十九話
「近頃は何ぞ、御機嫌で御座りますね。」
まつは微笑んだ。
花嫁修業もいよいよ大詰め。台所で夕餉の支度を手伝っているもみじを眺めてそう聞くと、その肩がぴくりと跳ねる。
「何か良い報せでもありまして?」
「いえ…その…」
俯き加減に覗く頬を朱に染めるその姿に我が子を慈しむような笑みを浮かべるまつ。なんとまあ愛い娘、とその父母や大将、果ては許嫁にさえ少しばかりの羨望を抱いた。前田にもこの様な姫武将が居れば幸いであるが、しかしまあ、己の下に修業に来たのだから、もみじを愛弟子と呼んだとて咎められはしないだろう。まつはそれで満足だった。
そんな事は露も知らず、相変わらず答えを倦ねて口篭もる愛弟子の口から何があったか聞きたいのは山々であったが、腹を空かせる前田の大飯喰らい共を何時までも待たせる訳にもいかぬ訳で。
「ふふ、吉報ならば良う御座ります。さあさ、夕餉に間に合いませぬ、犬千代様を御待たせする訳には参りませぬ故!」
ぱんぱん、と手を叩き話を打ち切るとまつはきりりと襷を掛けた袖を捲り上げた。するとすぐに「はい!」と元気に答えたもみじは一寸だけほっと肩を落とす。そんな姿をまつの目の端に捉えられて、初心な娘と可愛がられている事などは知る由もなかった。
◎◎◎
もみじがこの頃機嫌が良いのは何を隠そう先日佐助に押し付けられた書簡に原因がある。送り主と筆跡は遠地で芽吹いた想いを向けるその人。
内容はと言えば、使いをさせられた時覗き見た佐助が「うっわ、色気もへったくれもないじゃん。」と呆れる様な極普通の、何でもない物であった。
甲斐は晴天が続いているだとか、御館様は変わらず元気で幸いの極みだとか、佐助が最近八つ時の甘味を減らしてくるだとか。
日常の些事ばかりで、花嫁修業に勤しむ許嫁に向けては、「厳しい修業なれど、もみじ殿ならば必ず果たせましょうぞ、努々精進御忘れ無きよう」と何処の道場で武術修業を受けている相手だと言ってやりたくなる様な激励を寄越す始末。
しかしそれでももみじは舞い上がる程の気分であったのだから、いやはや、恋は盲目、痘痕も靨と言わずに何と言う。
まあ翌晩すぐに書いた返事の内容とて、激励の謝礼に始まり、加賀は雨だのまつが優しいだの慶次が煩わしいだの、終いは「御館様とて病み上がり故、どうか私の分まで武芸を磨き、御力になって下さいませ。」と来るのだから、許嫁とは何ぞやと言う疑問すら浮かんでくる。佐助が現れず返事を出せないで居るのは果たして不幸か幸か。
とは言え、日に日に募る想いと拭えぬ同じだけの不安を、実際駄々漏れであるのだが胸に秘め、花嫁修業も愈々大詰め。首級の代わりに成果を引っ提げて甲斐武田へ、紅の背の君の下へと帰る日は近い。
>>続く