二十四話
「……ゆ、き…むら、さま…?」
赤沢もみじは驚愕した。
気分転換にと川へと出掛け、人目がないのを良い事に調子に乗って水浴びをし、上機嫌で戻った猟師小屋。しかしその入口近くに人影を見付けて思わず茂み身を潜めた訳だが、よくよく見ればそれは焦がれたあの背中ではないか。何故幸村様がこの様に僻地に、と思わずにはいられないのだが、身を隠さねばならぬ相手ではない。とは言え未だに不安が拭えぬもみじに置いては、さっさと出て行く事も儘ならず、なかなかどうして、出難いのだから恋心とは厄介で。
甲斐へ戻るには絶好機に違いはないのだが、どうか早く立ち去ってくれと願いながら、思わず背を向けてその場にへたり込む。
かさりと小さな音に気付いたのは、彼女の愛馬だけだったようだ。
一方で幸村は山中で見付けた煙を辿りこの猟師小屋に到着した訳だが、小屋には誰も居らず。不用心にも竈に焼べられていた小さな火が細く煙を出していたらしい。しかしそれで人が居ると言う事は分かったのだから不用心は良しとして、小火にならぬようにと取り敢えず煤を掛けて鎮火はしておいた。
誰か居れば行方知れずのもみじについて訊ねようと思ったのだが、居ないのでは仕方がない。家主の帰りを待つか、再び山中を探索しようか考えながら小屋の周りを彷徨いていると、猟犬を繋ぐ小屋から気配を感じた。覗いてみればどうも見覚えのある馬が横たわっているではないか。
「…お前はもみじ殿の、」
声を掛けると返事をするように馬は嘶いた。傍に寄り鼻筋を撫でれば大人しく目を閉じるその栗毛。見れば前脚に傷を負って、添え木が宛てられている。恐らく先刻幸村の馬も掛かりそうになったあの罠にやられたのだろう。あれに掛かっては傷が癒えるまでは動こうにも動けまい。
「そうか……」
幸村は事の次第を察した。
怪我をした愛馬の養生の為にこの小屋に身を寄せたが、場所がこの様に僻地では安否の連絡も出来なかったのであろう。取り敢えずは無事でいるようだと分かれば少しばかり安心を覚えた。しかし一方でその姿が見当たらない事に疑問を持たずには居られない。物を言えぬ相手と分かっていながら幸村は、気持ちよさそうに撫でられている栗毛に訊ねた。
「…もみじ殿は、如何されたのだ?」
するとどうだろう、今まで閉じていた瞼をぱちりと開けて栗毛はその鼻面を擡げて幸村の後ろの方を指し示す様に首を伸ばすではないか。
居所を知っているのだろうか、と半信半疑振り向けば、低木の茂みがそこにはあった。
「あれか?」
指差して問えば栗毛はそうだと言わんばかりに息を吐く。
武田の馬は賢いとは言え人語を理解し問いに答えるなんぞは俄かに信じがたいのだが、幸村の馬までもが、さっさと行けと言わんばかりに背を押してきたのだから、様子くらいは見てきても損は無かろう。厭に高圧的な馬共に肩を竦めながらも幸村は茂みの方へと足を向けた。
そんな事になっているとは露も知らぬもみじは出来るだけ小さく蹲り幸村が去るのを只管に待つ。周りのことなどに気を払う余裕すらない。
心の臓が体内から飛び出してしまいそうな程に忙しく喧しく脈打って、治まれ黙れと唱えても全く以て言う事を聞かぬのだから何だか泣けてきた。
纏まらぬ心持ちに例えようのない気分を味わい、持て余して如何にも出来ない事にまた何とも言えぬその感情に唇を噛む。
丁度それと同時にかさり、と草葉を掻き分ける音が耳を掠めて反射的に顔を上げた先。
「もみじ殿…!」
「ゆ…幸村さ…ま………」
驚く幸村を前にもみじの頭は真っ白になって、それ以上は何も言えなかった。
>>続く