たったひとつだけ
『おそらく今日を逃すと徹底的にあんたを避けるだろうから、チャンスは今日だ。気張れよ』
そう、愁は言っていた。
そして言われた場所のベンチで座って待っている。こんな場所に座っていて見つけられるかほとほと疑問だが愁もこんなときに嘘をつく人物じゃない。信用に値する人だと第六感が言っている。
『あんたも見たことのある奴だ。だから見りゃ分かる』
忍を判別出来る能力はその相手によって幻術にかけられていて使えないが大丈夫なのだろうか。大時計を見るともう4時をまわっていた。
『あいつこっちに来てもここ最近は地元に戻ってるからな。多分今日も帰ると思う。だからそこで待ってろ』
ナゴヤ方面の列車のホームは帰宅ラッシュより早い時間帯のおかげか比較的空いている。おかげで長時間ベンチに座り込んでいても誰の迷惑にもならない。
冬の寒さに耐えかね待機を始めてから30分で購入した安っぽい缶コーヒーはとっくに冷めきっていた。そのせいかあまり美味しくないコーヒーが更に微妙な味に感じる。
飲み切った缶をゴミ箱に投げ込むわけにもいかずに大人しく立ちあがると、その人はやっとやってきた。
愁から外見の特徴を聞いたわけではない。ただ彼は『見りゃ分かる』の一点張りだった。からだ。
だけどやはり頭のどこかで覚えているのか、ここに誰か来るとしたらきっと彼だと思った。
アルバイト先の喫茶店に一度だけやってきた人。
そして今日再び出会った人。
赤い目をした男性だった。
男性の機嫌は最悪で、血を這うような「何故ここにいる」という言葉が聞けた。先に話かけてくれたのだから掴みはばっちりだと前向きにとらえておく。
「ここで待っていれば会えるって聞いたから」
「この寒い中?馬鹿か貴様は」
「だって今日を逃したらもう会えない気がして」
赤い目の男性は理解できないものを見るような目でこちらを見る。こっちだってそんな目で見られても退けないものは退けないのだ。
「幻術を解いて欲しい」
「術?何を言っている。気でも狂っているのか?」
彼はわざとこちらを馬鹿にした言葉を選び、侮辱する。そうすれば私が怒って帰ると思っているのだ。そんなわけがない。そもそも侮辱されて帰る程度なら寒い中、風通しの良いホームで二時間も待ってはいない。
「あなたなら話が理解できるはずだと思う」
「……」
幸い周りには他に人がいない。電車が来る直前でもなければ好き好んで寒いホームで待機している人間なんて早々いないからだ。
そのおかげで例え変な会話をしていても周囲を気にする必要は無い。
「何故だ」
「なにが?」
「何故忍の世界に戻ろうとする。第一お前は記憶を取り戻せていないだろう?戻る意味がどこにある」
「記憶を取り戻すために、今まで過ごしていた場所に戻ろうとすることはおかしいことか?」
ハッと赤い目の男性は鼻で笑う。
「ああ。可笑しいな。どういう世界か分かっているのか?裏切りや殺しの横行する世界だぞ」
「普通の人でも誰かを裏切るし、殺人を犯すこともある」
「そんなへ理屈が通るか。それにお前は当主だ。その行動には責任が付きまとう。記憶を失って自分が今まで何をしてきたのかも分からぬ癖にそれを負うと、そう言うのか?」
「必要なことなら」
「もうお前が出てこなくても世の中は平和だ。分かるだろう」
「平和の為に誰かを助けるんじゃなくて、誰かを助けられるから助けるんじゃないのか?」
言葉を返せば返すほど、赤い目の男性の機嫌は悪くなる。それでも口を閉ざした瞬間にこの人を説得することはできなくなると思った。
「大切な場所に戻りたいと思うのはおかしいことじゃないだろう」
だから私は自分で望んで元いた場所に戻りたい。そう言うと先ほどまで淡々と言葉を返していた赤い目の男性は言葉を荒げた。
「大切?笑わせるな。何が大切だ。貴様がやったことを理解していないだろう!お前は俺や他の忍共と名前も知らぬ有象無象を秤にかけ、有象無象を取ったんだぞ?有象無象の為に忘れ去ることの出来るモノが何が大切だと言うのか。そんな貴様には有象無象の世界で何もかも忘れて暮らすことが似合いだ」
