それでもどこか引っかかって


記憶を失うまでの自分が使用していた携帯端末は見つからないままだったが、奇跡的に財布は無事だった。そして自宅の引き出しに管理されていた通帳は当然のように無事だった。
通帳にはどう稼いだか少しもぴんとこないが当面の暮らしは保証されるような金額が残っていた。記憶を失っているせいか物欲もあまり無い自分ならつつましく生活していけば一年はゆうに生活していける。
しかしそれに甘えるのはどうなのか。毎日を無為に食い潰す生活というのはあまりにもよろしくない。自分は記憶を失っても「まぁそうか」で終わらせてしまうような鈍い人間ではあるけれど、過ぎた怠慢を享受するような人間ではなかったらしい。自宅に戻ってから一週間もしないうちにアルバイト先を見つけていた。


選んだバイト先は喫茶店。チェーン店ではなく個人経営で小規模のコーヒーに拘りを持った店主のいる店だ。尤もそんなことを確認すること無く店頭に貼ってあった手書きのバイト募集の張り紙を剥がし、店の中へと飛び込んだのだけれども。
その時は客がちょうど途切れた時間だったらしく、ブレンドコーヒーを出され歓迎されつつ面接は行われた。開幕で記憶喪失であることを告げたが嫌な顔はされず心配されたのみで、自分も大概ではあるがこの店主もなかなか細かいことには拘らない人間性をしているなと思ったものだ。

「どうしてうちでバイトをしようと思ったんだい?時給だけだったら駅前のチェーン店の方が高いよ」

同じ飲食店の接客業なら近くのファミリーレストランの方が待遇がいいとも言われた。けれどそっちに行こうとか、そっちの募集も見てみよう、などという気持ちは不思議と起こらなかった。

「この店がいいと思ったんです」

そう答えたのは決して嘘ではなかったけれど、真実とも違う気がする。希望や憧れではなく、懐かしいといった方が近い気がしていた。






記憶を失って入院生活を終え、ささやかな賃金を稼ぐ日々を続けていると、すぐに季節は過ぎていった。

喫茶店で働き始めると店主によく褒められた。少し古いコーヒーメーカーを何の説明も無く使いこなしているだとか、軽食を作る手際が良いだとか、食器を運ぶのが上手いだとか。どうやら自分の感じていた懐かしさは喫茶店で働いていた、ということなのだろう。店長も経験者に違いないと太鼓判を押していたし。
そんな過去の断片を感じることは何度もあった。記憶が消えても身体に沁みついた経験があるのだろう、たとえば家で夕飯を作る際、何故か皿を何人分も並べている自分がいる。そして自然と一人で食べるには多すぎる量を作ってしまうのだ。調理の最中に余った食材を皿に乗せて床に置く癖も治らない。引き出しからあるはずもない誰かの箸を探している時もあった。それでもその誰かの顔も名前も浮かんでこない。まるで喉の奥に小骨が刺さったまま抜けないような、そんな気分になる。
何もない日々を過ごしていくのは嫌いではない。むしろ望むところだと思う。


けれど何故か、いつも胸には漠然とした違和感と喪失感があった。






からんからんと扉の鍾が来客を知らせる。やってきた客は顔立ちの整った男性だった。しかしその顔立ちも不機嫌そうな表情と冷たい視線で台無しのような気がしなくもない。
こっそりとそんなことを考えながら窓際の席に案内すれば「お決まりの際にはこちらのベルか声をかけてください」なんていうテンプレートな台詞を言う前に「ブレンドで」と先に言われてしまった。メニューすら見ていないのに、などと突っ込む店員は勿論いない。もしかしたら自分が知らないだけでこの店の常連なのかもしれない。
エプロンのポケットからメモを取り出し、オーダーを書き込む。この店にはハンディターミナルなどという高性能機器は存在しておらず、そもそも存在していたところで店自体は大体二人程度(今は他のバイトもおらず店長は出かけているので自分一人なのだが)で回しているため意味がない。
テーブルの横に差してあるオーダークリッパーを手にしてから「少々お待ち下さい」とカウンターまで下がる。その間には男性は席についており、手荷物の中にあったのだろう本を開いていた。片手で容易に開けるだろうサイズと挿絵からしてライトノベルの類だろうということが伺える。何故だか、らしくない、と思った。それを追求しようと考える前に自分の職務を思い出す。注文を受けたのだから早く容易しなければ。もう一度男性を盗み見てから蒸らしたコーヒーにもう一度お湯を注いだ。


男性はコーヒーのおかわりを注文し、尚且つ今度はサンドイッチまで注文した。店長は見事に帰ってこず、他の客が来店する様子も無い。
正直に言って、非常に居心地が悪い。これが常連客であるのならば世間話のひとつも出来ようが、相手は今日初来店の話かけるなと言わんばかりの男前だ。下手に声をかければ逆ナンにでも勘違いされるのではないだろうか。
店には店長の選曲したピアノの古いジャズが流れ、それに一定の間隔で男性のページを捲る音が混じっている。バイトをしている最中にうとうとするなど言語道断であるけれど、あまりの暇さも相まって意識を手放してしまいそうになる。居心地は悪いしやることも無い。男性はまだ帰る気配を見せないし他の客もこない。
自分も一杯だけコーヒーを貰おう、そう思いいくつかの豆を測り容器へと移す。店で商品としては出さないけれど、店長に褒められた特製ブレンドだ。特製とは名ばかりの感覚配合だったりするのだけれど、その感覚で配合されたコーヒーは不思議と飲み慣れた味がした。これもまた自分が喫茶店で働いていたのではないかという推測を強めた一つでもある。

「そのブレンドを」

気がつけばテーブル席に座っていたはずの男性はいつの間にかカウンター席に移動していた。よほどコーヒーに目が無いのだろう。
もうしばらくお待ちください、と別の容器で本来のブレンドを用意しようとすると「違う」と低い声で否定された。

「今淹れている、あれだ」
「申し訳ありません、お客様。あちらは商品では……」
「金は払う。あれがいい」

個人的に飲む為なんですよ、とも言いきれずに仕方なく二杯分、自分と男性にコーヒーを淹れると男性は満足そうに微笑んだ。鋭い切れ長の瞳が細められ、むっつりとした口角はわずかに上がっていた。

「実はこれ、私がブレンドしたんです。商品じゃないけれど、その、できたら感想を貰えたらな、と」

そんなことを言いながらへらへらしていたと思う。へらへらしながら、酷評されなければいいななんて考えていた。

「……ああ、この味だ」

満足そうに微笑んでいた男性はコーヒーを口にすると形のよい眉をハの字に下げて、困ったような表情をした。その様子に、私は何故かへらへらすることも質問をすることも出来なくなった。喉の奥がぐっと詰まるような感覚に声を出すことも出来ない。

「美味い」

男性の感想にありがとうございますと返事をしたくても、言葉が上手く出てこない。
その時、初めて男性と目があった。
ちらりと見ただけでも男前な男性はじっくり見てもやはり男前で、席に案内した時の冷たさはもう無い。愛情の篭った優しい眼差し。彼の瞳が紅いことにそこでやっと気がついた。


その瞳に、何故かとても見覚えがあることにも。

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