明日の私への呪い
非常に困ったことになったな、と思う。
日記の該当箇所を何度読み返しても同じ文字が並んだままだ。当たり前だ。この日記帳は別に特別なものでもなんでもなく、市販品の日記帳にこれまた市販品のボールペンで書かれたものだ。文字が消えたり浮かんだりするわけではない。
元は浄化の力で記憶が失われることの対策として書き始めたもので、その日の食事と出来事がつまみ食いをしたおやつや出会った人物まで事細かく書くことにしている。もし記憶が失われてしまっても日記を読み返すことで失われた分をフォローし、他の皆には悟らせないようにするためだ。
問題の内容の日付はちょうど一ヶ月前。そのページの最後に書かれた八文字。
『好きな人ができた』
自分は人知れず誰かを好きになり、そしてその人物が誰かを忘れたらしい。
前後の日記から察するに自分はその誰かを好きになっても告白するなんて真似はしなかったようだ。もしかしたら将来その相手のことを忘れてしまうかもしれないというのに新たな関係を築くというのは博打が過ぎる。今の自分が同じ状況になったとしても同じことをするだろう。
だが一つ理解できないのは、わざわざ『好きな人ができた』なんて書く必要があったかということだ。どうせ自分は何も行動しないのだし、記憶が失われた時のことを考えればなおさらそんな必要ないだろう。
じゃあ何故?
いくら考えても答えは記憶と共に失われている。日記を何度見返してもそれに関連する記述は見当たらない。唐突に綴られたその八文字を、自分がどんな気持ちで書いたのか。やはり分かる気がしない。
いつも通りの些細な質問のつもりだった。切り捨てられればそれはそれで構わない。そんなつまらないやり取りだ。
「人を好きになるってどういうことだろう」
向かいの席で無言のまま読書をしていた航大にそう尋ねる。
「何故俺に聞いた」
「そこに航大がいたから」
「命が惜しくないのであれば加茂にでも聞け」
航大は本に視線を落としたまま淡々と答える。だが質問のきちんとした返答にはなっていない。まぁ航大だから仕方がないか。そう一人で納得する。
「それを」
話は終わったのだろうと思っていたが違うらしい。航大はまだ会話を続けるつもりがあったようだ。
なんて珍しい。じっと航大を見つめて言葉の続きを待った。
「それを聞いてお前はどうするつもりだ」
「どう……どうするんだろう?」
なんとなく聞いてみたかっただけ。本当にそれだけだ。でも思えば航大に非情に答え難い質問をしてしまったような気がする。
「まぁいい。他人を好きになるとはどういうこと、か。一応聞いておくが、どういう意味だ?」
「どういう?ああ、恋愛的な意味でかな」
「そうか」
航大はそれを聞くと読んでいた本を閉じる。赤い目がやっとこちらを向いた。
「意味など無い」
一刀両断するその答えは非常に航大らしい。
「俺は翅文衆の頭領となるべく育てられたからな。好きになったところでそれが変わるわけではない。第一好いたところで自分の弱味になるだけだ。怨みは職業柄腐るほど買っている」
いまいち意味が分からない。別に好きになったならそれでいいのではないか。そう疑問に思っていると察したように航大が言葉を続ける。
「他人を好きになったところで別に何もない。頭領としての職務を全うし、どこぞの女と子を残し技を継承する。そうやって衆を守るのが責務だ。主も似たようなものだろう」
そういえば自分は桜狼衆の当主ということになっている。やはり世継ぎとかそういうものは残さなくてはいけないのだろうか。
「まぁ主はあまり気にすることはない。自分が正しいと思ったことをすればいい」
「航大は近いうちに結婚するのか」
「知らん。どうせ放っておけば古株どもが縁談を山ほど持ってくるだろう。必要になったらそこから選べばいい」
「航大の感情はどうなるんだ」
航大は平然と口にしたが、そんなことは無いだろう。第一らしくない。航大はもっと自分の我を通す人間ではなかったのか。
「それこそ意味など無いな。俺の感情一つでどうこうする問題ではない」
話はそれで終わりだと航大は再び本を開いた。花の模様の栞が抜かれ、テーブルの上に置かれる。
もっと何か言ってほしい。そんなのは悲しい。だがどう言ってもきっと航大には届かないのだろう。やけに悔しくなって膝の上に置いていた手に目線をやる。
ああ、と何か思い出したかのように航大がもう一度だけこちらを向いた。
「好きになるというのは一般論だが、相手が欲しくなることや相手の幸福を願うことらしいな」
日記を開く。新しいページにその日の出来事を一つ一つ思いだしては綴っていく。
くだらない会話や食べたもの、つまみ食いをしたおやつまで抜けなく一つ一つ。
ふと航大との会話を思い出して手が止まった。どう書いたらいいかよくわからない。上手くまとめられそうにない。
仕方がないので後回しにして他の出来事を思い出しながら書き綴る。
そうして全て書き終わったのちに、もう一度航大との会話を思い出した。
何故自分は航大にそこまで食ってかかったのだろう。何故悲しかったのか。悔しかったのか。
自分は航大にもっと幸せになってほしかったのだ。好きでも無い相手と結婚をしてほしくなかったのだ。
他人を好きになるというのは、こんなに苦しいことだったのか。文字を綴るペンが自然と止まった。
ページにはまだ余白がある。だが余白全てを埋めなければいけないということない。必要な分だけ書いておけばいい。
自分が正しいと思ったことをすればいいと航大は言っていた。なら自分はそうすることにしよう。
『好きな人ができた』
きっとこう書くことに意味など無い。航大の言っていたことも間違いじゃないな、そんなことを思いながら将来の自分を静かに呪っていた。