あの日見た光景が

もう数日でクリスマスを迎えるというにも関わらず、自分はひとりで街を歩いていた。
今日は店は定休日で久々の休日であるけれど、家に独りでいるというのも寂しい。それにクリスマス当日はどうせ店を開けるのだからイルミネーションを楽しむということも出来ない。
クリスマス前ということもあり街にはカップルが溢れており、店頭にはクリスマスフェアと書かれたポスターが貼ってある店が多い。母親と手を繋いで歩く子ども。恋人にプレゼントを選ぶ男性。寒い中サンタの衣装を着てケーキを売る女性。子どもへのプレゼントを下げて歩く父親。人々に活気があり、思い思いのクリスマスを楽しもうとする空気がなんとなく心地よい。過ごす相手がいなくとも不思議と楽しい気分になるものだ。
ショッピングモールの中心にある一番大きな木には派手なイルミネーションが施されておりてっぺんには星が飾られていて、暗くなったら派手に点灯するのだろうと予想が出来る。点灯するまで時間を潰して見てから帰る、というのもいいだろう。気分を出すために数日早いクリスマスをチキン片手にひとりで楽しむのも多分悪くは無い。
記憶を失って目覚めて、もう季節は二つ進んでしまったけれど、記憶は一向に戻らない。ふとした時に感じるデジャヴや、身についた習慣から過去の痕跡をほんの少しだけ感じることが出来ても、決定的なことは何も思い出せない。元の交友関係、勤務先、恋人の有無、どれもこれも分からないことばかりだ。

「去年はどう過ごしていたんだろう」

ぽつりとツリーを眺めながら呟く。幸いにも独り言は街ゆく人々の話し声と足音、そしてクリスマスソングにかき消された。
思い出せないものはどうしようもない。カウンセリングの先生も手を尽くしてくれているのだから。
感傷的になってしまうのは多分お腹が空いているせいだろう。敵情視察も兼ねて喫茶店にでも入ろうかと思っていたところで、甲高い声がクリスマスソングをかき消して響いた。


「逃げろ!妖魔が出たぞ!」


皆が悲鳴の先から逃げるように走っていく。けれど自分の足は何故か悲鳴の上がった方へと向かっていた。









蜘蛛の子を散らすように逃げ出す買い物客に逆らい、どうにか悲鳴の先に辿りついた頃にはもうその場にほとんど人間はいなかった。足をくじいたのか動けず蹲る女性が震えながら身を縮め、何かから隠れようとしている。
その“何か”は背中から蜻蛉のような羽を生やし、腕には蟷螂のような鎌をつけていた。これが人間サイズでなければここまで阿鼻叫喚の図になることはなかっただろう。その化け物は何が気にくわないのかアクセサリーショップの商品棚を破壊し、最後にはショーウィンドウを突き破って店の外へと出てきた。
妖魔。誰かが逃げろと叫んだ言葉が頭の中で反響する。あれは妖魔という化け物、それを私は知っている。いや、知っていたはずだ。
妖魔が近くに駐車してあったトラックをひっくり返すと、身を縮めていた女性は悲鳴を上げた。それに反応したように妖魔は羽を何度か震わせた。そして動かぬトラックに興味を無くし、女性の元へと近づいて行く。女性は震えながら必死に這いずって逃げようとしているが、妖魔の動きの方が明らかに素早い。

「やめろ!」

とっさに足元に落ちていた空き缶を妖魔の方に投げると大きな赤い複眼でこちらをとらえる。妖魔を恐ろしいとは感じない。感じないが自分にあれを倒すことは出来ないという確信はある。
ともかく逃げなければならない。そして人のいる場所から離れなければいけない。

「こっちだ!虫けら!」

大声でそう叫んでから人通りの少ない方へと走り出す。言葉が通じるのかは分からないがやらないよりは多分マシだ。
人が急いで逃げ出してぶつかり合ったせいか道には買った荷物やら飲み物のゴミが散乱していた。それを避けるように進むと後ろから確かにドス、ドス、という一定の足音が聞こえてくる。まだあの妖魔はこちらを追ってきているのだ。

