11
カリナが邸に戻って来たからといって、何かが変わったわけではなかった。相変わらず朝早くから夜遅くまで仕事で出かけていて姿など見えない。以前のように言葉を交わすことも、すれ違うこともなかった。
ただ、朝のベッドの中で夢うつつに邸の扉が開閉する音だけは聞こえていた。だからおそらくここに帰って来ているのだろうということだけはわかった。
ぼんやりと開けた眼からは涙などこぼれない。泣いたところで、それを見つける人などいないのだから。
「姉さんはやっぱり、昔とは変わっているのかな」
『うーん、あの時でも背は小さそうでしたからね。もしかしたらまた伸びてるかもしれませんよ』
「僕だって、少しは伸びた」
マリアンにはまだ少し届かないけれど、年々僅かにだが背は伸び続けている。だからきっとカリナにだって近付いているはずだ。
ぷぅっと膨らました頬にシャルティエが笑う。
――と、怪訝な顔をしたメイドがエミリオを呼びに来た。珍しくヒューゴが呼んでいるという。
未だにこの邸の使用人たちはシャルティエの存在に半信半疑だ。その中であんな風に声をかけてくれたカリナの、なんと異質だったことか。
エミリオにシャルティエを与えたはずのヒューゴはソーディアンの人格について何も言わない。性能にしか興味がないのだろう。何度か、ヒューゴが剣の稽古をつけてくれたことがあったが、ソーディアンの扱い方についてはシャルティエが首をかしげるほど詳しかった。
そんな合理主義的な父は、執務室にエミリオが訪れても書類から顔を上げない。
「お呼びですか、父上」
「お前は明日から城で暮らすことになる。荷物をまとめておけ」
突然告げられた言葉に目を見開いた。
背に寒気がはしる。
「ど、どうしてですか?なにか、理由が…」
「お前を城に仕えられるよう国王に推挙して来たのだ。大将軍であるフィンレイがお前の稽古をつけるとも、な」
先ほどの不安が一転、喜びが胸に湧き上がった。ついに父に認めてもらえたのだろうか、などと思ってしまうくらいに。
今まで邸の中での業務しか与えられてこなかったエミリオには信じられないことだった。
それにあの七将軍の筆頭と名高いフィンレイが、エミリオの剣技を見てくれるだなんて!
喜びにいてもたってもいられなくなり、とにかく父に礼を告げようとした。――だが。
「ああそうだ、お前は今日からリオンと名乗れ」
「…え?」
「お前と親子だと知られるといらぬ警戒心を煽るのでな。この邸にも必要以上に近付くなよ」
話はそれだけだと、唖然としたエミリオに早く出ていけと手が振られる。
ゾクゾクと消えたはずの寒気がまた登ってきていた。見つめてみてもヒューゴはまた書類へと意識を戻してこちらなど見ない。
執務室を後にして、もう一度ぼんやりと父の言葉を反芻してみても、意味は上手く呑み込めなかった。
エミリオ=ジルクリスト。ヒューゴの息子であった自分の存在はどこへ捨てられてしまうのだろう。
目の前からいなくなったカリナではなく、幻だったのは自分の方かもしれない。
だって、セインガルドの人だって、この邸にエミリオがいると知らないかもしれないのだから。
まとまらない思考のまま、エミリオは日当たりの良い邸の角部屋に足を運んでいた。
昔から悩みごとがあったり落ち込んだりするとこの部屋で静かに足を抱えて座っていたものだった。もうここへは来ないくらい強くなれたと思っていたのだけれど。
「…母上」
クリス=カトレットが生前使っていたというこの場所は故人の部屋だと使用人も滅多に来ない。埃こそ積もらないよう管理されてはいるが、必要以上に人の立ち入らないこの部屋はエミリオに安らぎをもたらしてくれた。
大きなベッドと本棚がほとんどを占める小さな空間。
日差しが差し込み暖かい空気に包まれるここは、この冷たい邸の中で唯一安らぐ場所だった。きっと母のぬくもりの残滓があるのだとすがってみる。
母はエミリオのことを残していってしまったから、そんなものは知りようもなかった。
ただ、エミリオという名前だけが母との繋がりだったのに。
「リオン=マグナス、か」
馴染まない名前を呟いてみても悲しくなるだけだった。
誰とも繋がりのない名前なんて。
誰のものでもない名前なんて。
『ねえ、坊ちゃん。坊ちゃんの本当の名前は僕が覚えていますよ。マリアンだって、カリナさんだってきっと』
「…うん」
シャルティエが言うように、ほんのわずかでも覚えていてくれる人がいたら――自分が消えていくことにも耐えられるのだろうか。
それでも不安は消えなくて、いない母を感じたくて、本棚の本の背表紙を撫でてみた。
母はどんなものが好きだったのだろう?色褪せた背表紙の、読みにくくなったタイトルに目を凝らす。
「ん?これはなんだろう」
ひとつだけ雰囲気の違う本に目が止まった。他のものよりも小ぶりで分厚く、くたびれている。
取り出してみると薄れた金字が"Diary"と浮かんでいた。そして中表紙には、ペン字で名前が書かれている。
「く…りす、クリス?母上の、日記なのか?」
途端にうるさく鳴り出した胸の音を鎮めようと息を吐く。こんなところに母の痕跡があったなんて。
一言でもいいから、エミリオのことが書かれていたら。
震える手でページを一枚一枚めくる。
そこには幸せだった日々、やがて父の様子がおかしくなっていくこと、そして悔やむような文章が綴られていた。
「僕より前に、ルーティっていう女の子が生まれている。クレスタの孤児院にソーディアンと一緒に預けられたって」
『ルーティ?でも、坊っちゃんのお姉さんはカリナさんでしょう?』
「姉さんも僕みたいに名前を変えられたのか…いや、でも…これは」
もう一度日記を読み直してみる。
ルーティという姉であるひとの特徴を探してみる。エミリオと同じ黒髪に、紫色の目。それ以外になにかないかと――ふと、日付けに気が付いた。
「"ルーティ"が生まれたのは僕より二年前。でも、姉さんは…もっと歳上のはずだ」
『ま、まさか。それこそヒューゴ様に言われて年齢を偽っているのかもしれないじゃないですか』
「そうかもしれない。でも、そうでないかも…」
自分の声がひどく弱々しいものになっていた。
姉だと慕っていた人が、本当に赤の他人かもしれないだなんて。あの手のぬくもりが、かけられた言葉が、すべて偽物かもしれないだなんて。
自分の足下がぐらぐらと崩れていく。確かなことなど何もないのだ。
古びた紙の上に、いつの間にかいくつもの染みが浮かんでいた。
2016.08.22投稿
2017.10.23改稿
← →
back top