無くていいわけじゃない
「……まぁ、メシ食えや。冷めたら不味くなる」
「お言葉に甘えて、いただきます」
手を合わせてから一先ずコーヒーを口にする。喫茶店で働いている者として味で負けられないという理由から飲んだその味は、非常に覚えのある味だった。具体的に言うのであれば、私のブレンドによく似た味がする。
「どうした?ぼーっとして。変な味でもしたか?」
「愁さん、あの」
「愁でいい。さんなんて付けられるとむず痒いしな」
「じゃあ、愁。あの、私は」
ここにいたことはもう間違いが無い。黒鐘さんの証言とコーヒーの味。ここで私は働いていた。それも身体がコーヒーの淹れ方を覚えているくらいに。
「まぁ食えや」
愁はあからさまに答えを濁した。濁して食事を促す。湯気の出ているスープは確かに冷める前に食べた方がよさそうだし、それに色々あって失念していたがお腹は減っているのだ。
とりあえずとサンドイッチを頬張ると向かいの席に座った愁がじっとこちらを見ていた。
「美味いか?」
そう問われて素直に頷く。野菜はシャキシャキしているし間に挟んである手作りであろうマヨネーズも絶妙だ。ただ難点を上げるのであればコーヒーや紅茶にではなく酒が進みそうな類の味ということだろうか。
「ならいい。ほら、どんどん食え。もし足りなけりゃケーキもう一個付けてやる」
「そんなに食べたら太るから大丈夫だ」
「もっと太ったって平気だろ」
「平気じゃない」
愁の料理はとても美味しい。料理人の作った料理、という感じではなく家庭の料理という味がする。ほっと安心させてくれて、自分は高級なレストランよりもこっちの方が好きだなと感じた。
「ほんと、美味そうに食うよなぁ」
「前と同じように?」
「……そうだな」
観念したように零した愁は居心地悪そうに首に手をやった。
「おまえは前から全然変わってねえ。馬鹿正直に相手を信じるとこも懐の広いとこも、無駄に漢気のあるとこもな」
まるで親が子を見るかのように慈しむような目で愁は私を見る。そんな彼のことを私はほとんど何も覚えていないのが心底口惜しい。
「なぁ、おまえどうしても記憶を戻したいのか?」
その問いに頷くと「まぁそうだよな」と愁は返す。
「だけど失ったっつーことはよ、別にあんたには必要無かったんじゃないか?」
違うと首を横に振って強く否定する。口にサンドイッチの二切れめが入ってなければ怒っていたところだ。
「無くても生きていける荷物なら無い方がいいだろ」
口の中に入っていたサンドイッチを急いで咀嚼し、飲み込む。それから思い切り息を吸って反論の言葉を吐いた。
「それとこれとは話が違う。大事なものっていうのはそれがなきゃ生きていけないって意味じゃない」
強い口調で言えば愁は気まずそうに「言いすぎた」とこちらに謝罪した。いや、むしろ謝罪すべきはこちらだろう唐突に感情的になってしまった。その旨を謝れば首を横に振られた。
「おまえは俺や他の奴らのことを思い出したい、そう思ってくれるんだろ?……なら、もういいのかもな」
愁は自分用に淹れたコーヒーを口にする。色合い的にミルクが入っているようには見えなかった。
「聞きたいことがあるなら聞け。それでどうするか決めろ。そもそもおまえのことなんだ。決定権はおまえにあるべきだろ」
「……ありがとう」
食事をしながら彼は私の身の上話をしてくれた。衆の当主の家系に生まれたらしいが、幼い頃に身内を皆殺され、屋敷を焼かれたらしいこと。そして桜狼亭の店主であるカガリという人物に出生を隠され育てられたこと。この桜狼亭で生活していたこと。
「でもそれだとおかしい。だって私の部屋の日記にはそんなこと」
「あの部屋用意したのは俺達だ。調理器具は俺が選んで、小物は譲彦とかが選んでた。んで、前からそこで生活してた体を装うために色々仕込みをしたってわけだ。まさか日記まで用意してるとはな。つーか筆跡とかよく真似したもんだぜ」
愁はやれやれと言わんばかりだったが、その言葉に納得する。あの部屋に初めて戻った日に感じた違和感は正しかったのだ。あの日初めて訪れた部屋であるのなら、ガスの元栓の場所が分からなくても当然だろう。
「あんたは自分の記憶を代償に他人を助けてた。あんたにしか出来ないことだからって、最後まで黙ってやがったんだ。信じられるか?」
「……」
「ああ、いや、怒っちゃいねえよ。いや、ほんとは分かった時ハラワタが煮えくりかえるほど腹が立ったけど、あんたがそういう奴だっていうのは分かってたからな。そりゃあそうするだろう、って今では納得してんだ。今ではな」
そう言った愁に怒った様子は見受けられない。それが諦めなのかは分からないが、ただ困ったように苦笑していた。
「もしかして、この記憶喪失の原因は」
「察しの通り力の使い過ぎだ。何もかもすっぱり忘れるくらいあんたは力を使ったんだよ」
あんたにしか出来ないことだったからな。そう愁は続けた。
私にしか出来ないこと。それで他人を救えるのならと自分は力の行使を続けたのだろう。他人には出来ないことだから、と。
「忍の世界っていうのは血生臭いことが山ほどある。そんな世界に引っ張りこんじまったのは俺達だ。だからこの機会に元の普通の生活に戻そうとしたわけだ」
「そういえば話合ったって」
「別に大したことは決めてねえ。ただ遠くから見守って接触はしないって決めただけだ。ま、長く持たなかったけどよ」
サンドイッチとクラムチャウダーを平らげ終えると、「ケーキはまだ自信がねえんだ。微妙だったら悪い」と言われる。そんなことがあるかと小ぶりのフォークでブッシュドノエルを切り崩せばやはり美味しかった。
「こんなもんだな。……んで、あんたには二つ、選択肢がある」
選べるのは一つだけだと愁は言う。
「まずはこのまま何も見なかった聞かなかったことにして平穏に暮らす。今は公安とも繋ぎがあるし、多分なんとかなるだろ」
公安とかいう聞き慣れない物騒な単語が聞こえた気がする。なるほど、と一度頷くと愁は続きを話始めた。
「二つ目。失った記憶を探して元の忍の世界に戻ってくる。ま、その前にやらなきゃいけないことがあるけどな」
「やらなきゃいけないこと?」
「あんたの力を取り戻す、っつーかあんたに掛かってる術を解かせるっつーのが正しいな。まずはそっからだ」
どうしてそんな面倒なことを。もごもごとケーキを口に頬張っていると愁は吹き出しそうになっていた。
「余計なもんが見えると普通の生活を送るのに不便だからな。だからそういうモンが見えねえようにって掛けた奴がいるんだよ。しかもその手の忍術を得意分野にしてる奴な」
主の素質のある場合、相性のいい忍が目くらましに掛けている幻術が聞かず、忍装束が見えるらしい。そして素質の非常に優れていた私は大体の忍と相性が良かったのだ、とも。
「そんなあんたが今は俺も普通の格好に見えてんだろ?」
「うん。普通にピンクのエプロンをつけた店員に見える」
「……そうかよ」
ピンクという言葉が効いたのか愁は微妙そうな表情をした。
「まぁともかく。そいつに会って説得すんだな。言っとくが一番めんどくせえ奴だぞ」
「そうなのか?」
「おまえには態度が違うかもしれねえけどよ」
まぁ頑張れや。そう言って愁は向かいの席から手を伸ばし、こちらの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「んで、主ってまた呼ばせろよ」