唇まで何cm

 別れ際、どちらからともなく言葉が途切れ、彼女の家の前でじゃあまた、なんていう言葉を交わす。女性にしては背の高い彼女に、ほんの少しだけ身を屈め、そのすべらかな頬に手を添えると、俺を見上げる彼女の潤んだ瞳が誘うようにゆっくりと閉じられ、冬の冷気のせいで少し冷たくなった唇を重ねた。

「…おやすみ。送ってくれてありがとね!」

「ああ、おやすみ」

 はにかんで手を振り、マンションに消える彼女を見送り俺も歩いて帰路につく。恋愛に不慣れなのはお互い様で、キスだってまだ数える程だ。お約束のように別れ際、ただ唇を触れさせるだけのコレは、世の中の恋人たちがいうキスとは程遠いような気もしてはいるが、それより何より気になっていることが一つある。


彼女は俺にキスをしない。


「今日はどこ行く?」

「マイクが美味いって言ってたイタリアンと、馬肉が美味かった個室居酒屋の2択」

「どっちも捨てがたいけど、今日は馬肉かな」

 仕事上がりにわざわざ着替えて待ち合わせ、一応デートらしいことをするようになった。付き合って3か月。それまでは着替えもせずにヒーロースーツのままラーメン屋に行っていたのだから、自分たちにしてはなかなかの進歩だと思う。

 彼女はいつも食事を美味そうに食べるものだから、ついつい夕飯に連れて行くだけの、他の女性ならフラれていてもおかしくないデートコースになってしまう。そうでなくとも普通の女性ならば、電話が鳴ると自分を置いて消えるような男は願い下げなのだろう。過去に彼女と呼ぶような女性は居るには居たが、大体彼女を置いて出動すると幾度目かのデートで別れを切り出されてきた。

目の前で出動要請が来ていないか携帯端末をチェックする彼女には不要な心配らしく、馬刺しの盛り合わせを頼んでやると目を輝かせ、さすが相澤わかってると肩をばしばし叩かれる。男友達のようでいて、それとはまたちょっと違う気楽な付き合いが、心地よく少しもどかしかった。

「明日は先生の仕事?」

「そうだな、学校の後、夜はお前と同じヒーロー業だよ」

「相澤が先生やってるの、未だに想像できないわ」

 失礼なやつだなと目を向けると、いつもは肩の下にあるはずの彼女の頭が、今日は少しだけ近い。彼女の家まであと100mといったところだろう。切れ長の目と視線があうと、少しだけ背伸びをした彼女が俺の肩をつかみ、逡巡するような素振りを一瞬見せて、ちょっとごめんと足を止めた。

「慣れないことはするもんじゃないね」

 言いながら脱いだヒールの踵は細く高く。踵のストラップを手にひっかけた彼女が、腰程の高さの、石造りの柵の上を器用に歩く。まるで猫のような彼女の手を取って、足を見やると少しつま先が白くなっていた。

「…行儀悪いぞ」

「足が痛いからちょっとだけ」

「仕方ない…お前の家の前までな」

こちらを見下ろして笑う彼女からヒールを取り上げ、片手を取ってゆっくり歩く。

なんだか映画のワンシーンみたいだと無邪気に笑う彼女に、相手が俺じゃ画面映えしないだろうと苦笑して、ふと、何故なのかと不思議に思ったことを口に出す。

「いつもみたいにブーツにしとけば良かったんじゃないのか」

 血の気を失ったつま先。右手に持った彼女の靴のヒールはおそらく7pはこえていて、いつものワーキングブーツや控えめな踵のパンプスでも良かったのにと思いそう言うと、器用にくるりと柵の上で方向転換をした彼女が手を引きながら笑って言った。

「わかってないな、相澤は」

 彼女の家まであと数メートル。パンプスを返してやって彼女の手を取り履き終えるまでその手を支える。踵のストラップをはめた彼女が少しでも楽に歩けるようにと、支えた手はそのままで家への道を行こうとすると、彼女がついと袖を引き、待ってと一言つぶやいた。

「どうした?やっぱり脱いでくか」

「んー、そうじゃなくてさ」

 ヒールを履いた彼女のいつもより近い視線。切れ長の目が細められて睫毛が意外と長い事を知る。下唇に一瞬触れる暖かく柔らかい感触が、呆気に取られている間に離れていった。

「コレじゃダメだったみたい、ちょっと届かないや」

 急にごめんねと背中を向ける彼女の耳が赤く染まっているのは、きっと寒さのせいだけじゃないだろう。うっすら残るその感触に、どうやら不意打ちされたらしいと思い至る。

「…そういうのは言ってくれ」

 彼女からは届かないのだと、思い至らなかった自分を棚に上げて己の唇に指を這わせる。あと数センチだけ足りないのだろう、下唇に残った感触は本当に一瞬で、いまはただ乾燥した自分の唇が指先に触れるのみ。

照れ隠しにしては下手な言葉を投げかけた俺に、彼女は艶やかに微笑むと、いつもより少し甘やかな声で呟いた。


「わかってないな、相澤は」