八話
「ではもみじ、行って参ります。」
赤沢もみじは御辞儀をした。
昨日、朝一番で加賀前田に花嫁修業の旨を綴った書簡を持って行った猿飛佐助が、昼頃に是の返事を持って帰還してから、善は急げと言わんばかりにあれよあれよと旅支度を済まされ、本日に至る。
しかし、幾ら急いだとて、昨日の今日で女子の旅支度が終わる訳などないのが普通だが、彼女は普通の女子が持つ様な着物の類は殆ど持っていない為、何着かの袴と着流し、愛用の武器程度で支度など済んでしまったのだ。
栗毛の愛馬に少ない荷物を括り、袴姿で腰に愛刀を連れ立ち、傘に合羽。とてもこれから花嫁修業に向かうと言う女子ではない様な出で立ちで躑躅ヶ崎の屋敷の門前で皆と対峙している。
ただ、一番見送らねばならないであろう真田幸村の姿はどう言う訳か見当たらない。
しかし、そんな事は気にも留めていないらしいもみじが軽く頭を下げれば、信玄は深く頷いた。
「うむ。気を付けて行って参れ。」
「はっ!御館様、この度の御計らい、大変有り難う存じます。このもみじ、修業を果たし、必ずや帰還致します!」
不本意だった筈のもみじはどうも信玄の口車に巧い事乗せられて丸め込まれたらしい。伴侶になる男がいないにも関わらず、真っ直ぐした瞳を輝かせて拳を握り、戦か何かに行く時の様に意気揚々と気合いを見せていた。
熟々単純な女である。そんな様子を見守っていた佐助は思わず苦笑した。
「ちょっとちょっともみじちゃん。それ大将じゃなくてもっと別の相手に言うべきじゃないの?」
「へ?」
彼の言葉にもみじは目を屡叩く。
自らの意気込みを主君以外の誰にぶつけろと言うのか、彼女にはその意味を理解出来なかった。ただ首を傾げるもみじに、佐助はやれやれと肩を竦め「先が思いやられますね」と信玄に耳打つ。信玄は小難しい顔をして小さく唸った。
「もみじ殿…!!」
「!」
と、そこへバタバタと土煙を上げ、漸く現れたのは真田幸村。息を切らせてやってきた彼にもみじは、はたと目を見開く。
この修業は幸村に嫁ぐ為の花嫁修業であった事を思い出したのか、仄かに頬に朱が差す。何も緊張する事などない筈の相手なのに意識してしまうとどうもそういう訳にはいかないのはどうやら彼女も例外ではないらしい。
「幸村様!!」
「もみじ殿!間に合って良かった!」
「どうされたのですか?そんなに急いで、」
……訂正しよう。
もみじはどうやら無意識らしい。しかも都合が良い事に、季節はまだ寒さが残る頃。鈍感な幸村はもみじの変化に気が付かないし、彼女も無意識の為に2人は至って普通であった。
「修業に行かれると聞いて、俺に何か出来ぬかと考えていたら、遅くなってしまって申し訳御座らん。」
「私なんぞの為に何もそこまでされなくても、」
「い、いや…!こ、此度は俺も関わっている故…!!」
「!」
遠回しだが、ギリギリ精一杯に言った幸村にもみじも漸く修業の目的を思い出したらしい。頬の朱が少し色を強める。
暫し沈黙を挟んだが、幸村が口を開いた。
「もみじ殿は強くあられるから、道中の心配など無用かもしれぬが、良ければこれを。」
そう言って、ずいっと突き出したのは四寸四方程に折り畳まれた紅色の布。何なのか分からないが、所々に汚れや傷が目立つそれを受け取り、もみじは首を傾げた。
「幸村様、これは…?」
「真田の軍旗に御座る。幾度も戦にて背負うてきたが、決して破けた事がない物を持って参った。お、御守りの代わりと言ったら風情がないのだが、持っていかれよ。」
「風情がないなど、そんな事は…!!」
初めは凛々しく頷いた幸村だったが、徐々に語勢は弱まり、照れ臭そうに目線を逸らして言葉を紡いだ幸村に首を横に振ってもみじはそれを胸に抱く。
「あ…、有り難う、御座います…。」
釣られて俯き彼女は許婚に礼を述べる。
この時、もみじは何やら沸き上がる様な熱い気分を覚えたが、幸村の気遣いが嬉しいと言う感情として片付けてしまったのだった。
>>続く