駄目だ。いかん。
このままではいかん。
今日中に始末しなきゃならない書類が机の端に積み重なっていると言うのに、チーフに渡された状態から一枚たりとも減っていない。
いかん。駄目だ。
仕事が手に着かない。
衝撃的な事実を突き付けられ、朝から頭がぼーっとしてしまっているのだ。
幸いなのは整備士が必要なアクシデントがまだ起きていない事と、今日はダブルトレインが人気で白ボスが事務室に帰ってこない事か。
安心したような寂しいような変な気分が渦巻いて、私は溜め息を吐く。
しかし、私の脳にはまだこんな乙女な状態、所謂恋患いを繰り出す機関が残っていたとは驚きだ。風邪の次はこんな面倒臭いものを患うとは、我ながら呆れて物も言えない。つーか、何も手に着かないとが、思春期じゃあるまいし、格好悪過ぎるだろ私。
情けないやら恥ずかしいやらでまた私は溜め息を吐いた。
全く、口から出るのは溜め息ばっかだし、仕事をすべき右手はペンをクルクル回すだけだし、あー畜生、悔しい!相手が白ボスだから余計悔しい。
そんな感じで何も出来ないままでも時間ばかりは過ぎていき、仕事を一切しないまま私は昼休みを迎えた。
ちらほらと事務室から休憩室に向かう人の流れを観察しながら御弁当を取りにロッカールームに足を向ける。
何もしてないのにお腹が空くとは燃費が悪いな、なんて思いつつ、ドアノブに手を掛けた時、管制室から黒い塊が飛び出してきた。
「バニラ!丁度良い所に!」
「どうしました?」
言わずもがな、黒い塊とは黒ボスなのだが、私を見付けて振り返った彼は、僅かに眉間に皺が寄った表情をしている。黒ボスの鉄仮面が崩れるとは珍しい。一体何があったというのか。首を傾げて問えば、黒ボスは私に歩み寄りこう言った。
「スーパーダブルの回送列車が線路上で突然停車いたしました。」
「………は?」
信じ難い言葉に間抜けな声が漏れる。だって、スーパーダブルトレインは先日不具合があったから直したばっかりなのに…。
ただ、ただ、目を瞬く私とは反対に、黒ボスは淡々と言葉を続けた。
「原因は現在調査中です。他車両の進行を妨げる箇所に停車はしておりませんが、車両本体の確認が必要に御座います。聞けば、あれを最後にメンテナンスしたのは貴女だそうですが、間違い御座いませんか?」
「あ、ええ、はい。」
「では至急現場に向かってくださいまし。規則上、わたくしが向かう訳には参りませんし貴方の方がシステムの状態には詳しいでしょう。回送列車ですので、お客様は御乗車されていませんが、駅員が1名乗っていると思います。システム確認と避難誘導を宜しく御願いいたします。」
「………。」
「バニラ?」
「………。」
「バニラ!聞いているのですか!?」
「わぁっ!!?あ、はい!解りました!直ちにスーパーダブルトレインを確認してきます!」
色んな事がこんがらがって、ぼーっとしてしまっていた私に黒ボスの檄が飛ぶ。我に返った私は、背筋を伸ばして敬礼し駆け足で現場へと走った。
頭の中で、先日メンテナンスしたばかりのスーパーダブルトレインの機関部を思い出しながら。
▽▽▽▽▽
昼時の為か、人が疎らな中央ホールから乗車口に向かい、線路上に飛び降りる。ホーム下に収納されている整備用のトロッコを引っ張り出してそれに乗り込んだ。何処に停車してるか今一明確じゃない列車を歩いて探すってのは大変なことくらい学習しているんだ、私だって。
兎も角、ランプラーから灯りを貰いながら奥へとトロッコを走らせること約10分。
本線から枝分かれする緊急停車用の線路にローズピンクのラインが描かれた列車が姿を現した。車内の電気が点いてないし、緊急停車用の線路にいるって事はやっぱりトラブルがあったんだろうか。困ったな、責任問題とかになんなきゃ良いけど。
兎に角、まずは乗車してると言う駅員の安全確認だ。車内の様子を伺う為、列車の後ろにトロッコを停め、一番前の車両に付けられたら梯子を登ったら、ドアを開けるため、ドライバーをその隙間に捩じ込む。
嗚呼、こんな事が前にもあったな。
あの時はただ庇護意識が擽られただけだと思ってたのに、図々しくも私がいないと駄目だなんて思い上がっているなんて。
そこまで想いが募っていたのについ今朝まで気付かないとは我ながら阿呆だな。
自嘲を浮かべつつ、ドライバーに体重を掛けて梃子でもってドアを開く。抉じ開けたそれから身を乗り出して車内を見るも誰もいない。
可笑しいな、回送列車と点検運転列車に乗車する職員は先頭車両で待機の筈なのに。そのまま車内に上りきり、辺りを見渡すと、操縦席、と言っても自動操縦なので緊急時しか使えないのだが、その陰に何かが見えた。
何かと思って、操縦席に踏み入れば、小さく、出来る限り小さく蹲るそれはその音に気付いて顔を上げる。
「あ……バニラ…来て、くれた……」
弱々しい声と救世主でも見上げる様な潤んだ目に、きゅんとこっちまで切ない気持ちになった。嗚呼、この人はまた、私を思い上がらせるのかしら。
「大丈夫ですよ……白ボス。」
そうだとしも、私はまたこの人に言い様のない昂ぶりを抱かずにはいられなかった。
白ボスとふたり