金の蜘蛛糸

 箸が転がっても可笑しい年頃とはよく言ったもので、鼻歌交じりに板書する中、誰かがあげた「蝶だ」という声で教室はやにわにざわめきたった。まぁそりゃ締め切った教室内に蝶々が飛んでいたら、外に出してやりたくなるのが人の性ってものだろう。授業を続けるにしても、アレを外に出してからだな。と判断し、オレは手についたチョークを払うと窓を開けた。

「うるっっっせェ!!虫けら一匹で騒ぐんじゃねぇカスども!」
「あら、甘い匂いでもするのかしら。爆豪ちゃんの頭に止まったわ」
「しねぇわ甘い匂いなんざ、誰かさっさと取れや」

 そう言いながらもじっとしている爆豪の頭に止まる一匹の蝶々は、黒い縁取りに囲まれた羽に鮮やかなコバルトブルーが美しいアオスジアゲハだった。故郷でも見たその蝶は未だに爆豪の頭から飛び立つ様子はない。近寄ってひょいとその羽をつまんでみせると、隣の席に座るロッキンガールが、あっと声を上げた。

「あれ?!虫ダメじゃなかった?」
「ンー?蝶一匹くらいなら触れるゼ」

 正直、今も鳥肌が立つぐらいには苦手だ。こうしてなんとか触れるようにはなったが、綺麗な蝶とはいえ腹の部分なんかは見たくないので、視線を外したまま窓の外に逃がしてやる。指先についた鱗粉を擦って落としながら、ひらひらと不規則な動きで飛ぶその姿を背に、窓を閉めようとサッシに手をかけると、八百万がやにわにガタンと席を立って声を上げた。

「あっ、いけませんわ先生。そちら側には確か…」

 指差す先を視線で追うと、そこには陽の光に照らされて、キラキラと金色に輝く蜘蛛の巣があった。真ん中には獲物を待ち構えるように、黄色と黒の脚を伸ばした大きな蜘蛛が一匹。先ほど逃がした揚羽蝶は、ひらりひらりと頼りない動きでその巣に向かって飛んでゆくところだった。



「突入の準備、整ったわよ」

 ガサリ、という音と共に背後に現れたその声の主は、決まっていつも少し距離を取ってオレに声をかけてくる。初めて会った時に思わず個性を発動しかけたオレを気遣ってのことらしい。彼女がかけた見えぬ糸のつり橋を伝い、ビルの間を空中散歩。潜入したら最大音量で叫んで戦力を無効化してやるのが新人であるオレの仕事だった。

「All right!いつもながら仕事が早ェな」
「苦手なのにいつも悪いわね」

 苦笑交じりなその声に振り向くと、口元をマスクで覆ったドレスのようなヒーロースーツを着て、後ろ手を組んだ彼女が、音も無く給水塔の上に降りてくるところだった。

女性らしい柔らかそうなその背から、月の光を受けててらりと濡れたように光る黄色と黒の縞模様。なだらかなラインを描く胴体とは不釣り合いなほどゴツゴツとした6本の脚が、その細い背に隠れるようにするりと縮こまって消えた。

仕舞うことはできないのだと聞いたことがある。背に隠しているのだろう。自分の体を隠すようなその姿勢に、チクリと胸が痛んだ。

「確かに苦手だけど、キミは美人だからヘーキだぜ」

 確かに虫は苦手だが、何度も組む彼女はとても魅力的だった。救助者に悲鳴をあげられようが、子供に泣かれようが、組んだ相手に叫ばれようとも、柔らかい笑みを湛えて優しく接するその姿に魅かれ、最近は組む度に好意を伝えているのだが、毎回のらりくらりと躱されてしまっている。

「マスクの下も見たことないクセに」

 クスクスと笑う声とともに、切れ長の目が細まって、黒目がちな瞳が弧を描く。その優しい目が好きだと、何度伝えたかわからないが、未だにマスクで覆われた彼女の口元は見たことが無かった。

「見せてくれんの?」
「口も蜘蛛みたいだから隠してるのかもしれないわよ。キスする相手にしか見せないの」
「オレがキスしたいって言ったら?」

 耳に着けた警察無線が空気を読まずに突入を告げる音と共に、彼女がざわりと脚を伸ばして宙に浮いた。虫への恐怖心は未だに拭えず、その脚の動きに全身が粟立ってしまうのが止められず、手袋から少しだけ露出した手首に目をやった彼女が目だけで笑った。

「突入ですって。私の事からかってないで、気をつけていってらっしゃい」
「本気じゃなかったら言わないぜ」

 きっとオレの目が真剣だったからだろう。彼女は少し寂しそうな笑顔を浮かべると、さぁ行ってとオレの背を押した。ビルの間に張り巡らされた、見えない糸に足を乗せ、振り向こうとしたオレの目を、柔らかい掌がそっと塞ぐ。

「怖い癖に」

 囁かれた言葉は、悲しそうな、それでいて嬉しそうな色を含んだ複雑なものだ。からかっているわけじゃないんだと、口を開こうとしたその瞬間、しゅるりという衣擦れの小さな音と共に、頬にしっとりと柔らかい何かが触れた。頬に微かな吐息を感じるのは、きっと気のせいじゃないはずだ。

いってらっしゃいという声と共に、目を覆っていた暖かな暗闇がするりとどこかへ消え失せて、そして、振り返ったその先に、もう彼女の姿は見えなかった。



 金色に光る糸にからまり、黒と青の羽をばたつかせてもがく蝶は、きっとこれ以上放っておいたら自ら巣に絡んで身動きが取れなくなってしまうだろう。巣を揺らしながら近寄る一匹の女郎蜘蛛から、オレは揚羽蝶を摘んでまた空中に解き放った。

「蝶は触れるようになったんだケドな」

 残念そうにこちらを見つめる蜘蛛としばし見つめ合う。蝶に迫っていたその蜘蛛までは、ほんの少しだけ手を伸ばせば届く距離しかない、頭を過った瞬間に、背筋がざわりと粟立った。

「…キスするだけならいけねェかな」

深く考えなければ鳥肌を抑えられる程度には慣れてきたものの、未だに完全には断てぬ根深い恐怖心に溜息をついてサッシをからりと閉めると、オレは木に張られた大きな巣を眺めた。

あれから何年経っただろう、未だにキス一つできぬ想い人を、今夜は飲みにでも誘ってみようかと考えながら眺める金色の巣の上で、黄色と黒の鮮やかな縞を持つ大きな蜘蛛が風に揺られていた。