「それは違う。忘れ去ったことは大切なものじゃない?そんなことはない。もし、忘れたことが大事でもなんでもないものなら、私は今こんなに苦しくなっていない!罪悪感を抱いたりしてない!胸が苦しくもなっていないんだよ!」
『失ったっつーことはよ、別にあんたには必要無かったんじゃないか?』
愁の言った言葉が思い出される。確かに『必要』では無かったかもしれない。無い方が楽なのかもしれない。
だけど、それが大切かそうじゃ無いかは持ち主である私が決めることだ。その価値は他の誰にも決めることは出来ない。
分かっている。これはただの言い訳だ。彼の言うことは正しいし、怒って当然だ。そしてもう二度とそんな真似をさせるまいと忍の世界から遠ざけるのも彼の思いやりからだろう。
だけどそれでも、そのままでは私は皆を思い出すことが出来ない。
「それにお前が元の環境に戻ったところで記憶が戻る保障など無いだろう。現に俺に接触をしてもお前は俺のことを何一つ思い出してはいない、そうだろう?」
「……」
「図星だな。諦めろ、お前がどう言おうとも俺はお前に掛けた術を解くつもりは無い」
無駄な時間だったな。そう彼は言い捨てると背を向ける。もうすぐ列車が来るのかホームには人が増え始めていた。
彼のことで明確に思い出せたことは何一つ無い。
だからって一緒にいることは無駄なのだろうか。本当に失った記憶は取り戻せないのか。
そんなことは無いはずだ。でなければこのぽっかりと空いた穴は一体どう埋めればいいというのだろうか。
「そんなことない。思い出せる」
「出来るわけがない。適当なことを言うな」
赤い目の男性の名前は思い出せない。職業も分からない。誕生日なんて以ての外。血液型も、好きなことだって。何も。
だから大事になんて思っていなかった?そんなわけがない。この人が大事じゃなければ、大切に思っていなければ、今嫌な汗を掻きながら必死にこの人の為に思い出したいと、そう思う自分がいる理由の説明がつかない。
間もなく列車が到着するというアナウンスがホームに響く。時間がもう無い。赤い目の人は背を向けて白線の内側に立ち本を読んでいる。こちらの話を既に聞く気が無い。
「待って欲しい。もう少しだけ話を」
「無駄だ」
懇願もすげなく断られる。
名前、思い出せない。
職業、思い出せない。
誕生日、思い出せない。
趣味、多分読書じゃないか?
特技、分からない。
列車が到着し、扉の前へと乗客が集まってくる。その中に赤い目の人も混ざってしまう。
何かせめて最後に言わなければ。彼の行く先、ナゴヤ。ナゴヤ?
「あっ……!そうだ!」
扉が開いて彼は中へと歩き出す。列車から降りてくれるとは思わなかったがこれだけは伝えておきたかった。
「ナゴヤの、美味しいお寿司の店!まだ連れて行って貰って無いよね?!」
必死に頭を巡らせて、思い出せたのがこんなしょうもない約束一つだけだ。そんなしょうもないこと一つを思い出すだけなのに相当体力を使った気がする。列車のドアが閉まり、音を立てて目的地に向かって発進していった。
赤い目の彼に聞こえただろうか?せめて聞こえていればいいのだが。脱力して崩れ落ちそうになりつつもとりあえず先ほどまで座っていたベンチに戻ろうとすると背後から不意に声がした。
「おい」
列車に乗ってナゴヤへと帰ったはずの赤い目の人は、先ほどとあまり機嫌の変わらなさそうな表情でそこに立っていた。つまり、すこぶる悪いということだ。
「何故、と言いたそうだなァ?それくらい自分で考えろ」
ガッと鈍い音がして頭に鈍痛がはしる。おそらくは本の背で殴られたのだろう。たまらず頭を押さえてその場にうずくまった。
「いったぁ……」
「下らん」
なにも殴るほどのことじゃあ。そう抗議しようと思い立ちあがり、彼の方を向くと先ほどとは格好が違っていた。
「『忘れても、きっといつか思いだせる。だって皆との記憶は大切な思い出だから』……お前の記憶が全て消える前に言い残した言葉だ。まさか本当に思いだすとはな」
そう言うと彼はベンチに座りこんだ。
「それで?俺の名前は思い出せたのか?」
「……」
「理解に苦しむ主だ」
だが、まぁいいだろう。彼がそう呟いたのを私は聞き逃さなかった。