うわ」

呆れたように肩を竦めればずず、と残りの茶を啜る。
私達がこんな会話をしている時、江流は境内に入りこんだ野生の熊をただ眼光と言葉だけで追い返したと言うのを光明の弟子から聞いたのは後々の事である。


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