二十五話


「泣いて…おられたのか…?」

真田幸村は戸惑った。
否、その身の無事が確認できたのは幸いだが、自身を見上げるその双眸にうっすらと張る水の膜に穏やかでは居られない。怖ず怖ずと声を掛ければ今し方気が付いたかの様にはっとその肩が跳ねる。

「わ、あ、い、い、いえ、これは、その…!」

幸村の声によって止まっていた思考回路が動き出し、もみじは慌てて目元を拭って何度も首を横に振った。自分が情けなくて涙が出てきただけだと答えなければならないのに、不安げに歪んだ幸村の顔を晴らさねばならぬのに、どうして涙が止まらない。出さねばならぬのはこれではなくて言葉なのだと分かってはいたが、眼窩が浸水すると言わんばかりに涙腺は次々と排水するのだから困ったものだ。意志に沿わぬその器官を瞼ごと前腕で押さえつける。

「だい、っじ……っ御座いま…せぬ…っ、」

歯を食い縛って唸る様に忍び音混じりにそれだけ言うのが精一杯のもみじだったが、そんな有り様ではとても大事無いとは思い難く、幸村の顔色は益々曇ると言うもの。
女子の扱いになど不馴れな所に持ってきて泣いた女子をどうすれば良いかなど、幸村に分かる筈もなくあわあわと当たりを見渡すも解決の手立てなどは都合良くこんな山中に転がってはいないのだ。放ってはおけぬ、何とかしたい、と言う気持ちだけでは依然咽び泣く細い肩をどうしてやる事もできぬのだからもどかしい。何と不甲斐無い、と嘆くのは簡単だが、幸村は、なれば俺に今出来る事をしようと、ぐっと奥歯と拳を縛って意を決す。くるりともみじに背を向けて隣に無遠慮に腰を下ろした。どすんと言う音にもみじは驚いて、はたと一時涙が止まる。

「ゆき、むらさま…?」
「………っ、もみじ殿。」

顔は窺えぬその背中に呼び掛ければ僅かな躊躇いと共に呼び返されてどくりと脈打った。

「は……はい、此処に」
「か、加賀を出て二十日剰り便りがなかった所以は概ね理解致した故に深くは聞かぬ。」
「い、傷み入ります。」
「………し、しかし、な、何ぞあったのではと……俺は、し、しし心配、致した。」
「!」

どくり、とまた脈打った心の臓はそれだけでは飽き足らず、梅雨の雨音の如く早鐘を打ち出して止まらない。心配を掛けた事を詫びねばならぬのにそれよりも、心を配ってもらっていた事に感激が溢れて言葉が出ない。

「否、俺とてもみじ殿が腕の立つ武人である事は存じている。しかし、やはりもみじ殿は女子に御座る。無論軽んじている訳ではない!だがっ…、出来ぬ事や困った事にならぬとは限らぬと…」
「…っ!」

何処か不安そうな声色で続けられた言葉、幸村にしてはその声量は少なかったが、女子に御座る、とその扱いだけでもみじの心は驚く程満たされた。半月もの間、蟠っていたものは靄が晴れていくように消えてなくなって、鮮明に見えてきたのは只管に真っ直ぐな慕情。望んだ所で報われはしないかもしれないが、そんな事など些事でしかあるまい。
幸村の本心がどうあれ、心配した、女子である、と欲しい言葉は全て賜ったのだから、何時までも愚図って気まずそうなその背中を困らせてはならない、否、困っていてほしくはない。滲む目元を今度こそはと拭えば、涙腺はもう水を吐き出しはしなかった。

幼子の如く抱えていた膝を正し三つ指付いて、六文銭を負う背中に、感謝と謝罪と慕情と敬愛と諸々を込めて、深く深く頭を垂れる。

「御心配御掛け致し、また今し方の御無礼の数々、面目も御座いませぬ。」
「もみじ殿…、なっ?!」

晴れた声色に振り返った幸村はその低姿勢に驚きつつも思わずそれに倣ってしまって、両者は膝を突き合わせる事になった。その一連が済むのを待ってもみじは一層に頭を下げる。

「このもみじ、御処罰ならば幾らでも受ける覚悟で御座います。」
「顔を上げてくだされ、もみじ殿。俺は何も無礼とは思っておらぬし、その様な事も致さぬ。」
「なれど、」
「貴殿が…、その、もみじ殿が無事ならば、それで構わん。」
「幸村様…?」

らしくない、と言ったら失礼ではあるが、思い掛けない返答を寄越され、もみじは半信半疑怖ず怖ずと顔を上げる。
それに見えるは、戸惑う様に照れた様に、ぱちりとした大きな瞳を右往左往と彷徨わせる幸村の姿。膝の上で握った拳は堅く、ぴんと伸ばした肘のせいで大層に肩が上がっている。この姿勢は、悔しいとか嬉しいとか湧き出る感情が大きい時に幸村がする癖の様なもので、大概にしてそう言う時は言いたい事はあるのだが言葉が見付からない時であるのをもみじは知っていた。故にそれを待つのは苦でなくて、静かに次のを待つ。栗皮茶の双眸を暫し彼方此方と忙しなく彷徨わせて後、膝に乗せた拳を更に握り締めて幸村はがばりと顔を上げた。

「……っ、もみじ殿ッ!!!」
「は、はい…ッ!」

僅かに身を乗り出した幸村の腹から繰り出される大声に気圧されて、思わずもみじの肩が跳ねると、勢い余った、と幸村はまた綺麗に座り直して言葉を続ける。

「……俺は、このひと月半、甚く空虚で御座った。」
「空虚…、でありますか?」
「ああ。佐助にも指摘されてな、心此処に在らずといった事が多く、御館様にも御心配御掛けしてしまった程だ。」
「何と!御身芳しく御座らぬのですか!?」
「俺も始めは風邪でも引いたかと思ったのだが、そうではなくて、寂しいとか虚しいとかそう言う類の気分のせいで御座った。」
「左様で御座いましたか。」

