「・・・・・どうしよ。」
千百合は自室で唸っていた。
書けない。
ちゃんと先生を満足させられるような、起こった事に+して自分の感情が書かれている日記が書けない。
その気になりゃあすぐ出来ると思っていたが、そんな甘い話はなかった。自分の感情を言葉に起こすには、それなりに訓練がいることを千百合は初めて知った。
(え、どうしよ。本当に書けない。何か・・・何かこう、コツとか・・・)
「・・・お母さん。」
「ん?」
「ちょっと幸村の所に宿題教えて貰いに行ってくる。」
「え?あ、そうなの・・・まあ良いけど。」
お母さんが見てあげようか、という母の声をわざと無視して千百合は家を出た。
母に見てもらうわけにはいかないのだ。
というか、親に知られてはいけない。
千百合がこの時幸村を選んだのは、単純にクラスが一緒だったから。
後、他のメンツに頼む気にならなかったからである。
あの兄には頼りたくないし。
紀伊梨は馬鹿だし。
紫希はうじうじしてイライラするし。
(ええと、こっち行ってこっち来て・・・)
「あれ?」
千百合は十字路で立ち止まった。
幸村邸って、そこの角じゃなかっただろうか。
でも違う。そもそも家が記憶と全然違うし、表札にもしっかり「佐藤」と書かれている。
「・・・えーと。えーと・・・」
取りあえず、見覚えのあるところまで戻ろう。
と思って引き返してまた歩き出したが。
(・・・・やばい。)
迷子になってしまった。
戻れない。
今どこなんだろう。
こういう時に限って、周りに誰も通らないのだ。
誰か居れば道を聞けるのに。
「・・・あっちかな。」
自分を鼓舞する意味で声に出して呟いてみたが、思っていたより弱弱しい自分の声音に逆に不安が倍になってきて、千百合は後悔した。
(こっち行って・・・それからこっち行って・・・あれ、ちょっと待って、ここは渡るんだっけ?渡らないんだっけ?何か遠ざかってない?)
この頃はまだ携帯も持たされていなかった。
連絡手段もなく、時間も分からず、あのねノートと筆箱だけ持って千百合はポツン状態だった。
そしてついに。
「あ・・・」
通りゃんせの音。
響く車の音。
行きかう人ごみに、眩しいネオン。
町に出てしまった。
住宅街を抜けてしまった。
これで聞ける人は其処ら中に現れたが、代わりに千百合は大分家から離れてしまった事と、最早自力では絶対に辿り着けないことを悟ってしまった。
「・・・どうしよう。」
どうすればいい。
人に聞いたところで、結構此処から遠い家の位置をちゃんと教えてもらえるだろうか。
もう交番に行った方が早いかな。でも親にこれを見られるのが嫌だからそもそも出てきたのに。
でも帰れないよりはマシか。
あのねノートをぎゅ、と胸に抱えながら千百合は思った。
その時。
「黒崎?」
とても聞きたかった声を聞いて振り向くと、そこには幸村と、幸村に良く似た大人の男が立っていた。
「やっぱり黒崎だ。」
「精市、お友達かい?」
「うん、そう。小学校で同じクラスなんだ。」
「あ・・・黒崎、千百合です。」
「そうか、こんにちは。いつも息子と仲良くしてくれて有難う。」
(やっぱりお父さんか。)
「それで、黒崎も買い物・・・?」
聞きかけて幸村は言葉をつぐんだ。
あのねノートを抱えている。
買い物に来て宿題を持ち込むほど千百合は勉強好きじゃない。
「・・・ううん。」
「だよね。塾とか?」
「・・・道に迷った。」
「え。」
「おや、迷子かい。」
何気なく言った幸村の父、久永の「迷子」発言が千百合に結構重くのしかかった。
自慢じゃないが、生まれてこの方迷子になんてなったことなかったのに。
「お父さんやお母さんと一緒かな?」
「・・・いいえ。」
「どこへ行くつもりだったの?」
「幸村・・・君の家。」
「俺の家?」
「宿題、教えて欲しくて。」
だからノート抱えてるのか。
合点が行くと同時に、千百合でもこういう失敗をするんだなと思って、幸村は笑った。
「じゃあ、行こうか。」
「え?」
「俺の家に来るつもりだったんだろう?一緒に行こうよ。良いだろ、父さん?」
「ああ、勿論。」
こうして千百合は図らずも無事幸村邸に辿り着く目途がついたのだった。
「自分の気持ちを書くコツ、か。」
幸村家の車の後部座席に並んで座る千百合と幸村。
運転席に居る久永は後ろを伺いながら、熱心な子だなあなんて若干勘違い気味の感想を抱いたりしている。
「何か、書けなくて。」
「気持ちを書くというより、気持ちの変化を書けば良いんだよ。嬉しくなったとか、悲しくなったとか。」
「そう言われても。私別に出かけたりしても左程楽しいとは思わないしーー」
「別に出かけた話をしなくても良いんだよ。」
「え?」
「遊園地に行ったとか買い物に行ったとか、そういう大仰なイベントばっかり書かなくて良いんだ。例えば・・・黒崎、今日は家を出る時どんな気持だった?」
「家を出る時。」
「そう。俺の家を目指して行ってきます、って家を出た時。」
「・・・これで宿題なんとかなるかな、って。」
「そっか。じゃあその後、迷子になった時はどんな気持だった?」
「・・・・やばい、と思って。」
「どういうことが?」
「・・・帰れなかったらとか、疲れてきたとか、今何時だろうとか。怒られるかなとか。」
「じゃあ、俺に会った時は?」
幸村に会えた時。
「・・・すごいホッとした。嬉しかった。」
「ふふっ!有難う。うん、それで良いんだよ。そうやって思ってることの移り変わりを詳しく書いたら良いんだ。どこに行って何したかは、そんなに大事じゃないんだよ。」
「マジで。」
言うなれば迷子の話でしかないけど。
良いのかそんなんで。
でも、それなら書けそう。
「・・・有難う。」
「良いんだよ。俺も受け売りだしね。」
「そうなの?」
「そう。俺は春日から教えて貰ったんだ。彼女は国語が得意だから。」
「へー。」
知らなかった。
正確に言うと当時の千百合は知ろうともしていなかった。
「だから、俺からのアドバイスをすると。」
「うん。」
「町で迷子になったら、先ずは落ち着いて耳を済ませること。」
「え?」
「それで、騒がしい方へ行くこと。助けてって大人に言えば、大抵は何とかなるよ。」
「ははは!迷子のプロが、迷子の時のアドバイスか。」
久永の笑い声に、千百合はちょっと目を見開いた。
「幸村って迷子になるの?」
「おや、黒崎さんは知らなかったかな?精市はしょっちゅう迷子になるぞ。とはいっても慌てたり泣いたりしていないからあまり迷子っぽく見えないが、見えないだけさ。」
「父さん。」
(そうなんだ・・・)
幸村に限って迷子とか絶対ないわと思っていたけど、ちらと隣の幸村を見ると恥ずかしそうに微笑み返された。本当らしい。
「マジか。」
「そりゃあ、俺だって男だから。」
「関係ある?」
「面白そうな処には冒険へ行きたいだろう?」
思えば千百合はこの日初めて幸村が人並程度にはやんちゃする事を知ったのだ。