5万打記念企画 No.065
放課後。
今日はミーティングだけなので早くあがって来た幸村が、それはいそいそとキャンバスの準備を始めるのを、千百合は美術室の椅子に座って見ていた。
傍の机の上には、昼にも幸村が持っていた黒い箱。見せてもらったが、中には学校が所有するフルートが入っている。
「これ、貸して貰ったの?」
「うん。でも音楽でも使うことがあるから、ちゃんと管理しないと。」
「よく貸して貰えるわ、授業とかで先生が見てるわけでもないのに。」
「ああでも、普段はしないよって言ってたかな、確かに。」
「え。特別って事?」
「そう。だから皆には知られないようにしないと。」
人差し指を唇に添えて、内緒だよ、と囁く幸村は実に楽しそうである。
こういう仕草が絵になるんだからずるいよなあ、と赤くなって俯く千百合は知らない。何故教師が幸村にフルートを預けるのか。
教師は生徒の学習に手を貸すのが役目?幸村なら滅多なことは起こらない?
そうだ、確かにそれも立派な理由ではある。
しかしそれ以上に、教師はもし自分が「貸さなかったら」どうなるか目に見えているのだ。
決まっている。吹奏楽部のフルートパート勢が、こぞって幸村に楽器を献上しようとし始める。幸村なら壊しはしないだろうし、幸村自身が多忙なおかげでそんなにしょっちゅうは要求されないから、自分の練習にもさして支障は出ない。良い事しかない。
そして終いに、「幸村に定期的に自分の楽器を貸す権利」を巡ってバチバチの争いが始まり、誰が勝っても遺恨が残るだろう。これは実は顧問としての勤めなのだった。
「・・・よし。」
「もう良いの?」
「ああいや、まだこっちの準備が終わっただけだよ。次は千百合の準備をしなくちゃ。」
「え。私何かする事ある?」
「ふふっ、勿論。鏡面を描くから、フルートを持った時に日の当たる所に居てほしいんだ。照り返しが綺麗に見えるように。」
「ああ、そういう。ええと、じゃあ・・・この辺?違うか、ここは私に日が当たる所か。」
「いや、でもこの辺だよ。こう持つから・・・うん、この辺りが良いかな。後は、体の向きで微調整しようか。」
「ん。」
言われた通りに座って、近くの机でフルートの箱を開ける。
おお、綺麗綺麗。ぴかぴかしている。
(・・・どう持つんだっけ、何か怖いんだけど。落としたらどうしよ)
今朝やったはずなのに、こんなつもりじゃなかったからもう忘れてる。
こうだっけ、いやこうかな、なんておもむろに手でいじっていると。
「・・・精市ごめん、ちょっと待って。」
「うん?どうしたの?」
「ちょっとごめんあの。持ち方わからなくなって、べたべた触ってたら指紋が。」
「ああ、そういう事か。あはは、気にしなくて良いよ。よくある事さ。」
「そう?」
「うん。拭けばすぐ元通りだよ。こうして・・・うん。それから持ち方は、」
「精市わかるの?」
「母さんは結構、色んな楽器をやってるからね。教養程度だけど。ええと・・・ここに親指を当ててくれるかな。」
「ん。」
「うん。それで、人差し指がこうで・・・」
「・・・・・・」
段々今朝を思い出してきた。そうだそうだ、それでこの指がこうでこの指がそっちでしょ。
と思ったけど口に出して言わないのは、もうちょっと今の時間が続けば良いなと思ったからだ。
夕日に照らされた輝く銀の笛の上で、幸村の指が自分の指を導いてくれる。
あんまり芸術とかそういうのが得意じゃない自分だけど、この光景は綺麗だと思う。それこそ、何かちょっと非現実的なくらい。夢でも見ているようだと思うのは、幸村が照明を消しているせいで、部屋中に差し込むこのオレンジ色のせいだろうか。
「・・・はい、これで良いよ。」
「・・・・ん。」
「じゃあ此処に座って。」
「ん。」
「それで構えて・・・うん、そう。もう少し右を向けるかな?」
「こう?」
「そう。それで上体をもう少し前に・・・よし、うん。そこで止まって。」
「・・・これで描くの。」
「うん、これでいくよ。じゃあよろしくお願いします、モデルさん?」
キャンバスから楽しそうに覗く幸村の顔は、やっぱり心底楽しそうだった。
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