幸村の身体が難儀でない事にほっとしつつももみじは何だか共感してしまった。彼女の場合は空虚と言うよりはもどかしいと言うか、空っぽではなく溢れそうな気分でいたし、嬉しそうだとまつに指摘を受ける程ではあり、空と満では真逆なのだが、どうしてか通ずる気がしてならない。その答えを気にしながらも頷いて相槌を打てば、そして、と幸村は話を続ける。

「そう言う気分に成るのは決まってもみじ殿の事を気に掛けた後であったのだが、」
「!!?なっ、ななっ、な、な…ッ!?」
「い、如何わしい事では御座らん!!」

もみじはただ、思いも寄らぬ言葉に驚きやら喜びやらで頬を染め、言葉にならぬ声を上げているだけで、誰も如何わしい等とは一言とて言っていないのだから、矢継ぎ早に否定しては逆に怪しいと言うもの。とは言え、そんな事など考えてもいない上、衝撃的な言葉に頭が回らないもみじは気付くどころか意味も分からず頷くしか出来ないので問題はないようだが。

「きっ、気を抜くと、日々の鍛錬の合間にさえ、もみじ殿に想いを馳せてしまった。何をされているかや息災であるか、不自由はないか、気になり出すと尽きぬし、他事がままにならぬ。」
「なん、と…、」

どこかで覚えのある言の葉共はもみじに戸惑いを与えながらも淡い自惚れまでもを寄越し、驚きと喜びに跳ね上がった脈を更に飛び上がらせて、頬に顔に熱を集める。ほわほわと浮かされて思考を遮られそうになりながら、尚、幸村の紡ぐ言葉の先を聴きたくて、知りたくて、同じ様に頬を紅に滲ませるその人の双眸を受け止めた。

「………しかし、俺にはこの気分が何なのかは解らぬのだ。今までに知り得ぬ感情故に。だが、只の一つ間違い御座らぬ想いはあった。」
「想い、が…?」
「うむ。」

ゆっくりと頷いた幸村は僅かに躊躇った後、頼もしいとは言い難くも、愛おしげな笑顔をもみじに向けて言う。

「……もみじ殿、御会いしとう御座った。」
「ゆ、幸村様……!!!」

頬に耳に、紅を滲ませた幸村の言葉はもみじに呼吸の仕方を忘れさせた。調子が合わずに空気が身体に入ってこない。思わず両手を口許に宛ててそれを助けようとするが上手くはいかず。息は苦しいのに不思議な事に辛くはないのだからどうすればいいのか本人すらも解らなかった。ただ、淡く芽生えた自惚れと加賀で認めた溢れそうな気分が堰を切って止められそうにない。

「もみじ、殿…?如何された…?」
「ゆき、幸村、様…っ、」

再び涙腺が排水を始めれば、小さく肩も震えた。そうなれば変化に気付いた幸村が心配そうに眉根を寄せるので、もみじは首を横に振る。
自惚れではなかろうか、言うて困らせはしないだろうか、諸々の思惑が駆けずり回ったが、溢れたものは戻す事叶わず。とは言えその返事を今まさに零れんとする涙のせいにだけはするまいと、もみじは乱暴に目許を拭って頬を叩いた。
ぱん、と音が響けば頬に走る痛みと共に思惑共は息を潜めて、変わりに僅かな自信が沸いてくる。突然の行動に幸村は驚いて目を瞬いていた。

「幸村様、」
「!……どうされた、もみじ殿。」

その名を呼べば、 多少の戸惑いを見せたものの、きちんと受け止めてくれた幸村を見上げて、もみじは意を決す。

「幸村様、もみじめも、幸村様に御会いしとう…御座いました。」
「ま…真で御座るか…?!」
「ま、真に御座います。……っ、そ、それから、」
「む?何だ?」
「…っ、お、お、」
「お?」
「お……っ、御慕い申し上げております!幸村様!」
「!!?」
「このもみじ、業を修めた身に御座いますが、不束者には変わり御座いませぬ…!そ、それでも、御傍に在る事、御許し頂けますか…!?」
「…な、なな、な、な、な…っ!!!お、お、俺は…!!」

御互い真っ赤な顔をしてそれはまさに精一杯と言う言葉が相応しい。
僅かに口篭もった幸村であったが、今の遣り取りで何かが解ったらしく、きりりと表情を引き締め、己を真っ直ぐ捉えるもみじの双眸を見詰め返した。

「もみじ殿…っ、俺とてまだ未熟故、己の内さえ定かにならぬ事も御座る!しかし、しかしだ!女子に其処まで言われて気付かぬ程の馬鹿では御座らぬ!この幸村、今の言葉、しかと受け止め申した!」
「幸村様…!」
「俺のこの心持ちがもみじ殿と同じ物かは正直、まだ測りかねる故に、此処で答えるは不誠実で御座る!それだけは致したくない!今は分からずとも必ずやこの内を解き明かしてみせる故、どうかそれまで御待ちくだされ!」
「謹んで…!」
「忝ない!して、斯様に不甲斐無くとも構わぬと、俺の傍にと言うてくれるのならば、もみじ殿、此より後も伴に…!!」
「勿論に御座います…!!」

そうしてもみじは幸村に連れられ甲斐へ戻ったが、幾許もせぬ内に幸村がその心持ちを解明し、上田へ輿入れをする事になる。
しかしそれはもう暫し後の話。





身も魂も捧げ奉りますれば!



>>終わり

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