☆Ringtone

 キシ、と小さな音を立て、真っ暗闇にほわりと小さい明かりが灯る。後には決まって微かな溜息、そのルーティンは彼が疲れている時にやる、お約束の癖だった。ヒーロー業界に休みなし。ヴィランも夜は寝てくれれば楽なのだが、奴らには朝も夜も関係ないのだから、こちらも24時間体制を余儀なくされる。全くもって迷惑な話である。

 着信があった夢でも見ていたのだろう。元よりワーカホリックなところのある人だったが、疲れて神経が研ぎ澄まされると、決まって彼は私に背を向けて、起こさぬように幾度も液晶の青い白い光を灯すのだ。後頭部ではねた黒い髪をくしゃりと撫でると「悪い、起こしたか」と、彼が掠れた声で囁いて寝返りを打った。

「出動要請?」
「いや、空耳だったみたいだ」

 まだ明るい液晶画面をベッドに伏せるゴツゴツとした手から、私の手には余る大きな携帯を取り上げると、暗闇の中でうすぼんやりと青白く映える三白眼が瞬いて、私を不思議そうに見つめていた。

「鳴ったら起こしてあげるから、ちゃんと寝なよ」
「いいよ。お前、今日は遅番じゃないだろ」

 不満げに下唇を突き出した彼が、私の手から携帯を取り上げようとするのを、ごろりと背を向けて阻んでやると、未だに「なぁ」やら「おい」やら声をかけてくる彼の手を抱きしめて「おやすみ」と呟いてやった。生真面目な後輩が、「幻の着信音が聞こえるんです」と言って目の下に隈を作っていたことを不意に思い出してしまい、ほんの少しだけ不安になったのだ。

 手の中にある携帯の設定画面を確認すると、私を起こさぬようになのか、いつもより着信音が小さくされていた。なんとかできないものかと一人思案の海に潜っていたら、いつの間にやら諦めたらしい彼の微かな吐息が耳元をくすぐった。

 背に当たる彼の胸が、穏やかに膨らみ、そして耳にかかる微かな吐息とともにゆっくりと萎むのを感じる。なかなか自覚はできないが、自分だけが気づかねばならない、緊急の呼び出しというものは、岩を穿つ水滴のようにじわじわと精神を削るものだ。

 疲れているだろう彼に、今夜は呼び出しがかからぬことを祈り携帯を閉じると、私も彼の寝息に合わせて息をついて、そっと瞼を閉じたのだった。


 彼の携帯を借りて着信音の設定画面を開くと「Alarm_org.mp3」というファイルを選択して決定ボタンをタップする。着信音量は70%、そう音の大きくない音源ではあるが、そこそこ大きめに設定したつもりだ。

「消太の携帯、着信音変えておいたから。これから家では着信音を小さくしないこと。」
「それだと遅番の時に、お前も起きることになるだろ」
「起こしてほしいからいいよ」

 彼に画面を見せながら試しに再生してやると、控えめな「マーォ」という猫の威嚇声からはじまり、二匹の猫が喧嘩して遠ざかっていく音源が再生された。猫の声だからか、勝手に設定されたにしては、彼もそんなに嫌そうな顔はしていない。

「これなら間違えて外で鳴っても誤魔化しやすいし」
「…そうか?」
「何ならマイクに頼んでシャウトを録音させてもらってくるけど」
「実物が隣に居るだけで騒音は間に合ってる」
「だと思って消太が好きな猫で、起きやすそうな音にしてみました」

 手渡した携帯を手の中で弄ぶと、彼がもう一度再生する。ポピュラーな電子の着信音は耳につきやすいけれど、小さく設定したそれは幻聴の元だ。大きな音でインパクトのある自然音を、というのが私が出した結論だった。あれならば万が一外出先で鳴っても…最後まで彼が出なければ、どこかで猫が喧嘩していると思われて終わりだろう。多分。

「喧嘩してた猫は無事なのか」

 カウンターに背を預けて珈琲を飲んでいたら、ふいに彼がそんなことを言い始めた。そういえば以前、野良猫の喧嘩を仲裁していたっけ。思い出し笑いを誤魔化すように、彼に笑顔を向けてやる。

「喧嘩のあとで、仲良く一緒にご飯食べたから大丈夫」

 そう教えてあげると「そうか」とほっとした顔で少し口元を綻ばせ、礼を言った彼はそのまま携帯をポケットに仕舞い込んだ。



「最近良く眠れてそうだな。着信音の効果あったカンジ?」

 予鈴に向けて教材を揃えていると、頬杖をついた隣席の男が声をかけてきた。エメラルドグリーンの瞳でこちらを見上げ、何が面白いのかニヤニヤと笑っている。会話の内容から察するに、おそらく音源の出所はコイツの伝手なのだろう。

「この着信音、お前の伝手だったのか」
「ンー、手伝いはしたけどオレじゃないぜ」

 同じく授業に向かうのだろう。ギシリと椅子を鳴らして立ち上がると、英語の教科書を手際よく揃えて片手に持ち、肩でトントンと背表紙を揃えながらサングラスをかけ直して、マイクは意味深な笑顔を浮かべた。そのまま去ろうとする背を追うと、前を歩く男の口から「マーォ」と聞きなれた猫の喧嘩の声がした。

「笑っちまってリテイク4回もやったんだぜ。あんまり嫁さんに心配かけんなよな」
「…お前の一人芝居かよ」
「いんや。それもう一匹はお前の嫁サンよ」
「そうなのか…どっちも本物の猫だと思ってたよ」
「いきなり電話かかってきてさ、オマエのことで相談があるって真剣に言うじゃん?オレもガチなテンションで対応したワケよ、そしたら猫の鳴き真似出来る?っていうんだモン」
「それは俺にバラしてよかったのか」
「ナイショね!なんて言われてねェし。お礼にってファミレスでランチ奢ってくれたけど、二人でメシ食ったことを、旦那に黙ったままも悪ィからさ」

 マイクは上級生のクラスでの授業らしく、そう声をかけると俺をおいてさらに上に続く階段をのぼり、踊り場でヒラヒラと手を振って姿を消した。やけに律儀な悪友と、悪戯好きで心配性なナマエの録音風景を思い、つい緩んだ口元を引き締めて教室のドアに手をかけると、マナーモードにし忘れたらしい俺の携帯が「マーォ」と鳴いた。

 教室の中からは「どっかで猫が喧嘩してね?!」という上鳴の声が聞こえてくる。負け惜しみのようにひと声ないて去ってゆく、少し高い声の猫の声を最後に、俺の携帯は着信があったことを告げるLEDを点滅させて沈黙した。

 このまま素知らぬ顔をして教室に入れば、本当に誤魔化せるものなのか。今夜にでもナマエに報告してやろうと思いながら、俺は教室のドアに再び手をかけたのだった。