路上から愛を込めて

 その男に気づいたのは、秋も深まった10月の事だった。

誰かと待ち合わせでもしているのか、俺たちの演奏に耳を傾けながら、車にもたれて遠くヒーロー事務所の入っている背の高いビルを見つめている。

 長い鮮やかな金の髪を後ろでくくり、年代モノだろうデニムを履いた長い足を投げ出して、心ここに非ずと言った様子の彼は、何故か不思議と華があり、安っぽい音を立てるキーボードで冷えてしまった手に、ほうと息を吐いて温めながら、何とはなしに眺めてしまう。

 男相手に華があるというのもおかしな話だが、きっと芸能関係者か何かなのだろう。高そうな車を背もたれにして、俺たちの演奏が終わりを迎えたその頃に、目を伏せ自嘲気味に笑って、俺たちの前に置かれたウッドベースのケースに金を入れると、車に乗ってどこかへと走り去って行った。目当ての人は来なかったらしい。すっぽかされてしまったのだろうか。度々姿を見るようになったその男は、いつも誰かを待っていて、そしていつも一人去っていく。

 街路樹の銀杏も落ちて枝が目立つようになったころ、青い瞳が印象的な一人の女性が俺たちの前で足をとめるようになった。肩ほどに伸ばした髪をマフラーでくしゃくしゃにしながら、スーツケースを引いた彼女が初めて現れたのは、帰宅ラッシュも終わった頃で、こんな遅くに大荷物でどうしたんだろうとやけに印象に残っていた。どうやらビルのどこかに用事があるらしく、暫く曲を聞いてから、俺たちの前に置かれたウッドベースのケースに一枚千円札を入れた。

 耳触りの良いジャズを奏でる霜月の夜。例の男がまた顔を見せた。いつものように車に寄りかかり、こちらに耳を傾けて、目だけはビルに向けていた。いつもと一つ違うことが起きた。まだ演奏も終えていないのに男がこちらに歩いてきたのだ。何事だろうと目をあげるとウッドベースを弾くメンバーがビルの入り口を顎でしゃくった。

 あの夜スーツケースを引いていた、青い目の女性がひとり、ぽかんと口をあけ立ちすくんでいる。視線の先にはあの男がいて、ゆっくりと彼女に向かって歩いていくが、彼女は泣きそうな顔をしてビルの中に消えて行った。取り残された男は頭をがしがしとかいて、いつものようにウッドベースのケースに金を入れ、また一人去っていく。

 何度か同じようなことが続き、俺たちの間では何があったのかという話題で賭けが行われ始めた。人の人生を覗き見た下卑たギャンブルは「男の浮気に怒って出て行った彼女」という説が優勢で賭けにもなんにもなりはしない。

 またある日、いつものように男と女が俺たちを間に挟んで立ちすくみ、いつものように彼女が背を向けた。ただしその日はいつもと様子が違った。男がガードレールを見事な身のこなしで飛び越え、彼女がビルに入る前に腕を掴んだのだ。乾いた音とともに男の頬に平手が飛んで、泣きそうな顔で彼女が男の胸に縋った。襟首を掴んで引き寄せたかと思うと二人の唇が重なり、それから彼女が悲しそうに微笑んでビルに消える。あとはいつもと同じ、呆然と立ち尽くした後、落ちたメガネを胸にかけ、また男が一人で去っていく。

 「リクエストってできる?」その声に目をあげると、手首の効いた見事な平手を見せてくれた青い目の彼女が俺たちの前にしゃがんでいた。千円札を二枚出し、古い洋楽ポップスの名を上げる。目を瞑りしゃがんだまま耳を傾ける彼女に、ジャズアレンジしたナンバーを奏でていると、ウッドベースを弾くメンバーが目を剥いて音をはずした。



 彼女の後ろに、あの男が立っていた。


 音もなく立つ男に気づかぬまま目を瞑る彼女の肩に、彼がそっと手を置いた。

「Hey、待って逃げないで」

 ビクリと震えて立ち上がった彼女の手を取り両手を封じると、彼が穏やかな声でそう言った。俺たちはまだ演奏を続けながらも、どうする?と目線でちらりと彼女の顔を見た。

 彼女の目は意外にも穏やかで、俺たちを見ると大丈夫と口だけ動かし微笑みを浮かべる。

「逃げるに決まってるじゃない」

「全部俺が何とかするってば」

 彼が彼女を抱きしめ、耳元で何事かを囁くと、でも、だとか、だって、などと彼女が言葉を紡ぐ。何を言っているのかは聞こえなかったが、だんだんと彼女が大人しくなって、天を仰いで泣きそうな顔で目を閉じ、わかった。と一言絞り出すように言って頷いた。

 お騒がせしましたと人懐こそうな笑顔で言うと、一万円札をウッドベースのケースに入れ、販売していたCDを片手に、彼が彼女の手を引いて去って行った。何が起きたかわからぬまま、俺たちは彼女のリクエストした曲を弾き終え、顔を見合わせた。

 しばらくして有名なヒーローがDJを務める深夜のラジオ番組で、俺たちのオリジナルジャズが取り上げられた。彼の結婚報告が発表された回で流されたそのCDはインディーズチャートで記録的な売り上げを叩きだした。

 何が起きたかわからぬまま過ごす慌ただしい日々のさなか、偶然つけたTV番組では、件のラジオDJの結婚記者会見が執り行われている。スポンサーとの盛大なバトルの末、番組取りつぶしの危機を乗り越えて、隣に座る綺麗な女性と一緒になるのだと言う。

 画面に映る幸せそうな二人は、どこかで見たような金の髪と青い瞳をしていて、俺たちは全員で顔を見合わせ、例の下卑たギャンブルで賭けていた金を、彼のラジオのチャリティーに送り付けることにしたのだった。