「そんなんじゃ追いつけないぞ!鈍間!」

声を張り上げながら走るのは割ときつい。息が切れそうになるがそれでも止まった瞬間に妖魔に追いつかれ、殺される。命の危険が迫っているというのになんだかそんなに怖くないのが不思議だ。まるで、これが日常茶飯事のようで。変わらずに流れ続けているクリスマスソングが極めてシュールで、緊張感を失わせているせいかもしれないが。
気がつくと足音は消えている。嫌な予感がして振り向けばブブブブブという音と共に妖魔は飛んでいた。羽が生えていることを完全に失念していた。歩いている時よりも明らかにスピードが上がっている。

「うそでしょ……!」

後ろを気にしつつ走るが、相手にはスタミナの概念が無いようでこちらを追うスピードが落ちるどころか上がっている。対してこちらはもう限界が近い。
射程圏内に入ったと確信したのだろう。妖魔は両手の鎌を後ろへ振りかぶり、こちらに突撃してくる。あんなものを身体に受ければ無事では済まないどころか確実に命を落とすに違いない。
こうなったらこちらもスピードを上げるしかないと脚に鞭を打とうとした瞬間、確認できなかった足元の何かに躓いた。歩いている時ならともかく、走っている状態で転ばないというのは難しい。そのまま思い切り倒れ込むと、頭上でブォンという何かが風を切る音が聞こえ、断ち切られた髪の何本かが宙を舞った。

「ッ……!」

つ、と汗が額から頬を伝い、服へと落ちる。立ち上がらなければと思うのにこの土壇場で腰を抜かしてしまったらしい。
妖魔はそんなことお構いなしに目の前に降り立つと恐怖を煽るようにじりじりとこちらとの距離を詰め、極めてゆっくりとした動きで鎌のついた腕を振り上げた。こちらも必死に後ずさるが腰を抜かした相手など遊んでいても追い付けるに決まっている。

これは助からない。

だけど何故だろうか。自分は死を目前にしても恐怖ではなくて焦りの方が勝っていた。
こんな光景を私は見たことがある。そう断言出来る。

妖魔に追われ、ひとりで逃げる。だけど追いつかれて……。

もう少しで思い出せそうだが、思い出す前に確実に妖魔の腕がこちらに落ちるのが早い。
どうせ死んでしまうのなら思い出したい。自分の過去のことを一つくらい、何か。

あの時もそうだ。助からない、そう思ったのだ。だけどあの時、誰かが助けてくれた。
一体、それは誰だったか。

空を切る音がし、黒い何かが妖魔に突き刺さる。昆虫のような体液が傷痕から飛び散り、妖魔はたまらず悲鳴を上げた。


「大丈夫?!怪我は無い?!」


おひさまのようなオレンジ色の頭に人を寄せ付ける甘いマスクをしたその人は背後から軽々と私を抱えると妖魔から距離を取った。一応自分は女だけれど特別軽い方ではない。だけどこの人は今こちらを抱えたまま飛んで距離を取らなかったか。
何より異常なのはその格好だった。時代劇で出てきそうな装束と武器はまるで忍者ではないか。

「おい、何をモタモタしている。早く結界を張れ。これ以上街を破壊される前に仕留めるぞ」
「そんなことよりも、だって!」

オレンジ頭の人は優しくこちらを下ろすと後から現れた人物に抗議をする。短い黒髪に恵まれた体躯、そしてその声には聞き覚えがあった。赤い目をした、一度だけ店にやってきた男性客。私の淹れたコーヒーを美味いと言ってくれた人、その人だ。態度も声色も眼光も同じだから良く分かる。

「……一般人など放っておけ。こっちはこっちの仕事を終わらせるぞ」
「わかったよ」

不服そうな声で返事をしたオレンジ頭の人はこちらに振りかえり「危ないからここからなるべく離れてね」と微笑んだ。人好きのする柔らかい笑みは赤い目の人の持ち合わせていないものだ。
そうして微笑んだ後、妖魔の方へと向き直りそちらへと歩を進める。危険だから止めた方がいい、とは思わなかった。何故なら彼らがあんな奴らに負けるとは何故か到底思えなかったからだ。
二人が妖魔に近づくと、どういう原理か二人と妖魔はその空間から消え失せた。
残されたのは破壊されたショッピングモールとスクラップにされた車、そして腰を抜かした私だった。

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