高校、掃除の時間にて。
芽衣は今月担当のトイレ掃除を黙々とこなしていた。
職業病の一種だろうか、芽衣はこういうところで手が抜けないのだ。
仕事のことを知らない友人からは綺麗好きだよねと尊敬半分呆れ半分の目で見られている。
「よし」
輝く便器に満足げに頷いた芽衣は、掃除道具を片付けて手を洗った。開け放った窓を閉めようと手を伸ばすと、強めの風が芽衣の前髪を乱した。
良い風だ。
前言撤回、職業病ではなく、ただ単に掃除が好きなだけだ。こういう爽やかな気分が癖になっているのだろう。
もう一度手を洗ってから機嫌よく教室へ戻ると、黒板の溝が汚いままだった。どうやら担当の生徒が友達とおしゃべりをしていて仕事が進んでいないようだった。
担当外だが、自分がやろうかと思ったところでチャイムが鳴った。
掃除が終わり、授業が終わり、そして放課後がやって来た。
終礼と同時に教室を出ようとした芽衣は、主人が学校帰りボーダーの訓練に直接行くと言っていたことを思い出した。
「……」
部活に行く人や早々に帰る人たちが教室から出ると、教室は閑散とし出す。中にボーダーに行く人もいるのだろう、何せ提携高校である。
芽衣は人がぼちぼちいなくなって来たのを見て、汚いままの黒板の溝掃除を開始した。
溜まっているチョークの粉を掃いて、濡れ雑巾で拭き上げる。チョークをバランスよく並べ直し、黒板消しをクリーナーにかけた。
ブウウウンと耳障りな大きい音を立てるクリーナーを見ていた芽衣は、振り返って教室を見渡し、自分以外いないことを確認した。
すう、っと息を吸い込む。
「……――あ―――もうッ!」
それはここ最近溜まっていたストレスをすべて込めた叫びだった。
ボーダーがなんだ、街の平和を守る機関? 確かに立派だ、有難いものだ。それに入りたいと思う主人は本当に凄いと思うし、実際尊敬している。それでも、それでもっ。
恐縮しながらも、肩を並べてアクアリウムの手入れをすることは芽衣の一番の楽しみだった。それも今ではすれ違ってしまってご無沙汰だ。
家にさっさと帰って仕事をすませつつ主人を待っていても、帰る時間に波が出来てしまい、すっかり日が暮れてから帰ってくることもざらだ。そうなると夜中が業務外の芽衣では主人に会えない。
学校でも同様に業務外で、さらに棟が違い、用もないのに訪れるにはハードルが高い。
端的に言おう、主人不足だ。
寂しい!
頭を抱えたい気持ちを押し殺して黒板けしを窓の外でパンパン叩き合わせた。
「……堂本、何してんだ」
「!」
後ろから声がして、芽衣が振り返ると、クラスメイトの荒船哲次が少し驚いたような顔で立っていた。
「黒板消し? 掃除でもやってんのか」
「……まあ、うん。汚れてるの、気になったから」
大声を出したところを見られていたのかどうかを見極めつつ、込み上げる羞恥にほほを染めながら返事をした。
「真面目だな」
「そうでもないよ。……荒船くんはどうしたの? 訓練行くって言ってたよね」
直接話したのではないが、彼が友人にそう言っているのを椅子に座って人がいなくなるのを待っていたときに聞いたのだ。
芽衣と荒船との接点は特にない。ただ共通の友人がひとりいるだけだ。
実際直接話すのは初めてのようなものだが、無視すると気まずくなる、微妙な間柄だ。
「ああ、ちょっと課題忘れてな。山田は課題送れるとうるせーからな」
「化学ね。あれ凄い面倒だよ」
昨日の夜に片づけた問題を思い出しながら芽衣がそういうと、荒船がまじかよ、と眉を寄せた。
芽衣は黒板消しを元に戻して、己の成果を確認した。
溝は本来の輝きを取り戻し、窓から差し込む太陽光を反射している。五色のチョークは使いやすいように配慮されて並べられている。
芽衣が満足げに頷く横に並んだ荒船が、おお、と感嘆の声を上げた。
「職人技だな」
何の意図もなく、ただ褒めるためだけに使われたであろうその言葉にすこしドキリとする。
その動揺を隠しつつ、芽衣はにこりと愛想笑いを浮かべた。
「ありがとう、すきなの、掃除」
芽衣は心の中で「主人のためなら、もっと」と付け加え、綺麗に弧を描いたその瞳に、荒船哲次は写っていない。