理由

 一匹の黒猫が肩によじ登り、踏み台になれと囁いて俺の肩に小さな爪を立てた。肉のひしゃげる嫌な音を聞きながらはるか頭上にある高窓の下にくるよう身を屈ませると、ふわふわとしたその毛皮に右手で触れながら、俺はそいつとのチームアップを決めた時に腐れ縁の同期から言われた言葉を思い出していた。

「お前ってホントに猫好きだよな」



 目の前で喉を鳴らす大きな黒いその獣は、雨に打たれて、てらてらと光る毛皮を毛羽立たせると、のそり、とそのしなやかな体躯を横たえた。

 「今日組む相手は猫だってよ」と投げかけられる言葉に適当に相槌を打ちながらも、内心興味津々で眺めた警察資料に思いを巡らせる。

 確かにあそこでみた写真の姿は、小さな黒猫だったはずだ。鈴のついた赤い首輪にくりっとした鮮やかな緑の目。これで人の言葉で話をするというのだから、少し楽しみにしていたのだが、目の前にいるコレはどうみても猫というにはいささか大きすぎる気がした。

「お疲れ様」

 ゴロゴロと喉を鳴らす要領で発音しているのだろうその声は、ざあざあと地面を打つ雨音に混ざると聞き取りにくい事この上なかったが、目の前の大きな黒い獣は、頬まで裂けた大きな口で確かに人間の言葉を紡いで見せた。

「ああ。お疲れ」

つるりと丸い後頭部に、雨粒が一つ二つとはじかれて玉になっているのを見つめながら返事をすると、おや、というように緑の双眸が俺を見上げた。

「へえ、ちゃんと返事をして貰ったのは初めてだ」

「言葉を喋る、と資料にあったからな」

「大体悲鳴を上げられるよ」

 笑い声なのだろう、くっくっと小さく喉を鳴らして伸びをしてみせると、黒い獣は尻尾をくるりと体に巻きつけるようにして目の前に座った。ぴりりと片耳を振って雨粒をはじく様子は、なるほど猫らしいが、このサイズはどうみても猫という可愛いものではない。

「猫、と聞いたんだが」

「今は豹だよ、猫にもなれる」

 今日の仕事上、猫では戦闘に向いていないから。とうっそりと緑の目を細めると。好きなのかい、猫。と面白そうに呟いて、その獣は鋭い牙を覗かせた。多分笑っているのだろう。

「今日は店じまいだから、もう元の姿に戻るよ。この姿は消耗が激しいんだ」

 大きな獣はのそりと立ち上がると、ちょっと失礼と足の間を通り過ぎ、壁際に置いていたボストンバッグの前でひょいと二本脚で立ち上がった。あの写真で見た猫の姿に戻るのだろう。

捕縛布を解きながらぼんやりとその後ろ姿を眺めていると、骨を折るような音と共にぐにゃりと獣が背を曲げて床にくずおれた。

声にならぬ声を上げ、ガリリと床をのたうつ手がコンクリートの表面を削る様を眺めながら、気づくと俺の手は、段々と小さくなるその背に伸びていた。痛みに喘ぎ苦しむその背を撫でようとした手の先で、ずるり、と毛皮が剥げ落ちて、一回り小さくなった華奢な身体は、猫とは似ても似つかない。

「猫じゃなくてガッカリしたろ」

 黒い髪をふり乱した華奢な体にボストンバッグからタオルを取り出してかけてやりながら、なんと声をかけたものかと思案していると、牙の目立つ口元を苦しげに歪ませてそいつが笑う。獣の時と同じように、俺の顔を見あげてうっそりと細められるその美しい瞳は、写真で見たあの猫と同じ鮮やかな緑色をしていた。



「ほら踏み台、ぼうっとしてないでしっかりしな」

 するりと頬を撫でる手に顔を上げると、こちらを見下ろす緑の双眸と目があった。出会った時と同じように細められたその瞳を見つめながら、その白い喉を撫でてやると、人間の姿のままそいつはゴロゴロと器用に喉を鳴らしてみせる。

「中に入ったら攪乱だけでいい、後は任せろ」

「相変わらず心配性だな、それとも猫好き拗らせてるのか」

「うるせぇ」

 チシャ猫のように笑って俺の肩を踏み台にひらりと高窓に飛び乗るその姿を見送ると、傍らにある裏口のドアノブに小型の爆薬を仕掛ける。

きっと今頃、骨が軋む身体を抱えて、声も無く豹に姿を変えるアイツが、あの時のように一人で痛みに耐えている頃だろう。初めてその姿を見たとき思わず手を伸ばしたように、幾度か組んだアイツの手を取っていたのは、俺には自然な事だったのかもしれない。

 その理由は一体何なんだ、と問われると、思い至る気持ちは一つしかないのだが、それを認めるのも躊躇われた。

「そうだな、きっと猫だからだ」

そういうことにしておこう。良い年した男がするもんじゃない。一目惚れなんてものは。